●シャンパーニュ-アルデンヌ地方(Champagne-Ardenne

  かっては、シャンパーニュは、1つの地方であったが、現在は、シャンパーニュ・アルデンヌ地方となり、アルデンヌ(Ardennes)、オーブ(Aube)、マルヌ(Marne)、オット・マルヌ(Haute-Marne)の4県からなっている。いうまでもなく、シャンパーニュ(あるいはシャンパン)というスパークリング・ワインの生産で、有名で、この地で造られたスパークリング・ワインのみが、この名前を名乗ることができるそうである。都市としては、ランス(Reims)が有名で、フランス国王の戴冠式は、ここで行われてきた。次に有名なのは、シャンパン製造のエペルネーであろう。今回は、ランス、エペルネー、オ・ヴィレを訪問した。

 図には、この地方の売り物・見どころを記したものを示す。

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「フランスの彩り」:Champagne-Ardenne地方の見どころ。

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フランス政府観光局から、送料のみ支払で送ってもらった“Travelling Wine Routes”に出ていたChampagne地方の紹介。


●エペルネーとオヴィレ(EpernayHautvillers)シャンパーニュ-アルデンヌ地方

今回の旅行で、シャンパーニュ地方に行くので、折角なので、「ドン・ペリ」の工場を見学して試飲したいと思った。ただし、日頃、アルコールは、夏にビールを飲む以外は、ほとんど飲まないし、ドンペリを飲んだことはなかった。調べてみると、「ドンペリ」を製造しているのは、エペルネーにあるモエ・エ・シャンドン社で、その地には、多くのシャンパンメーカがあることが分かった。また、ドンペリを発明したドン・ペリニヨンは、エペルネーから5 km離れたオヴィレ村(Hautvillers)修道院の食事係であったことを知ったので、その村にも行くことにした。エペルネーは、ランス(Reims)のほぼ南、約20 kmの距離にあり、その間の道は、シャンパン街道とも言われ、特に、ランスとエペルネーにはシャンパンの製造業者が、軒を連ねる。なお、以前は、シャンパニュは1つの地域圏であったが、現在は、シャンパーニュ-アルデンヌで1つの地域圏となっている。

[モエ・エ・シャンドン社(Moet et Chandon)の見学]

ドンペリニヨン(通称ドンペリ)というシャンパンの銘柄が商標登録されているのかどうかは、よく知らない。但し、ドン・ペリニヨン(ワイン)という項の日本語のウイキペディアを調べると、「フランスのモエ・エ・シャンドン社によって生産されるシャンパンの銘柄」と書かれている。シャンパンを発明したとされるベネディクト会の修道士ドン・ペリニヨンにちなんで名付けられた。その修道士が、発酵中のワインを瓶詰めして放置したところ、偶然シャンパンができた。

 見学の申し込みは、ネットで、約4週間前に、申し込んだ。午前2回、午後2回見学ツアーがあり、英語は、午後215分からのものを申し込んだ。参加費(大人)は3通りあって、16.5 Euro, 24 Euro, 29.5 Euroで、子供は、飲み物無で、9.5 Euroなので、シャンパン自体の値段は、この9.5 Euroを引いた値と考えればよく、一番高価なものは、20 Euroなので、(1Euro=135円)、2700円で、一番安いのが、7 Euroで、950円ということで、一番高いものの、約1/3ということになる。2flutesというのは、2杯という意味ではなく、2種類のものを混ぜたという意味である。

 エペルネーの町に着いて、一応、観光案内所に寄って、主に、後で行く予定のオヴィレーの行き方を聞いた。当地の、会社には、容易に着けたが、すでに、構内の駐車場は満員に近かった。受け付けで、ネットでの申し込み書を、本券に代えてもらい、その際、一番、心配していた問題、すなわち、見学の最後に、シャンパンを飲んだ後に運転できるのかと聞いた。フランスでは、ワイン2杯までは、運転をして構わないことになっていると聞いて、驚いたり、安心したりした。時間が来るまで、レセプション室で待つ。

地下蔵は寒いと聞いていたので、服装は、用意してきたが、案内嬢も、上に羽織る衣服を持って、予定時間に現れた。見学は主に、地下倉(Cave:年間、気温ほぼ、13 oC)の中で行われた。何本もの長いトンネルの両側に瓶に詰まったシャンパンが並んでいる。地下蔵は何層にもわたっていて、この会社だけで、全長28 kmとパンフレットに書いてある。見学者は、25名ぐらいだったと思う。国籍は、よく分からないが、日本人が4組は、いたと思う。当社の製品の輸出国1位は米国で、2位がドイツで、日本は34位だったと記憶する。45分ぐらいの見学の後、地下蔵の試飲に用意された室で試飲が始まった。写真にあるローズ色をしたものが、上記、2 flutesの一番高価なもので、無色のものが、一番安価なものである。飲んだ味は、安価な方が、新鮮感があり、明らかに良く、周りの人に聞いても同じ意見であった。高価なシャンパンの味が分かるのには、もっと経験しなければいけないようだ。試飲も入れた見学は、1時間強で終わった。全く酔っていなかったが、念のため、酔いさましも兼ねて、周囲のシャンパン・カーヴを歩いたが、立派な構えをしたのが20-30軒、軒を連ねて道の両側にあったが、見学を受け付けていないようで、人の出入りもなく静かなものであった。

[オヴィレー(Hautvillers)訪問]

その後、ドン・ペリニヨンの居た、約5km離れたオヴィレー(Hautvillers)という村にある修道院を訪問した。そこは、車が無いと行けないので、来訪者は、数人程度であった。修道院の教会の中に、墓と写真があった。修道院の食事係だったが、それでも修道士だったと解した。

[シャンパン製造の概略]

 日本語で書かれたシャンパン製造の概略を見学の際、貰えた。ごく概略を、発酵の段階から紹介する。[発酵]ワインはまだ発泡していない。澱を除く。[ブレンド]いろいろなワイン(ブドウの種類や土地により異なる)を、上手くブレンドする。[瓶詰め]厳選されたワインを瓶詰めして、地下セラーの木製の棚に水平に寝かせる。[発泡]熟成過程で2次発酵する。[ルミアージュ]セラーで数年間の成熟の後、傾斜した架台に、ネックを下側にして瓶を置き、毎日少しずつ回転を行い沈殿物を口の方に集める。[デゴルジュマン]瓶の口の部分を瞬時に凍らせて、栓を抜くと、圧力により、澱を含んだ凍った部分が飛び出る。[リキュールの添加]最後の仕上げに、特別なワインを添加する。[ラベル貼り]ワイヤー付コルク栓の蓋をして、更に数ヶ月、寝かせて、キャップにアルミ箔をかけ、ラベルを貼り、出荷する。



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ネットで見た、モエ・エ・シャンドンの見学案内。

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4週間前に、クレジットカード支払いで申しこんだ見学の、確認書。

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モエ・エ・シャンドンの建物。

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会社の構内にあるドン・ペリニヨンの像:台座には、「オヴィレーの修道院の食料品保管係(1638-1713)。

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案内開始;

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見学;この会社だけで、全長28 kmとの説明。

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試飲;Ch14の透明のものは、約950円、チェリー色のものは、約2700円の勘定になる。

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販売コーナー。

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世界のソムリエの第一人者の会合の様子;田崎真也氏の写真とサインもある。

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第一次大戦戦死者の慰霊碑;Verdun(仏独の激戦地)の名前が見える。

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散歩中通った中から、任意に選んだ5軒のシャンパン製造工場。

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Hautvillersは、Champagne地方のMarne県にあるが、そこからのハイキングコース「ドン・ペリニヨン」を示す案内図。

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ドン・ペリニヨンの居た修道院。

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修道院内のドン・ペリニヨンの墓と写真。

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写真の部分の拡大;ここに、Dom Pierre Perignon修道院の食事係、眠る。

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オヴィレーの村の出入り口にある、9ヶ国語の挨拶:hasta luego(スペイン);tot ziens(オランダ語);la revedere(ルーマニア語)

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ブドウ畑の中にあるHautvillers村の集落;遠方に見えるのは、Epernayであろう。

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モエ・エ・シャンドン社でくれた日本語パンフより。

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201311月に伊勢丹から出されたシャンパーニュの宣伝パンフ;「ドン ペリニヨン」という名前があるが、製造会社は明らかではないように思われる;ジェフクーンズは、米国の美術家名で、ここにある<ドン ペリニヨン>との関係は不明。

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アルコール許容度:フランスでは、0.5 g/L(血液)が、運転許容量で、性別、体重別に、記されている(Moet & Chandon見学の際にもらう);日本は、0.3 g/Lである。


ランス(Reims)シャンパーニュ-アルデンヌ地方

[ノートルダム大聖堂]

ノートルダム大聖堂(Cathedrale Notre-Dame)の中で、日本語の説明書がもらえた。パリからの交通の便も良いので、日本人観光客も多いためだろう。当大聖堂の歴史を書いた部分を図に示す。

496年に、初代フランク王クロヴィス(英語読み:クローヴィス)1世のカトリック改宗に立ち会ったのが、聖人レミギウス(Remigius(ラテン名);フランス名、Remiまたは、Remy)であった。Reimsと地名は、この聖レミ(St. Remi)から採ったと言われる。なお、このフランク王クロヴィス(メロヴィンガ朝)は、カトリシズムと結びアリウス派ゲルマン諸族を討ち、国勢を強化したことで、高校の世界史の教科書にも出てくるほど、重要な人物である。

ランスの歴史を見ると、1429年のシャルル7世の戴冠式にジャンヌ・ダルクが出席した。また、1962年に、ド・ゴール大統領が、ドイツ(正確には西ドイツ)アデナウアー首相とマルティ大司教の立会の下で和解の誓いをした。上の2例で示すとおり、司教は、王様、大統領、首相などより高位に位置することを知る。政治家は信用できないが、司教は絶対的な信頼がおけるということなのだろうか。ともあれ、フランスとドイツの戦後の和解のプレートには、感動を覚える。その訳を以下に示す。

「マルティ猊下(ランス大司教)へ:アデナウアー(西独)首相閣下と私は、猊下の大聖堂において、フランスとドイツの和解の協定を確認いたしました。シャルル・ド・ゴール、196278()112分」。その下側にドイツ語による同じ記述がある。

和解のプレートは、配布された資料では、聖堂内にあるように記載されているが、実際は、外にあった。最初内部で探しても見つからないので、入口の案内人に聞いたら外にあると言われて、その場所を知った。

長年の宿敵であるフランスとドイツが和解し、これが、今日のヨーロッパの平和と繁栄の大きな礎になっていることは言うまでもない。こういう歴史的な誓いは、カトリックの大司教に対して行われることは、宗教の大きな影響力を示すものであろう。ランスの大聖堂は、数あるフランスの大聖堂のうちでも、それほど、格式が高い。

微笑む天使」は、有名で、その写真は、訪問前に何回か見ていたが、実物は、年代が経って石がやや老朽化しているため、表情が、書物で見る写真ほどはっきりはしていない。多分書物のものは、多少、修正しているのであろう。書物によっては、片羽の取れた天使の方のものを紹介しているものもあるが、こちらの方が、多少表情の保存は良いかもしれない。

大聖堂の正面にあるシャガールのステンドグラスは、旧約聖書を題材にとっているに違いないが、説明がないので、題材が分からないのが残念である。シャガールという名前で、訪問前にたまたま見たテレビでも紹介されていたが、何を題材にしているかの紹介は無かった。我々、一般の日本人にとっては、旧約聖書は、そう馴染みがないので、シャガールの絵を理解するのは難しい。

ジャンヌ・ダルクの像は、聖女という感じがでていて、大聖堂の雰囲気によく合っていると思う。聖堂の中で、一番輝いて見えたのは、この像であった。

一方、聖堂前の広場の片隅には、ジャンヌ・ダルクの銅像がある。ごく目立たなく立っているので、予め、調べておかねば、見逃してしまう。実際、この写真で見ると誰も見ていない。台座の上に立っていないのと、顔の表情に、凛々しさや清純さが欠けているように見え、ジャンヌ・ダルクのイメージがあまり伝わってこない。

[フジタの礼拝堂]

そこから、藤田の礼拝堂(正式名:Chapelle Notre-Dame de la Paix)まで、歩いて行く。迷いはしなかったが、地図で見ると直線距離でも、1100 m近くあるので、歩く距離は、1.2-1.3 kmあるのだろう。門には、公開される時間が書いてあるが、52日―1031日の火曜を除く、14-18時とかなり限られている。この付近は、観光できるのは、半年しかないのかと意外に思う。

礼拝堂は、時折、人が来るときもあるが、誰も居ないこともある。やはり、日本人が多い。堂内は撮影できないが、入口からは正面の壁は見える。また、外から見るステンドガラスは、丁度、目線のやや上ぐらいで、よく見ることができる。多くの人は、外から、建物を一周せずに帰っていくようだった。

この礼拝堂は、向かいにある大きなシャンパン製造会社Mummの社長で、洗礼の名づけ親でもあるRene Lalouの依頼で、その所有地所の中に建てられた(1965-66)。壁画の中に、Foujita自身とLalouが並んでいるところが、描かれている。

なお、Mumm社とともに大きく有名な、Pommery社(Rm1’G)の場所は、地図(

[リセ Jean XXIII]

車を、大聖堂の近くに駐車させてきたので、またそこまで戻る。途中、リセのJean XXIIIの校門の前を通ったら、生徒が、4人ずつ2組、話しこみながら、皆、たばこを吸っている。フランスでは、校内での喫煙は、16歳未満は禁止されているが、校外なら、何歳でも喫煙は許されているらしい。因みに、このリセの生徒の学力はどのくらいなのか調べたら、2013年のバカロレア(Bac)の合格率は、92%で、全国2309校中981番目だそうで、平均よりやや上位に位置している。

 後で調べて驚いたが、案内所でもらったパンフレットに、このリセには、土、日の午後、一般の無料見学を許すチャペルがあることが書いてあった。

[サン・レミ聖堂] 

車に戻って、約1 km離れたサン・レミ聖堂(Basilique St-Remi)に車で行く。ここには、上記サン・レミの遺体が安置されている。この聖堂が着工されたのは、1007年で、その後修復作業が何度も行われロマネスク様式とゴシック様式が共存している。現在も、正面は修復作業中であった。ここも、世界遺産の一環である。ここは、(元)大聖堂という名称である。「大」というのは、建物の大きさを表すのではなく、司教区の主聖堂を意味し、現在は、ノートルダム大聖堂に移ったので、(元)となった。

中で興味深かったのは、メロヴィング朝フランク王国初代国王クロヴィス王466-511;在位:481-511)が、サン・レミの下で、498年に洗礼を受けている絵で、王も裸になって洗礼を受けていることである。王が、洗礼を受けたのは、熱心な信者であった皇后の影響も強かったが、カトリックの信者になることが、勢力拡大に役立つためであったのだろうと言われている。クロヴィスとその改宗は、高校の世界史の教科書に出てくる。こういうものを先に見ていれば、苦労せずに、歴史が、自然に覚えられるだろうと思った。

帰りにエーヌ(Eisne)川からマルヌ(Marne)川へ結ぶ運河を通る。


                             


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市街地図;Mumm社とLyceeに赤アンダーライン。

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ランス大聖堂の歴史(配布してくれたパンフレットの一部)。

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大聖堂の内部の配置。

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大聖堂正面。

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ド・ゴール大統領(フランス)のアデナウアー首相(西独)との和解の誓い;フランス語とドイツ語。

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「微笑む天使」の全体像。

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上記の写真の顔の部分の、明暗を後で調節したもの。

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別の片羽の取れた微笑む天使。こちらを採用している案内書も多い。

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シャガールのステンドグラス。

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訪問前にテレビで見たシャガールのステンドグラス(放映:2013.4.10)

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聖堂内のジャンヌ・ダルク。

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聖堂前広場のジャンヌ・ダルク(ポール・デュポア作(1889))。

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フジタの礼拝堂の門。

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門内から見た礼拝堂。

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礼拝堂入口から見える正面。

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壁画(ネットより)メガネをかけたのが、フジタで、その左が、シャンパン会社のMumm社の社長のルネ・ラルー(Rene Lalou:1877-1973)と言われる。

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チャペルの外側のステンドグラス。

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隣接するMumm社の庭では、午後の歓談中 (14:45)

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Lyceeの校門前。

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この学校のチャペルは、土、日の14-17:30の間、無料一般公開のお知らせ。

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サン・レミ聖堂や、Pommery社の位置を示す地図;ノートル・ダム大聖堂[1]もある。

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サン・レミ聖堂。

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クロヴィス王の洗礼。

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地図(Rm25’)から判断すると、 Rm32が、エーヌ川からマルヌ川への運河で、Rm33が、Vesle川である;平行する、この2つを区別すべきなのかどうかは、分からない。