●ランス(Reims)シャンパーニュ-アルデンヌ地方
[ノートルダム大聖堂]
ノートルダム大聖堂(Cathedrale Notre-Dame)の中で、日本語の説明書がもらえた。パリからの交通の便も良いので、日本人観光客も多いためだろう。当大聖堂の歴史を書いた部分を図に示す。
496年に、初代フランク王クロヴィス(英語読み:クローヴィス)1世のカトリック改宗に立ち会ったのが、聖人レミギウス(Remigius(ラテン名);フランス名、Remiまたは、Remy)であった。Reimsと地名は、この聖レミ(St. Remi)から採ったと言われる。なお、このフランク王クロヴィス(メロヴィンガ朝)は、カトリシズムと結びアリウス派ゲルマン諸族を討ち、国勢を強化したことで、高校の世界史の教科書にも出てくるほど、重要な人物である。
ランスの歴史を見ると、1429年のシャルル7世の戴冠式にジャンヌ・ダルクが出席した。また、1962年に、ド・ゴール大統領が、ドイツ(正確には西ドイツ)のアデナウアー首相とマルティ大司教の立会の下で和解の誓いをした。上の2例で示すとおり、司教は、王様、大統領、首相などより高位に位置することを知る。政治家は信用できないが、司教は絶対的な信頼がおけるということなのだろうか。ともあれ、フランスとドイツの戦後の和解のプレートには、感動を覚える。その訳を以下に示す。
「マルティ猊下(ランス大司教)へ:アデナウアー(西独)首相閣下と私は、猊下の大聖堂において、フランスとドイツの和解の協定を確認いたしました。シャルル・ド・ゴール、1962年7月8日(日)11時2分」。その下側にドイツ語による同じ記述がある。
和解のプレートは、配布された資料では、聖堂内にあるように記載されているが、実際は、外にあった。最初内部で探しても見つからないので、入口の案内人に聞いたら外にあると言われて、その場所を知った。
長年の宿敵であるフランスとドイツが和解し、これが、今日のヨーロッパの平和と繁栄の大きな礎になっていることは言うまでもない。こういう歴史的な誓いは、カトリックの大司教に対して行われることは、宗教の大きな影響力を示すものであろう。ランスの大聖堂は、数あるフランスの大聖堂のうちでも、それほど、格式が高い。
「微笑む天使」は、有名で、その写真は、訪問前に何回か見ていたが、実物は、年代が経って石がやや老朽化しているため、表情が、書物で見る写真ほどはっきりはしていない。多分書物のものは、多少、修正しているのであろう。書物によっては、片羽の取れた天使の方のものを紹介しているものもあるが、こちらの方が、多少表情の保存は良いかもしれない。
大聖堂の正面にあるシャガールのステンドグラスは、旧約聖書を題材にとっているに違いないが、説明がないので、題材が分からないのが残念である。シャガールという名前で、訪問前にたまたま見たテレビでも紹介されていたが、何を題材にしているかの紹介は無かった。我々、一般の日本人にとっては、旧約聖書は、そう馴染みがないので、シャガールの絵を理解するのは難しい。
ジャンヌ・ダルクの像は、聖女という感じがでていて、大聖堂の雰囲気によく合っていると思う。聖堂の中で、一番輝いて見えたのは、この像であった。
一方、聖堂前の広場の片隅には、ジャンヌ・ダルクの銅像がある。ごく目立たなく立っているので、予め、調べておかねば、見逃してしまう。実際、この写真で見ると誰も見ていない。台座の上に立っていないのと、顔の表情に、凛々しさや清純さが欠けているように見え、ジャンヌ・ダルクのイメージがあまり伝わってこない。
[フジタの礼拝堂]
そこから、藤田の礼拝堂(正式名:Chapelle Notre-Dame de la Paix)まで、歩いて行く。迷いはしなかったが、地図で見ると直線距離でも、1100 m近くあるので、歩く距離は、1.2-1.3
kmあるのだろう。門には、公開される時間が書いてあるが、5月2日―10月31日の火曜を除く、14時-18時とかなり限られている。この付近は、観光できるのは、半年しかないのかと意外に思う。
礼拝堂は、時折、人が来るときもあるが、誰も居ないこともある。やはり、日本人が多い。堂内は撮影できないが、入口からは正面の壁は見える。また、外から見るステンドガラスは、丁度、目線のやや上ぐらいで、よく見ることができる。多くの人は、外から、建物を一周せずに帰っていくようだった。
この礼拝堂は、向かいにある大きなシャンパン製造会社Mummの社長で、洗礼の名づけ親でもあるRene Lalouの依頼で、その所有地所の中に建てられた(1965-66)。壁画の中に、Foujita自身とLalouが並んでいるところが、描かれている。
なお、Mumm社とともに大きく有名な、Pommery社(Rm1’のG)の場所は、地図(
[リセ Jean XXIII]
車を、大聖堂の近くに駐車させてきたので、またそこまで戻る。途中、リセのJean XXIIIの校門の前を通ったら、生徒が、4人ずつ2組、話しこみながら、皆、たばこを吸っている。フランスでは、校内での喫煙は、16歳未満は禁止されているが、校外なら、何歳でも喫煙は許されているらしい。因みに、このリセの生徒の学力はどのくらいなのか調べたら、2013年のバカロレア(Bac)の合格率は、92%で、全国2309校中981番目だそうで、平均よりやや上位に位置している。
後で調べて驚いたが、案内所でもらったパンフレットに、このリセには、土、日の午後、一般の無料見学を許すチャペルがあることが書いてあった。
[サン・レミ聖堂]
車に戻って、約1 km離れたサン・レミ聖堂(Basilique St-Remi)に車で行く。ここには、上記サン・レミの遺体が安置されている。この聖堂が着工されたのは、1007年で、その後修復作業が何度も行われロマネスク様式とゴシック様式が共存している。現在も、正面は修復作業中であった。ここも、世界遺産の一環である。ここは、(元)大聖堂という名称である。「大」というのは、建物の大きさを表すのではなく、司教区の主聖堂を意味し、現在は、ノートルダム大聖堂に移ったので、(元)となった。
中で興味深かったのは、メロヴィング朝フランク王国初代国王クロヴィス王(466-511;在位:481-511)が、サン・レミの下で、498年に洗礼を受けている絵で、王も裸になって洗礼を受けていることである。王が、洗礼を受けたのは、熱心な信者であった皇后の影響も強かったが、カトリックの信者になることが、勢力拡大に役立つためであったのだろうと言われている。クロヴィスとその改宗は、高校の世界史の教科書に出てくる。こういうものを先に見ていれば、苦労せずに、歴史が、自然に覚えられるだろうと思った。
帰りにエーヌ(Eisne)川からマルヌ(Marne)川へ結ぶ運河を通る。
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市街地図;Mumm社とLyceeに赤アンダーライン。
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ランス大聖堂の歴史(配布してくれたパンフレットの一部)。
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大聖堂の内部の配置。
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大聖堂正面。
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ド・ゴール大統領(フランス)のアデナウアー首相(西独)との和解の誓い;フランス語とドイツ語。
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「微笑む天使」の全体像。
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上記の写真の顔の部分の、明暗を後で調節したもの。
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別の片羽の取れた微笑む天使。こちらを採用している案内書も多い。
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シャガールのステンドグラス。
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訪問前にテレビで見たシャガールのステンドグラス(放映:2013.4.10)。
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聖堂内のジャンヌ・ダルク。
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聖堂前広場のジャンヌ・ダルク(ポール・デュポア作(1889))。
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フジタの礼拝堂の門。
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門内から見た礼拝堂。
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礼拝堂入口から見える正面。
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壁画(ネットより)メガネをかけたのが、フジタで、その左が、シャンパン会社のMumm社の社長のルネ・ラルー(Rene
Lalou:1877-1973)と言われる。
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チャペルの外側のステンドグラス。
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隣接するMumm社の庭では、午後の歓談中 (14:45)。
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Lyceeの校門前。
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この学校のチャペルは、土、日の14-17:30の間、無料一般公開のお知らせ。
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サン・レミ聖堂や、Pommery社の位置を示す地図;ノートル・ダム大聖堂[1]もある。
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サン・レミ聖堂。
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クロヴィス王の洗礼。
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地図(Rm25’)から判断すると、 Rm32が、エーヌ川からマルヌ川への運河で、Rm33が、Vesle川である;平行する、この2つを区別すべきなのかどうかは、分からない。
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