●ロレーヌ地方(Lorraine) ドイツ、ベルギー、ルクセンブルグの3つの国に囲まれたこの地方は、アルザス地方と共に、私には、戦争の地という印象が強く、ベルダンはいつか参拝したいと思っていた。今回、それを果たすことができ、ほぼ100年を経た戦場に、大変、身の引き締まる思いがした。「フランスの彩り」のお蔭で、アルツヴィレという船が山を上る他では見られない場所を見ることができた。ヴィッテル、コントレックスという日本でも知られた水の源泉地に、ほとんど観光客がいないのには驚いた。一番残念だったのは、時間の関係で、ナンシーを見そこなったことであった。
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●アルツヴィレ(Arzviller)ロレーヌ地方 昔、入手したエール・フランス発行のパンフレットには、各地方(22のRegion)の見るべきものが紹介されている。日本の観光書(例えば、「地球の歩き方」)とは違った、現地の視点から見ているので、個人旅行の際、行く場所を選定するのに役立つ。ロレーヌ地方には、Arzviller(Strasbourgの西、直線距離で、約50 km)に、段差のある(約45 m)2つの運河の間を、船を輸送するところがあるというので、そういうものを未だ想像したこともなかったので、見に行った。夕方で、船の運航時間が過ぎていて、実際に船に乗って上下できなかったが、装置だけは、見られた。要するに、船自体を水の入った大きな容器に入れて、水の出入り口の蓋をして、坂を、ケーブルカーのように動力で上げ下げする。ここの入場者の遊覧に使う以外に、一般の、ここを利用して、船で運行する人に対しても利用させるものと推察するが、その場合の料金を聞くのを忘れたのは残念であった。人里離れたところであったが、観光客は、そこそこ来ているようであった。 仕組みを知るには、ネットで見られる上空から写真が、一番分かりやすい。簡単に言えば、船を「容器」に入れて、その容器を、動力で坂を滑らせる。仕組みが分かってしまえば、成程と思うが、上から下へ運ぶのには、さほど電力を必要としないが、下から持ち上げるのは、エレベーターの原理に従って、レール上を「錘」が、下に下がる仕組みになっている。あとは、通行する船の需要があるのかということと、費用はどれくらいかかるかということだろう。それで、多分、観光入園者から、入場料を取って、通常は、上下する遊覧に使っていて、通行するのが必要な船がくれば、一緒に載せるのであろう。パンフレットに、ここを船で通る団体旅行の案内があった。 我々は、ストラスブルグから、ここへ向かったが、その場所がよく分からず、GPSに入れることが出来ず、途中で聞こうにも、歩行者もいないので、着くのに手間がかかって、着いた時は、船の運航が丁度終わった後であった。それで、実際に、船に乗って、上下できなかったし、動いているところを見られなかった。入場しただけで、何もしないで帰るのは残念なので、家内を、上に残して、自分だけ、下まで、横の坂道を通って、駆け下り、上を見上げて観察し、また上って帰ってきた。人の入場口は上側のみである。世界で、他に、こんな装置があるのかどうか、知らないが、初物を見て、わざわざ遠くまで、見に行って良かったと思った。
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●メッス(Metz)ロレーヌ地方
商業都市で、モーゼル川岸にある交通の要所である。新旧合わせて50近い教会があるが、中でサン・テティアンヌ大聖堂が有名である。ピカルディ地方のホテルからロレーヌ地方へホテルへの、今回の旅行で一番距離の長い移動の途中、ヴェルダン見学の後に立ち寄ったので、あまり時間に余裕が無く、一番大きいサン・テティエンヌ大聖堂を集中的に見ただけであった。そこを流れるモーゼル川は、割合小さな川で、水もきれいではなく、そう風情のある川ではないと感じた。 [サン・テティエンヌ大聖堂] サンテティエンヌ大聖堂(Cathedrale St-Etienne)は、ローマ時代にあった教会の跡に、13-16世紀にわたって建てられた。そのステンドグラスは、13-20世紀にわたって描かれ、その総面積は6500 m2で、ステンドグラスで有名なシャルトル大聖堂の3倍以上あるそうである。その中にはシャガールの描いたステントグラス(20世紀)があることを知り、それを見るのを楽しみにしてきた。そして、この1つが、旧約聖書の創世記中の、私の、いつも注目する「イサクの犠牲」を題材としたものであることを、そこにあった説明書で知った。 ◆最左端の画:イザアク(またはイサク)の犠牲(旧約聖書) 神が、アブラハムの信仰の深さを試すために、息子イザアクを生贄にすることを要求する話である。 <神が、アブラハムに指定した場所に、彼ら(アブラハムとイザアク)が着いた時、彼は祭壇をつくり、薪木を用意した。それから、彼は、彼の息子イザアクを縛り、薪木の上の祭壇の上に乗せた。アブラハムは手を伸ばし彼の息子を殺そうとナイフを掴んだ。しかし、エホバの天使が、空から彼に、「アブラハム、アブラハム」と叫んだ。アブラハムは、「ここにおります」と応えた。「その子供に手を上げるな。何故なら、汝が、神を恐れていることが、分かったからだ。」と天使は言った。「汝は、汝の一人息子を神に捧げることを拒否しなかった。」と。> 私は、スウェーデン留学中、あるとき、自分の名前のIsaoがIsacと字体が似ていることから、Isac Okadaと間違われたことがあった。それを契機にイサク(少しスペルが違うが)について、調べ、Isaac Newtonや、矢内原伊作が、このIsaacから名前を取ったことを知り、これが上記の旧約聖書の物語に由来することを知った。 シャガールの同じ題材の、ニースのシャガール美術館にある絵とその説明を以前(2010年)に撮っていたので、比較のためにここに示す。シャガールは、旧約聖書に題材を取った絵を描くことが多いので、その知識がないと、全く分からない。1982年にニースのシャガール美術館を、初めて訪れた時は、意味が分からず、一緒に行ったスウェーデンの友人が、感心して見入っていたので、これは、勉強しなければいけないと感じた。 この旧約聖書の話を最初に知ったとき、神も、何と残酷な試練を与えるものかと驚いた。しかし、後になって、ある意味、自分も同様な運命を持っていたのではないかと考えるようになった。父は、私を、国家の為に戦って手柄を立て、最悪、戦死してこいという意味で、「勲」という字を、付けたのだと。「神」に相当する「国家」に、無意識に、命令を受けた父はアブラハムに相当したのだろう。しかし、私の生命を救ってくれたのは、国ではなく「敵国」であったので、気持ちは複雑である。以後、「イサクの犠牲」の彫刻・絵画を、あちこちで、より興味を持って見ている。 紅花雪夫著「ヨーロッパが面白い(上)」には、次のような解説が出ている。 <イスラエル王国の隣のフェニキアには、実際に長男を燔祭(はんさい)として神に捧げる習慣があった。その風習がイスラエル王国にも伝わって流行したので、それをやめさせるためこの物語が創作されたと学者は考えている。> ◆左から2番目の画:ヤコブと天使の戦い(旧約聖書) 旧約聖書の中では、次の3番目の画の話の後に出てくる物語で、シャガールのステンドグラスの順序は、左から時系列に従って描かれているわけではない。それには、色の調和などの理由があるのだろうが、私には、分からない。この画の物語は、次の話の後、ヤコブが、エサウ側の攻撃を察知して、逃げる途中の物語である。大聖堂に備え付けの説明では、大変分かり難いので、手元にある池田裕著「旧約聖書の世界」三省堂を、部分的に借用する。 <ある夜のことだった。ヤコブは一族を連れてヨルダン東岸のヤボク川にかかる渡しを渡ろうとした。まず家族の者たちと家畜の全員が渡った。いよいよヤコブが渡ろうというとき、突然何者かがヤコブに組みかかってきた。2人は激しく組み合い、すでに夜が明けようというころになっても勝負がつかなかった。相手は、ついにヤコブの腿の関節をはずした。ヤコブはそれでも相手を放さなかった。ヤコブは直感的に、相手はもしかしたら神の使いではないかと思った。相手が、「放せ、もう夜が明ける」というのに対し、「放せと言うならば、私を祝福してください」というと、「お前の名前は何という」と聞くので「ヤコブ」ですと答えると、「では、今からヤコブではなくイスラエルと名乗るがよい。お前は、神とも格闘して勝ったからだ。」ヤコブは相手の名前を聞いたが、答えずに消えた。> まず、何故、神が、ヤコブに、格闘を仕掛けて、怪我までさせて、充分強かったからという理由で、祝福するのかが、さっぱり分からない。神は弱者の味方ではないのだろうか。 この画を見ると、抱き合っているように見えて、格闘しているように見えず、どちらが、神でどちらが、祝福されたヤコブ・イスラエルなのか分からない。一応、白い方が、神なのだと想像するのだが。 ◆ 左から3番目の画 :ヤコブの夢(旧約聖書) イザアク(Isaac)の妻はレベッカ(Rebecca)という。年老いてようやく双生児男子が生まれた。最初に生まれたのは、エサウ(Esau)(長男)で、次に、ヤコブ(Jacob)が生まれた。イザアクは、エサウを、レベッカはヤコブを愛した。やがて、2人は、争うようになり、心配したレベッカは、ヤコブに、しばらくベエールシェバ(Beersheba)を離れて、彼女の故郷ハラン(Haran)に難を避けるように勧める。(現在、双子では、後に生まれた方が、長子とされるが、昔は、違っていたのだろうかと思ったが、胎内で、生まれる順序も両者は争っていて、順序に関係なく、エサウが長男ということになっているらしい。) 大聖堂に備え付けの説明に書いてある英語を訳すと、次のようになる。 <ヤコブは、ベエールシェバを出て、ハランに向かった。ある場所に着いた時、太陽が沈んだので、そこで一夜を過ごした。そこで見つけた石の一つを枕にして、横になった。彼は、夢を見た:そこには梯子があり、地上から天に届いていた。そして、天使たちが昇り降りしていた。エホバ(Yahweh)が彼の横に覆いかぶさるように立って言った:「我はアブラハムの神であり、イザアクの神である」>と。 この題材の絵も同じく、ニースのシャガール美術館にあったものを、比較のため示す。 ◆ 左から4番目は、モーセと燃える茨(旧約聖書) これは、モーセの、出エジプト記の中のものである。犬養道子「旧約聖書物語」新潮社を借り、要約すると <モーセはふと、山麓地帯をおおう、生気なくしかもびっしりと茂る茨が、焔に包まれるのを見た。焔に包まれながら焼き払われもせず相変わらずの姿で残りつづけているのであった。その時、神の声があり、お前のいま立つ地は、神の聖なる土地だ。エジプトでのわが民の苦しみを私は見ている。私の選んだ民をいまこそ、エジプトの悲惨から救いだし、蜜と乳との溢れる豊沃なカナンの土地へ---->とある。このモーセが、焔に包まれた茨を見ている図である。 このステンドグラスの他に、もう1組シャガールの同様のものがあるが、それは、説明が無いが、「この世の楽園」を題材としている。アダムとイヴが楽園から追われる図を示しているそうだが、具体的に、どこが何を示しているか良くは分からない。更に、少なくとも、もう1つある。シャガールの旧約聖書に基づいて描かれた画は、旧約聖書に通じていないと何を描いているのか、分からない。しかしながら、最近は、ネット上で調べることが出来るので、写真を撮っておけば、後に成程と分かるのは有難い。教会は、原則、入場無料で、写真撮影も自由である。
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●プロンビエール・レ・バン(Plombieres-les-Bains)ロレーヌ地方
サン・ディー(ロレーヌ地方)のホテルから、アルケ・スナン (フランシュ・コント地方)近くのB&Bに南下移動する際、途中、ロンシャンやブザンソン以外にも立ち寄るべき所を、前日、地図上で探していたら、メインの道路(E23)に近い場所に当地を見つけた。フランスの温泉は、試したことがないので、入るよりも、まず、どういうところかに興味があった。一応、水着は日本から持参してきていた。 後で知ったが、当地は、1858年にプロンビエールの密約がナポレオン3世とサルディニアの首相カブールの間で結ばれた重要な場所で、高校の世界史には載ってないが、仏和辞書には載っていた。イタリア統一のためには、当時オーストリアを支配していたロンバルディア、ヴェネツィアを奪回しなければならず、イタリア統一戦争(1859)で、フランスが、サルディニアを助ける代わりに、サヴォアとニースを得るという密約を、両者は、当地でした。その後、両国間で、複雑な駆け引きがあったり、ニース出身のガリバルディ(Giuseppe Garibaldi: 1807-82)が怒ったりしたが、彼が、結局、イタリア統一を果たしたが、その際もフランスの援助を得たので、お礼として、ニースやサヴォアの大半はフランス領に譲渡した。ニースは、イタリア統一戦争の援助の謝礼で、フランスに割譲されたことは、以前から知っていたが、その元は、この地の密約が始まりだったことは知らなかった。大半の日本人はニースは、少なくとも中世以後は、フランスの固有の領土だと思っているだろう。 プロンビエールの町にはGPSで容易に着けたが、バン(温泉)のある位置が分からないので、駐車した中心街から少し外れた場所で、たまたま歩いている人にフランス語で聞いたが、通じなく、バンクなら知っているがと言われた。仕方がないので、家内を車に残して、歩いて5分ほどの中心街の店に入って聞いたが、やはり分からないので、泳ぐ身振りをしたら、ようやく通じた。サル・ド・バン(salle de bains:浴場)と言うべきことを知る。ナポレオン3世が造ったので、上記の密会も、ここで行われたのであろう。 家内と一緒に行ったら、営業時間は午後からで、未だ11時前だったので、この先の予定を考えると待つ時間的余裕はないし、入浴するより、中の様子を知りたいので、中に入って写真を撮らせてくれるかと聞いたら、意外にも、快く、許してくれた。しかし、大きな浴室が、どんな様子なのか、いちいち、ドアを開けて見るのも気が引けるので、分からずに、数枚、主に廊下の写真を撮り、パンフレットを貰っただけで出てきた。水温は聞かなかったが、パンフを見るとサウナもあるから、少なくとも、終始冷たいということはなさそうであった。後で調べたら、水温は65 oCで、室温は、50 oCで前後に水を浴び、10分間を勧めているので、サウナ方式なのかと想像する。浴槽あるいはプールがあるのかは、よく分からない。そこだけなら、入場料は13 Euro(約1800円;1 Euro=140円とした場合)だから、そう高くはないが、マッサージなどのトリートメントを受ければ、高額になる。トリートメントのメニューの中に、ゲランドの塩を使ったパックなどがあるが、ゲランド(ブルターニュ地方)は前年(2012)訪問しているので、何故、ゲランドの塩が、特別、効果があるのか不思議に思う。いずれにせよ、トリートメントの名称だけを見ていても、その内容と効果に、女性ではないが、少し興味がわく。日本でも、同様なことが行われているだろうが、ゲランドの塩は使っていないだろう。 アイスクリームに、プロンビエールという名称のものがあるが、一説では、これは、バルザックの小説で述べられているが、上記の1858年のナポレオン3世とカミロ・カヴールの密会のレセプションで、ナポレオン3世がもてなしたものだと言われている。キルシュと砂糖漬け果物を付けたアイスクリームをいうらしい。
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●ヴェルダン(Verdun)ロレーヌ地方
ピカルディ地方のホテルから、アルザス地方のホテルに移動する途中にヴェルダンを訪問した。1914年7月28日に、始まった(1918年11月11日迄)第一次世界大戦の最大の戦場になったヴェルダンには、機会があれば、参拝したいと思っていた。海外旅行の際には、1つのテーマとして、「戦争」と「塩」に関係したところはなるべく周りたいと思っている。 当地では、時間の制約もあり、各戦場跡を訪問することは出来なかったが、主に、墓地に参拝した。十字架の並ぶ風景は、ノルマンディのD-day海岸にある米国軍墓地(約1万弱の墓標)と似ているが、数はより多く、参拝客もまばらで、曇り空のこともあって、100年近く経った今でも、大変、鬼気迫るものがあった。 砲弾の形をした納骨堂は、戦場に散乱した13万人のフランス・ドイツ軍兵の遺体を集め、1932年に開設された。名前の分かっているフランス兵について、十字架が並び、その墓碑には戦死した場所と日付が記されている。また、無名戦士の墓碑もあり、それも2人分の墓標もある:例えば、「2 Soldats Inconnus Mort pour la France 1914-1918」(無名戦士2名、フランスの為に戦死、1914-1918)と書かれてあるが、これでは、墓碑が無いのに等しい。唯、どの墓標にも、「フランスの為に戦死(Mort pour la France)」という語は共通して書かれている。軍人は軍服を着ているはずなので、それでも遺体の氏名が分からないということは、大砲や爆弾攻撃などを受け、遺体が姿を為さない状態であったのであろう。次のURLによれば、<納骨堂の裏側の地下のガラス窓からは、両軍の無名兵士らの白骨が一面に積み上げられ、弾丸の穴が開いたシャレコウベがうつろな視線を投げかけているのが見える>そうであるが、我々は、見るのに耐えられないので、そこは、遠慮した。 http://oldbattlefield.web.fc2.com/19160221_Verdun.html (日本語) 当地が、フランス軍とドイツ軍の戦いの場となったのは、1916年2月21日?12月19日で、ドイツ帝国は、膠着した戦況を挽回すべくパリに続く街道にある当地に攻撃の重点を定めた。パリからの距離は、256 kmであるが、ドイツの国境までの距離は50 kmである。当初は、フランス軍約3万人に対して、約15万人を投入したドイツ軍の作戦は成功したが、フランス軍は持久戦に持ち込み、両軍とも多大の損害を出した。戦いの最中に、ロシア軍やイギリス軍の他所でのドイツに対する攻撃が激しくなり、ドイツ軍の当地の攻略は中止された。フランス軍の死者不明者は、162 308人、ドイツ軍死者、約100 000人に上った(ウイキペディアによる)。史上、最大の戦死者を出した戦いとなった。詳しい現地の戦地の様子は、写真入りで、次の日本語によるURLで見られる。 http://oldbattlefield.web.fc2.com/19160221_Verdun.html このURLには、各場所の位置(緯度、経度)が出ているので、GPSで周るのには、大変役立つ。当時フランス陸軍大尉だったシャルル・ド・ゴールは、1916年3月2日、ドゥーモンの戦いでドイツ軍の攻撃を受け負傷し、3年近くドイツ軍の捕虜となったことも、これで知った。 我が国は、第一次世界大戦では、損害も少なく、領土を拡大したので、歴史授業で、あまり深く取り扱われないが、ヨーロッパ大陸では、大変大きなダメージを受けた。現在、フランスの地方に行くと、その村の第一次、第二次世界大戦の戦死者の名前入りのモニュメントがあるところがかなりあり、第一次世界大戦も、非常に大きなダメージを与えたことが分かる。 高校時代の、参考書、秀村欣二著「世界史」(学生社)のヴェルダンの項を見てみたら、囲み記事として、「廃墟のキリスト像」というのがあり、写真入りで、次のようなことが書いてあった。<西部戦線の激戦地であったソンム村付近の廃墟と化した教会堂のなかにキリストの像だけが奇跡的に残り、あたかも戦場に血を流す人間の罪の贖いを今なおつづけているかのごとくであった。>と書いてあるので、秀村先生も、昔、訪問され、感動されたのであろう。戦場の壕の中には、礼拝施設があるものもあり、兵士にとって精神的よりどころは、やはり、キリスト教であったのだろう。人類は、何故、こんな残酷な戦争を、いつまでも繰り返すのだろうかと思う。幸い、現在、ヨーロッパは、そして我が国も、平和が保たれているので、こうして旅行ができるのを、まず大変有難く、申し訳なく思った。 訪問者が、少ないためか、<訪問者が地元に落としてくれるお金は、モニュメントの維持管理に大変有難い>という看板まで出ている。100年近くも経っているので、戦死者を直接知っている人も皆無の中、これだけ、管理をするのも大変であろうが、国の威信にかけて管理・整備しているのだろう。ところで、手に入れた観光パンフレットは、戦争の悲惨さを表面に出していない観光地対象用のような明るいもので、そのあまりのギャップに驚かされる。パンフレットの一部には、折り紙の折り方まで書いてあり、パンフレット自体が折り紙に使えるようにもなっている。きっと、小学校の校外見学で来る生徒が、興味を持って見学できるように、クイズのある場所などが記されている。折り紙も、戦争と関係のある兜である。日本なら、今のところは、「はと」なのだろうと思う。想像ではあるが、フランス国民の、戦争に対する考えは、現在の日本人のそれとは大分違う気がする。そして、この納骨堂の大きな建物も、大砲を模っていて、鎮魂より、国の威信・戦意を前面に出しているように思える。フランスはやはり、軍国主義の国であると感じる。パリ祭のシャンゼリゼ通りの軍事パレードで、軍人の行進が近づくと民衆が、大拍手で迎えることでもそう感じていた。ここに見学に来る学校の先生は、生徒に、どのように、この戦場を語っているのだろうか、興味深い。 英文学者で、能研究家でもある野上豊一郎(1883-1950が、1939年にヴェルダンを訪れた紀行文が、次のURLや青空文庫で見られて大変興味深い。原本は、日本の太平洋戦争突入直前の1941年9月10日に発行されているが、そこには、すでに、不必要と思う所でも、何ヶ所も伏字があり、その先の日本を暗示させ、このことも不気味に感じる。野上豊一郎は、漱石の弟子の1人で、野上弥生子の夫であり、息子たちに、素一、茂吉郎、耀三などの有名人もおられ、戦後、中央大学総長も務められた代表的インテリであられた。 <世界情勢の高速度的推移の中には、今ごろヴェルダンの戦場を見物したりすることを何だか
Up-to-dateでなく思わせるようなものがある。私たちがヴェルダンに行ったのは咋年(1939年)の初夏、まだ今度の大戦の始まらないうちではあったけれども、その時でさえすでに現代から懸け離れた一種の古戦場でも弔うような気持があった。ところが、それから二、三箇月もすると、いよいよ新しい戦争の幕は切って落され、
ヴェルダンを古戦場の如く感じる気持は一層強くなった。 伏字は、どういうところに使われているのか、興味深いので、ここに、いくつか例を挙げる。 <死んでしまえば敵も味方もなくなると言ったが、生きてる時でさえ敵も味方もなくなるという一つの実例を私たちは私たちのショファ(運転手)に聞いた。彼は二十年前フランス軍の一兵士としてヴェルダンの戦線に出ていた。この辺でのことだったといって指ざしたのがヴォーの塁砦の付近だったように記憶するから、ヴォーか スーヴィルかでの出来事だろう。敵と味方が短距離で対抗して戦っていた。たまらなく咽喉が渇いて水が欲しくなり、夜にまぎれて脱け出して、村はずれの井戸に水飲みに出かけると、向うからも黒い影が二つ三つ忍び寄って水を捜しに来る者がある。たしかに敵兵だとわかってはいたけれども、こっちも撃とうとはしないし、向うも懸かろうとはしない。黙って水を汲んで別れてしまう。そんなことがよくあったそうだ。その時は(原本十五字伏字)お互いに人間に返っているので、憐みと同情が双方の心に湧いていたのである。> ここは、戦意を失わせるから、戦争を準備している当時の国としては都合が悪いから、伏字にしたのだろうか。次のところは、ほとんど、伏字になっていて、何を書いてあるのか、全く分からないようになっている。今の戦争を知らない人たちは、国は、こういうことまで行って、言論を統制して戦争を準備していったことを知らないであろう。 <(中略)昼間は(原本伏字)撃ち合った者が、夜になると同じ旋律に心を溶け合わせて踊る。こうなると、戦争の方が本気なのか、踊る方が本気なのかわからなくなる。恐らく本人たち同士といえどもわからないのだろう。わからないからこそ、そういった矛盾したこともやれるのである。(原本伏字)ヴェルダンでも、そういったことがしばしばあったに相違ない。 「戦争をそういった変態的なものと見る者は世界の進化の上から(原本伏字) 。。。。。。。。。 と考える。「エホバは地の果までも戦争をやめしめ、弓を折り、戈を断ち、戦車を火にて焼く。」そういうことが早くから言われていたが、人類始まって以来今日に到るまで、戦争はしばらくも止む時はなかった。今後といえども恐らくそうだろう。ニホバ(ヤーヴェ)についていうならば、彼が考えを変えて人類を地球上から絶滅させ、別種の者を造り出さない限り望めないことかも知れない。(原本伏字)今に、ヨーロッパのどこかの部分で戦争が始まったら、ヴェルダンの兵器や戦法は完全に out of dateになっていることが発見されるだろう。……> 原本:「西洋見學」日本評論社 1941(昭和16)年9月10日発行 底本:「世界紀行文学全集 第二巻 フランス編2」修道社 1959(昭和34)年2月20日発行 (底本でも、かなり長い文章が、伏字のままになっているためか、意味の、全く分からない部分もある。) http://www.aozora.gr.jp/cards/000963/files/43093_27836.html
なお、ヴェルダンは、世界史には、全く別な出来事の、843年(日本の平安時代)にヴェルダン条約としても登場する。フランク王国のチャールス大帝が死に皇子ルイ1世が帝位を継ぐと、その子ロタール、ピピン、ルイ、チャールスと父子5人の間で領土争奪の争いが起こり、その結果、ルイ1世、ピピンの死後、ヴェルダン条約が成立し、ロタールは帝位とイタリア及びライン左岸の中部フランクを、ルイは、東フランク(ドイツ)、チャールスは西フランク(フランス)をそれぞれ分割した。ロタールの死後、870年のメルセン条約(オランダの都市)で中部フランクを分割し、ロタールの子ルイ2世には帝位とイタリア領有を認め、今日のドイツ、フランス、イタリアの起源となった。すなわち、ヴェルダン条約は、フランク帝国の崩壊と近代西欧諸国の形成に決定的な影響を及ぼすことになる。
Vd5’の訳:いろいろなモニュメントがあり、あるものは戦死者のものであり、あるものは破壊された村や建物の元あった地点のものである。この近くにあるドゥオモンの納骨堂には、ヴェルダンも戦場で亡くなった13万人の無名戦士の遺骨が納められている。殺戮の最も悲惨さを記念することは、風景の地勢的変化と、ベルダンが平和と人権の理想に貢献するフランスとドイツの和解のシンボルであることである。 Vd10’の訳:両軍の兵士へのストレスは惨憺たるものであった。1人のフランス将校は、1916年5月23日の日記にこう書いている:<人間は、気が狂っている。人間が今行っていることは、気狂いじみている。何たる大量虐殺!何たる恐怖と死体の光景!地獄でもこんなに悲惨ではないはずだ。人間は、気狂い!>彼は、この年、遅くに戦死した。 Vd11の原文(仏語と独語)と訳: [仏語] Sur ce cimetiere francais se sont rencontres le 22 septembre 1984 pour la premiere fois l’histoire des deux peoples le president de la republique francais et le chancelier allemande avec une pensee commune pour les morts des deux guerres mondiales ils ont depose des couronnes et declare: Nous nous sommes reconcilies. Nous nous sommes compris. Nous sommes devenu amis. Francois Mitterrand Helmut Kohl ---------------------------------- [独語] Auf diesem franzosische Soldatenfriedhof trafen sich am 22 September 1984 zum ersten Mal in der Geschichte der beiden Volker der franzosische Staatsprasident und der deutsche Bundeskanzler sie legten im Gemeinsamen gedanken an die Toten beider weltkriege Kranze nieder und erklarten: Wir haben uns versohnt. Wir haben uns verstandigt. Wir sind Freunde geworden. [私訳] 1984年9月22日、フランス軍人の墓地で、歴史上、初めて、フランス大統領とドイツ首相が、第一次、第二次世界大戦の戦死者に対して、共通の思いをもって、花輪を捧げ、次の宣言をする:我々は、和解した。我々は、相互理解をした。我々は、友人になった。 F.ミッテラン H.コール |
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●ヴィッテル(Vittel)ロレーヌ地方
10年以上前に、化学の専門書のコラム欄に軟水・硬水のことを書いたことがある。硬水に分類される一般に市販されていた水の中では、ヴィッテルが一番硬度が低く、コントレックスが一番硬度が高かった。すなわち、コントレックスは、当時、市販されていた水の中では一番硬度が高いことになる。硬度が高いほど良いというものではないが、ドイツ産のベラフォンタニスという水は、硬度1864で、一番高い。 今回の旅行を計画している時、ヴィッテル(地名)は、その行先計画の領域内にあり、コントレックスを生産している場所のコントレックセヴィル(Contrexeville)とは4 kmぐらいしか離れていないことを知り、両方を訪問することにした。 しかし、手持ちの観光案内書には、両方の町とも記述がないので、町の場所は、地図で分かるが、そのどこに工場があるか、分からないままに、現地に行った。ヴィッテルの方が、基点のホテルに近いので、まずヴィッテルに行き、次にコントレックスヴィルに行き、帰りにまたヴィッテルに寄り、土産品などを購入した。 ヴィッテルの町の中心部に入る前に、ヴィッテルの工場を車の中から見つけられたので入ってみた。日本では、工場には、門があって、門で、用件を述べて許可を得るのが普通だと思うが、特に門も無く、工場内の駐車場に簡単に入れた。口に入れるものを扱う工場としては、ずいぶんおおらかなものだと感心する。建物の端に裏口があったので入って行ったら、小さな部屋で、1人で実験している人がいるので、ヴィッテルの工場を見学したいので来たのだがどうすればよいのか尋ねたら、ここは、工場・研究所で、観光なら、そのための場所があるからと道順を描いて教えてくれ、そこの空いていそうな駐車場の位置まで親切に教えてくれた。そこは、工場から1 km以上は、あったと思う。 目的地に着いて、車を停めて、辺りを探したが、それらしき所もないし、観光客らしき人も歩いていない。文字通り、大きな立派なグランドホテルがあったので、そこへ入って聞いてみたら、すぐ、横に建物があり、そこに源泉の出ているところがあると親切に教えてくれる。公園の中のようなところを、教えられた方向に歩いたら、すぐ近くに、観光案内所があったので入って聞いた。ホテルや案内所がありながら、宿泊客や観光客の姿は見えない不思議な所である。案内所の隣に立派な建物があって、長い廊下の先端に立派なホールがあり、そこに、源泉の出ているところがあった。中には、我々以外、誰もいないが、水は、絶えずでているし、ホール内には別に水道の蛇口もある。この日は火曜日(9月10日)であったが、あまりにも閑散としているのに驚く。帰国後、家に、大阪万博(1970年)で得たらしい、昔のフランス紹介の128ページの「フランスめぐり」という冊子があり、温泉の代表として当地があげられ、この場所の写真(Vt16’)があった。当時の人出の数とのあまりの違いに再度、驚く。その冊子に書いてある紹介をここに載せる。当時は、日本では、飲料水を購入して飲む習慣は無く、その余裕も未だ無かったから、ヴィッテルなどの名前は、まだ誰も知らなかった時代であった(1971年8月15日まで、1 $=360円で、ヨーロッパ通貨には、日本では交換できなかった)。 <フランスには大きな温泉場が100あって、ヴィッテル温泉場はそのひとつに数えられ、種々の目的のために利用されている。1966年、これら100の温泉場を訪れた湯治客は8万5千人に達したが、この数は、毎年8%ずつ増加している。>と書いてある。 源泉は、この廊下に面して、もう1つある。コントレクセヴィル訪問の帰りにもう一度立ち寄ったら、そこで、水を汲んでいる人を初めてみた。 源泉としての当地の観光人気は落ちているものの、このナチュラルミネラル水は、世界で販売を拡大していて、現在はネスレグループが商標を所有している。ロンドンマラソンの公式飲料となっていたほか、2008年からはツール・ド・フランスの公式飲料となった。もし、これがマラソンランナーにも適用されるとしたら、飲み物は、個人で決められるのかと思っていたので、公式飲料が決まっているとは知らなかった。日本でも、近年、大いに売れているようで、2003年に、サントリーフーズが、日本における販売元となり、2014年1月7日にコントレックスとともに、日本での販売をポッカサッポロフード&ビバレッジに移管し、パッケージも改められた。 なお、ミネラルウォータ―について、今回、ウイキペディアなどで勉強したことを付け加える。「ミネラルウォーターとは、容器入り飲料水のうち、地下水を原水とするものを言う。日本では特に、原水に無機塩添加などの調整を行っていないものは、ナチュラルウォーター・ナチュラルミネラルウォーターと呼ぶ。一方、原水が地下水でないものは、ボトルウォーターと呼ぶ。これらの区分については農林水産省がガイドラインを定めている。」ミネラルウォーターには、ミネラル成分の品質規定があるわけではなく、水道水よりも水質基準がゆるく(ヒ素濃度が水道水の5倍まで認められるなど)、安全性という点では、日本においては水道水に劣っているそうである。また、ミネラルを、必ずしも多く含んでいるわけでもなく、ミネラルウォーターから、ミネラルを摂取しようとしても、水を飲めば、それだけ尿の量が増え、ミネラルが傍から排出される恐れもあるのだそうである。海外では、有効だが、日本では、あまり有効ではないらしい。 なお、ヴィッテル公園の奥の方は、見に行かなかったが、ゴルフコースや、もう一軒ホテルまであるようで、そこも、多分、客がいないのではないかと思った。その他、教会や、ヴィッテルの歴史を紹介している博物館があった。博物館は、入口で、みやげ物などを購入したが、中は見なかった。しかし、この地に、第二次世界大戦中、1941-44年の間、ドイツが、イギリス、アメリカ軍捕虜の強制収容所を設置していたことは、知らなかった。
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●コントレクセヴィル(Contrexeville)ロレーヌ地方
フランス語の電子辞書を引くと、<フランス北東部ヴォ―ジュ地方西部の町. 肝臓・腎臓病に効くミネラルウォータ―を産する>と書いてある。 行ってみたら、町の規模はヴィッテルより大分小さく、人口は4000人ぐらいあるはずだが、ほとんど観光客や住民を見ない町であった。 鉄道の駅のすぐそばに、観光案内所と源泉の施設があるが、昼間なので、閉まっていた。しかし、源泉のあるドーム屋根の円柱型の建物は、周りがガラス張りになっているので、中は、周りから覗くことができ、源泉は、そこから数メートル先にあるという表示があるので、そこで、水が試飲できる。水は、すぐ横にある売店を兼ねた喫茶店で、ボトル入りを購入した。特に、安いということはない。コントレックスは、それまで飲んだことがなかったと思うが、やはり、硬度が高いので、味が少し違う。 建物の裏の道に行ってもまるで人影がない。昼の休息の時間にしても、不思議な光景であるが、面白い経験ができた。 硬度の定義はやや専門的になるが、水1 L中にカルシウムイオン(Ca2+)とマグネシウムイオン(Mg2+)が合計で、0.01 mmol(ミリモル)含まれている水を硬度1と定義する。コントレックスの成分は、1 Lの水中、Ca:468 mg, Mg:74.5 mg, K:2.8 mg, Na: 9.4 mg, pH: 7.4と発表されている。カルシウムイオン、マグネシウムイオンの0.01 mmolは、それぞれ、0. 400 mg、0. 243 mgであるから、カルシウム硬度は、1170、マグネシウム硬度は、306で、計1476で、発表されている値1468と誤差範囲で一致する。Vt1’’の1555とは、多少違うが、時間的変化か、分析値がより精密になったためか分からないが、ほぼ一致していると言える。ヴィッテルの硬度は307で、Vt1”の値と変わらない。 コントレックスは、飲むだけで痩せると誤解されている面があるが、ダイエットの際に不足しがちなミネラル分を補うものであるとパッケージに記述されているそうである。過飲するとお腹をこわす恐れがあるようだ。 後でウイキペディアを調べたら、ここにも、当然、工場・研究所はあるのだが、どこにあるのか聞きもしなかった。ヴィッテル同様、見学者を受け入れる用意はないだろう。
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