●ピカルディ地方 ランス(Lens)のルーヴル分館に行くために、通過しなければならないので、通過点として、いくつかの場所を訪問した。訪問する場所は、エール・フランス発行の「フランスの彩り」の推薦場所を参考にした。Laonのことを、「ラオン」と表記しているのは、誤りで、「ラン」がより正しい。
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●シャンティイ(Chantilly)ピカルディ地方
この城は、パリ郊外にあるので、パリから日帰りで行け、以前にパリ大に滞在中に、ジョリオ・キュリーの後継者であるパリ第6大学のシェムラ教授(M.Chemla:1927-2005)が、ご夫妻で、我々を、何度か、車で連れて来て下さっていたが、我々だけで来たことはなかった。今回、Roissy(シャルル・ド・ゴール空港)から、夜11時25分発の便で帰国するので、その近くにあるこの城を、パリ・ディズニーランドの後、旅行の最後に、訪問した。内部は以前に見たので、今回は、広大な庭だけを、夕方散策した。 城は、美術館であるグラン・シャトーと領主の居住部分であったプティ・シャトーに分かれ、後者の見学はガイド付きのみだが、未だ、行っていない。この城には、主にアンリ2世の息子の大コンデ公(le Grand Conde:1621-1686)や、フランス最後の王ルイ・フィリップの息子のオマール公(Henri Eugene Philippe Louis Orleans, prince du sang duc d’Aumale: 1822-1897)により蒐集されたものが収められている。大テラスの騎馬像は、当地生まれの、ルネサンス期の領主アンヌ・ド・モンモランシー大元帥(1492-1567)である;Anneは、フランスでは、普通、女性名であるが男性である。ウイキペディアでみると、子女は12人いたそうであるが、当時の権力者では、珍しいことではない。 城の栄光は、この人から始まり、ルイ14世下に、そのひ孫の大コンデ公が発展させた。大コンデ公の厨房長ヴァテール(Francois Vatel: 1631-71.4.24)は、コンデ公が、ルイ14世を始め、約1000人を招いた宴会で、魚介類の配達ミスがあったと勘違いして自害し、18世紀以来、料理人の鑑と賞賛されている。厨房は、現在レストランになっていて、シェムラ先生ご夫妻に、我々は、1994年に、ご馳走になったことがあるが、その時は、そういう歴史のあるところとは、全く知らなかった。意外に安いところだと先生は、言われていたが、実際の値段は知らない。 自殺の経緯を、ウイキペディアで調べてみた。歴史に残る3日間の祝宴で、コンデ公は、国王の歓心を買い、オランダ侵略戦争の指揮を自分に任せてもらう積りがあった。晩餐の2日目に、予定外の人数の多さから、肉の不足が生じ、ヴァテール(当時40歳)が、あまりに気にして詫びるのでコンデ公自ら、ヴァテールのもとに赴き、あまり気にするなと慰めた。3日目、ヴァテールが、朝4時に起きた現在、魚介類の到着量が少なく、8時まで待っても変わらなかった。実際には、前から、天候不順に備えて、シャンティーイから217 kmも離れたBoulogne-sur-Merなどフランス各地の港で、買い付けていたのを、彼は、極度の疲労で忘れていたらしく、祝宴の計画が破たんしたと思い、自室に閉じこもって剣で3度突き刺して自殺してしまった。死んだと同じごろ、沢山の魚介類が届いて、祝宴は予定通り行われた。祝宴のことは、長く、語り伝えられたが、実際に参加した人たちからは急速に忘れ去られ、後に、セヴィニエ侯爵夫人の書簡集が一般に公開されたことで、この事件のことが明らかになった。後年、ある料理人は、次のように評したという。<彼の悔恨やよし。しかし、決して彼を規範とするなかれ。> なお、お菓子にのせるホイップ・クリームのことを、「クレーム・シャンティイ」というが、それは、この厨房で生まれた。 シェムラ先生夫妻が案内してくれた時は、この城内にあるコンデ美術館を案内して下さり、昼食をご馳走になった。コンデ美術館の重要性は、当時は全く知らなかった。絵が雑然と置かれていて、辺鄙なところなのに、入場者が多いのに驚く。雑然と置かれているのは、この美術館を寄贈するに当たり、オマール公が出した条件に「陳列品の配置を、決して変えないこと」があるからであり、また、ここでしか見られない、何故ならもう1つの条件は「決してよそに貸し出さないこと」であったからである。コンデ美術館には、当時は知らなかったが、ラファイエロの小さな名品「三美神」、「ロレッタの聖母」、ピエロ・ディ・コジモの「美しきシモネッタ・ヴェスプッチの肖像」、その他、ボッティチェリ、ファン・アイク、ドラクロア、アングル、ヴァトー、クルーエなどの名品がある。これらの絵は、全く知らずに見ていた。幸い、空港から近いので、もう1度、行かねばならないと思っている。「コンデ良い? 来なきゃ見れない シャンティイ 異作」という駄洒落川柳を作った。 中で、中世細密画の最高傑作として貴重な、ランブール(三)兄弟作の彩飾写本「ベリー公のいとも豪華なる時?書」は、複製しか公開していないが、その複製は、ここの図書室においてある。たまたま、以前、朝日新聞社から、購読者にプレゼントされた「世界の美術」シリーズの中にこのうちの1つの作品が家に残っていた。これを最初、見たとき、ブリューゲルの作品かと思ったが、それより100年ぐらい前の作品と知り驚く。ここでは、家にあったものを示すが、より微細な絵は次のURLで見られる。 http://www.salvastyle.com/menu_gothic/limbourg_heures.html そして、その解説が面白い。また、ネットで調べたら、別府大の酒井理恵さんという方が卒論の題材に使っておられて、その論文要約が見られる。 カラーでないのが惜しまれるが、次のURLに英語の美術作品の解説がある。 http://www.gutenberg.org/files/44334/44334-h/44334-h.htm ◆ [ベリー公のいとも豪華なる豪華なる時?書]「2月」1413-15年ころ 羊皮紙 29×21 cmの朝日新聞から配られた(1970年頃?)、国立西洋美術館主任研究員 千足伸行 氏の解説: <後期ゴシック絵画の最大傑作の一つに数えられるランブール兄弟のミニアチュールの1ページである。いわゆる月暦画で、上の半円形は、暦(ここでは2月、12宮の内の魚座とみずがめ座が描かれている。内側で光り輝く円盤を手にして馬車に乗っていうのは太陽である)。 低い籬(まがき)に囲まれた小屋の庭先で、小鳥たちは落ちこぼれの穀物あるいは木の実をついばみ、そのそばの納屋の中では羊たちが体を寄せ合っている。左の小屋は、見る人の便宜(?)をはかってか壁のない吹きさらしであり、中では2人の女と1人の男が焚火にあたっているが、ここの描写がまたほほえましい、右はしの青衣の女はほてる顔を火からそむけながら着物の裾をまくって暖をとり、奥の2人は火に手をかざしながら、股間を温めているが、下半身は裸でまる見えである。部屋の壁には衣類らしきものがかけてあるだけで、他には何もなく、当時の農民の質素な生活をうかがわせる。画面右手では、荷物のわきを女が1人、口の息で両手を温めながら、暖を求めて小屋の方に足早に向かっている。庭の外では男が斧を振り上げて薪を集め、その向うにはロバに荷を積んだ男が1人雪道を急ぎ、その行く手には、クリスマスカードにでも出てくるような、雪に包まれた小さな町のシルエットがのぞかれる。 この「2月」は雪景色を主題として扱ったヨーロッパ絵画における最初の例であり、風景画としても極めて貴重な価値をもっている。(中略) ランブール兄弟は15世紀初頭にブルゴーニュの禿頭公フィリップに仕え、1410年には彼の弟のベリー公に仕えている。この時?書は1413年に着手されたが、ベリー公が1416年に死んだため未完成のまま残された。(後略)>。 雪を描いた最初の西洋画とは、驚いたが、絵というものは、人々の心を高揚させるべきものと考えて、雪は、対象として好まれなかったのだろうか。 庭園は、ベルサーユ宮殿の庭の設計などで、おなじみのル・ノートルの設計で、大運河を背景に広がるフランス式庭園と、木立と小川の英国式庭園がある。田舎家を配したアモー(hameau)の奥には、30人乗りの気球があって150 mまで前に上ったが、季節によるのか、今回は無かった。
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●コンピエーニュ(Compiegne)ピカルディ地方
パリの北東、約80 kmに位置する。古くからフランス王侯貴族の狩猟地であり、すでに6世紀から歴史に登場する。百年戦争時代、フランス王を支持していたアルマニャック派とイギリスに加担していたブルゴーニュ派の争いの舞台となる。1429年オルレアンを解放したジャンヌ・ダルクは、イギリス軍包囲の危機に脅かされていたコンピエーニュを守ろうとしてここで、捕虜になる。現在のコンピエーニュ城の大枠が作られたのは18世紀になってからで、ルイ14世は、「ヴェルサイユは王として、フォンテンブローは大公として、コンピエーニュは農民として暮す」という言葉を残している。次のルイ15世は、1751年に建築家ガブリエルに任せて再建に着手する。宮殿を完成させたのは、フランスの君主制ブルボン王朝の最後のナポレオン3世である。城の建設を始めたのは、この森で狩猟をしたルイ15世の時代である。 ここには、以前にパリから日帰りで、車で連れてきてもらったことがあるが、宮殿は遠くから眺めただけであった。今回は、シャルル・ド・ゴール空港に早朝に着いて、目的地ランス(Lens)に行く途中にあるので、立ち寄ったが、朝着いたのが、7時30分頃で、まだ、宮殿などは開いていなかったので、サンジャック教会と宮殿の前の庭園の一部を見た程度だった。駐車場は、宮殿の前にあって、便利ではあるが、景観を損ねているという感想もあるが、尤もであろう。 サンジャック教会は、1430年にジャンヌ・ダルクがブルゴーニュ軍に捕らえられて、最後のお祈りをした教会である(あるフランス語の説明では、5月18に行き、再度、23日、逮捕の日に行ったと書いてあり、逮捕の前か、後かは、明らかではないとしているが、逮捕の前というのが正しい説であろう)。その、お祈りの図はステンドグラスにあるのだが、下調べ不足で、写真を撮っていなかった。この教会は、サンチャゴコンポステーラ巡礼路(の1つ)として世界文化遺産に登録されている。 また、そこから100 mぐらいにある市庁舎の前にあるジャンヌ・ダルクの銅像も、見に行かなかった。市庁舎の隣に、観光案内所があるが、早朝で未だ開いてはいなかっただろう。 なお、コンピエーニュの訪問記(日本語)は、多くの写真付きで、下記のURLで見られる。ジャンヌ・ダルク関係の写真3枚を、ここで使わせていただいた。 4travel.jp/travelogue/10824289 コンピエーニュは、第一次、第二次世界大戦の際に、仏・独間の休戦協定が結ばれた地としても知られる。第一次大戦の際は、1918年11月11日に、コンピエーニュの森の引き込み線の列車の食堂車の中で行われた。第一次大戦はフランス側の勝利に終わった(最終的には、1920年のヴェルサイユ条約)。また、第二次大戦では、休戦協定が、1940年6月22日に結ばれる。この時点では、ドイツの圧倒的勝利の下で行われ、ヒットラーは、同じ列車の中で、協定を結ぶことを要求し、その列車は、その後、ドイツに持って行き爆破された。フランスはペタン首相が、ヴィシ―で、臨時政府を開く。(一方、ド・ゴールは、ロンドンに逃れ、自由フランス政府を樹立し、レジスタンス運動を指導し、連合軍が勝利すると、パリの凱旋門に凱旋した。)初期の段階で、フランスは降伏したので、国内の多くの文化遺産は残り、結局、アメリカなどの助けにより、ドイツが降伏し、フランスは、休戦以来、戦わずして、勝利を収めることになる。 この2つの休戦協定が結ばれた場所の写真は次のURLにある。この場所を通った気がするが、下調べ不足で、写真を撮れなかった。 http://oldbattlefield.web.fc2.com/19400622_Armistance.html
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●ラン(Laon)ピカルディ地方
日本語では、間違ってラオンと書いてあるものもあるが、辞書で調べると、発音記号は、[l?]なので、ランまたは、ラーンが正しい。ただし、綴りが、ほとんど、発音記号も表しているフランス語でも、例外的な、綴りと読み方のようだ。綴り字で、母音が重なるのは、異例であるから、違う言語を使った民族の名前が語源なのだろうか。パリの北東約130 kmに位置し、人口、約2万6千人の、主に、丘の上・下に分かれた小都市である。古代には、ガリア人のレミ族が住んでいた。1814年、ナポレオン戦争の終わり近くのフランス戦役の戦場になり、ナポレオンが、プロイセン・ロシア軍に敗れた地でもある。中世の文化遺産に富み、大聖堂は、12世紀に建てられた初期ゴシック建築の代表とされる。 パリから列車で近づくと、丘の上のカテドラルの姿が間近に見え、ロダンが、「人間の正しい誇りを遠くへと導く軍旗のよう」と讃えた塔がひときわ高くそびえて見えると稲葉宏爾は、「パリからの小さな旅」(TBSブリタニカ)で述べているが、ランは、「地球の歩き方」には、まだ採用されていない。 この町を訪問した理由は、積極的なものではなかった。両方のランス(LensとReims)を、同じホテルから訪問できるように、中間地点付近に選んだが、そこから比較的近い観光地を探したら、当地があったからであり、あまり下調べをしないで行った。 車で来たので、丘を下から見る絶好の地点は分からなかったから、いい加減な所で停まって写真を撮っただけだった。ただし、この日は天気が変わりやすく、下から見たときは、残念ながら曇っていて、ロダンが感動するような風景ではなかった。上から下の風景は、それ用の展望地点があったからより増しな風景は見られた。丘の上の町は、下の町と標高差が100メートルもあり、駅からはケーブルカーがある。 大聖堂を訪問する。大というのは、建物の大きさではなく、その地域の司教座のある聖堂(カテドラル)をいう。12世紀初めに建てられた初期ゴシック様式だが、ゴシックにしては、尖塔はそう尖ってはいない。上記の本に、塔の隙間に何頭もの牛の像が見えると書いてあるが、写真を拡大して、初めて分かった。聖堂を造るために石を運んだ牛を記念しての為のことだ。その代わり、堂内の天井を写した写真の中に、十字架と共に、牛を発見した(ただし、羊である可能性もある)。ステンドグラスは、他の大聖堂とそう変わりはないが、いつできたが分からないが、中に、現代的な模様のものもあった。 歩いていたら、ロマネスク様式の礼拝堂の前も通った。そこにある看板の意味が、よく分からない。フラン(F)単位が併記されているから、そう新しいものではないし、古いものでもない。en vente au museeは、博物館で購入と書いてあるが、入場券のことだろうか。Templierというのは、テンプル騎士団員のことである。2.30 Euroというのは別の博物館なのだろうか。7Euroとも書いてあるが、これは、宿泊費なのだろうか。ここは、テンプル(仏語ではタンプル)騎士団礼拝堂で、宿泊する所と思うので。1134年に建物ができ、1312年にエルサレムの聖ヨハネの騎士修道会となった。ただし、私は、テンプル騎士団については、ほとんど知識がない。 なお、2,30 Euroと書いてあり、日本、英・米、カナダでは、ピリオドを使っているが、フランス、ドイツ、イタリアなどでは、日米などと違って、ピリオドとカンマは、全く逆に使っていて、スペインでは、地域により違うらしい。2003年の国際度量衡総会で、次のように決まった。 「小数点はピリオドかカンマどちらかとする。桁区切りは3桁毎にスペースを入れ、カンマもしくはピリオドは入れない」。世界統一のために、毎年、会議を開いているが、まとまらないという話を聞いたことがある。 町では、小学校にも出あった。良い機会なので、ちょっと観察させてもらった。こういう時は、妻と一緒なので、不審者とは、見なされなく都合がよい。 小学校の外の掲示板には、図で示すように、メニューが示されている。これは、給食のメニューではないかと思う。フランス人の典型的なメニューとも思うので、興味があるので訳してみた。チーズの名前など、日本語に訳されてないようなものは、そのまま音を片仮名で表した。何を食べさせているかを表示するのは、フランスの親にも、子供の教育に熱心な人が多いということであろうか。 その横に次のような「APEL」掲示もある。アッピール[appel]の略であろう。訳すと、次のような募金の訴えである。 <皆さま方を常に必要としていることの訴え> <皆様の醵金は、皆さまの子供さん方の教育の質と開花を保護するために大変重要です。 また、皆さま方が、私たちのチームに加わって下さい。アイディア、相談、明日の飛躍…が歓迎事です。私たちは、皆さまに、耳を傾けています。> <人は、子供を助けるために跪くときほど偉大なことはない。 ピタゴラス (Un homme n’est jamais si grand que lorsqu’il est a genoux pour aider un enfant. Pythagore.)> フランスは、授業料は無料であり、給食費も無料なのであろう。しかし、更に何かをするためには、資金を集めねばならないのだろう。それで、父兄達が、熱心にこのような活動をしていることが伺われる。門の柵には、<この金曜日の16時30分に、チョコレートパンを1Euroで売ります>という貼り紙が、結び付けてあった。 たまたま、小学校の前を通っただけで、フランスの小学校の様子の一端が伺われて面白かった。 ■小学校の給食メニュー Hugo te propose: apetito.
Hugoは、ヴィクトル・ユーゴー(1802-85)で、<1835年8月1日、朝、Laon(ラン)を離れた>という文章を書いており、当地出身かと思って調べたら、ブザンソン出身で、これは、旅行記(Recits et dessins de voyage)の一節だった。そこでは、大聖堂について、<ランは全て美しい、もろもろの教会、家々、環境、全て…: ”Tout est beau a Laon, les eglises, les maisons, les environs, tout…”>と書いているので、当地では、子供もよく知っている英雄らしい。したがって、Hugoの名前を借りて、次のメニューを提案すると書いているのだろう。Apetitoというのは、スペイン語の「食欲」という意で、フランス語の“Bon appetit”(日本語には無い表現で、「美味しく召しあがれ!」)といういつも使う(子供)語なのであろう。 丘の北側のふもとには、新しい街が広がっているが、南側は木立に覆われていて、ここは、また、別世界の森や田舎が展開していることは、後で知った。観光案内書でもらったパンフレットの中に、「ランの肺(Les poumons de Laon)」と題名付き写真の説明には、文学的表現で、次のようなことが書いてある:<町の中の本物の森、丘の斜面は、そこを通る多くの坂(小路)のお蔭で、新たに見出すべき宝物を内蔵している>。「肺」というのは、良い空気を吸うところという意味の、フランス語での常套表現なのであろう。 さらに、当地の航空写真があることを知った(Makenzie: www.panoramio.com/photo/15367289) これを見ると、町の全体の様子が、よく分かる。私は、この写真の反対側から、この丘に上って来て、こちら側(南側)は、全く見ていなかったことを確認できた。観光案内所や案内書も、こういう航空写真をより一般的に活用する時代が来るだろう。
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●ピエールフオン(Pierrefonds)ピカルディ地方
[ピエールフォン城] ピエールフォンは、パリの北東、約80 km、コンピエーニュの南東約10 kmに位置する。1393年、コンピエーニュ近郊に、シャルル5世の第2子ルイ・ドルレアンによって要塞屋敷として造られた。これは、オルレアン家のライバルのブルゴーニュ公領のフランドル地方とブルゴーニュ地方間の交易を監視するものであった。後に、廃墟となっていたものを、1810年にナポレオンが購入し、ナポレオン3世が、1857年、建築家ヴィオレ・ル・デュク(Eugene Emmanuel Viollet-le-Duc: 1814-1879)に修復工事を依頼する。そして、この城を芸術作品へ変身させ、1879年にヴィオレ・ル・デュクが死去すると、娘婿のウラドゥが修復作業を引き継ぎ、1884年にウラドゥが死去するまで続けられた。その後、美術館として一般公開される。 この城には、2013年9月4日早朝にロワシ−(Roissy:シャルル・ド・ゴール空港の通称)に着き、ランス(Lens)のルーヴル別館に行く途中に立ち寄った。立ち寄った理由は、案内書に出ている<外観が、中世の原型をほぼ忠実にとどめ、大変美しい>からであった。そのため、映画「ジャンヌ・ダルク」など多くの映画のロケに使われてきた。交通の便がやや悪いのか、日本ではあまり知られていない。 美術館は、大変広く、いろいろなものが展示されていたが、ここでは、モンデュイ工房製作のほんの数点などを紹介する。 モンデュイ工房(Atliers Monduit)は、1770年から、1970年まで、偉大な製作者たち(ヴィオレ・ル・デュク、ガルニエ、バルトルディ、プティグランなど)の要請に応じて、多くの有名な建造物、傑作の製作、修復にかかわってきた。例えば、パリのノートルダム寺院の尖塔、パリオペラ座のドームの大尖塔、アミアン大聖堂の尖塔、ニューヨークの自由の女神像、ベルフォールのライオン、モン・サン・ミッシェル修道院の尖塔を飾る大天使ミカエル、ピエールフォン城の屋根などは、この工房によって作られた。そこでは、鉛や銅を用いた打出し技法などを用いた。ここに示す多くの作品は、複製ではなく、万国博覧会(1889年など)で、一般公開することを目的で、作られたダブル・オリジナルである。 観光パンフレットなどに出ている城の全景の写真が撮れるスポットを探して、少し歩いてみたが、多分、向かい側の山に登らねば、無理なようで、諦めた。前側に、小さいが池もあって、美しい城であり、ドイツのノイシュバンシュタインにも匹敵するかもしれないと感じた。 例えば、次のURLに、この城の詳細な、訪問記(日本語)が出ている。 http://www.air-travel-corp.co.jp/report/report239.html
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