●アルザス地方(Alsace

アルザス地方は、ロレーヌ地方と共に、フランスとドイツの国境近くにあるので、この地は、歴史的には、ドイツ領になったりフランス領になったりしてきた。

フランス語では、ストラスブールが、ドイツ語では、シュトラスべルクと言う。高校の世界史でも、両国の取りあいの歴史は習ったが、それをより強く認識させてくれたのは、大学時代のフランス語で習ったアルフォンス・ドーデ((1840-97:「風車小屋だより」などで有名な作家)の「最後の授業(La derniere classe」であった。ウイキペディアにもその概要が出ていたので以下に引用させていただく。日本は無条件降伏したけれども、日本語を廃止するということは、ポツダム宣言にも要求されていなかったし、こういうことは、考えたこともなかった。ただし、日本は、朝鮮を併合して、朝鮮人に日本語を強制的に使わせていた過去があるので、身近な話でもあったはずである。

<ある日、フランス領アルザス地方に住む学校嫌いのフランツ少年は、その日も村の小さな学校に遅刻する。彼はてっきり担任のアメル先生に叱られると思っていたが、意外なことに、先生は怒らず着席を穏やかに促した。気がつくと、今日は教室の後ろに元村長はじめ村の老人たちが正装して集まっている。教室の皆に向かい、先生は話しはじめる。「私がここで、フランス語の授業をするのは、これが最後です。普仏戦争1870-71)でフランスが負けたため、アルザスはプロイセン領になり、ドイツ語しか教えてはいけないことになりました。これが、私のフランス語の、最後の授業です」。先生は「フランス語は世界でいちばん美しく、一番明晰な言葉です。そして、ある民族が奴隸となっても、その国語を保っている限り、牢獄の鍵を握っているようなものなのです」と語り、生徒も大人たちも、最後の授業に耳を傾ける。やがて終業を告げる教会の鐘の音が鳴った。それを聞いた先生は蒼白になり、黒板に「フランス万歳!」と大きく書いて「最後の授業」を終えた。>

また、約15年前(1997.9)の雑誌(アート・ポリタン)の記事で、アルザス・ロレーヌを紹介しているのを、たまたま、最近見た。そこに、学生時代に読んだ文学が、それからの人生を左右した例として、森島昭夫上智大教授(当時)のエッセイが紹介されている。             <チボー家の人々」との出会いには、身震いするような衝撃的な事件であった。当時、大学生だった私にとって重大問題に思えた自分とは何か、社会とは何かなどという課題のすべてが「チボー家の人々」のテーマであったからである--->そして、そのテーマの凝縮した対象は「戦争」の不条理だった。1937年のノーベル文学賞受賞者、ロジェ・マルタン・デュガールRoger Martin du Gard)の大長編小説「チボー家の人々Les Thibault)」は、第一次大戦下のヨーロッパ、フランスとドイツの国境にあるアルザス・ロレーヌ地方を舞台に押しつぶされてゆく地方を舞台に若人の苦境を描いたものだが、日本では第二次大戦中「反戦思想」の本として発禁処分にされていた。>

ここまで書いて、友人に、父親がドイツ人で、母親がフランス人で、ドイツ(Mainz)の大学を出て、現在はボルドー大学の理系の教授をしている人がいるので、この地域についていくつか質問し、また見解を聞いてみた。私の為に、英語で書いてくれたが、貴重で、興味深い、中立に近いと思われる見解なので、原文のまま掲載する。第二次世界大戦後、ドイツは、米、英、仏、ソ連の4国に分割統治された。その際、マインツはフランスによって統治され、彼の母親は、フランスから看護婦として派遣され、父親は、マインツの医師であり、2人は結婚し、彼が生まれた経緯がある。

<Most village (and other local) names in Alsace are of German (more precisely Alemanic) origin. They were changed into French in some roughshod way during the forced 'francization' in the 19th century.
(Alsace is originally an entirely alemanic country, many famous poets from the middle ages come from there, when Gutenberg moved to Stasburg in the 1470ies, nobody there spoke anything resembling French, many reformers (Luther's time) come from Alsace). It was 'stolen' by Louis XIV at the end of the 17th century. There is an excellent thesis from Strasbourg University in the 1920ies about languages in Alsace, I'll find the references again)>
 see also
http://eucenterillinois-language.blogspot.fr/2013/03/alsacian-language-with-many-identities.html >
 要約すれば、この地域は、元々、「アレマン人」の国であり (アレマン人:3-5世紀にかけて現在のSchwaben地方に定着したゲルマン諸民族) 中世の有名な詩が多くあり、(マインツ生まれの)グーテンベルクが、1470年代に、ストラスブルグに移ってきた時は、その地方では、誰もフランス語に似た言語を話す者はいなかったし、ルターの時代の宗教改革支持者も、この地方から多く出た。ところが、17世紀の後半になって、ルイ14世によって、この地域はフランスに “盗まれた”と述べている。さらに、ここに示してあるURLを見ると、そこに住んでいるアルザスの原住民のアルザス語が、学校で教えることが認められなかった(1951年のDeixonne法により、他の少数民族の言葉:Breton, Basque, Occitan, Catalanは認められたがドイツ系の言語は認められなかった。

この話を聞いて、私は、フランス側に立った考え方をしていたのかと思うし、その間にある少数民族のことを、全く考えていなかったことを認識した。少し古いが金子享著「アルザスの言葉」によれば、1980年の統計で、アルザス語(ゲルマン系)を母語とするものは72%,フランス語を母国語とするもの22%であるという。公教育では、フランス語と標準ドイツ語が教えられている。本来、この地は、ゲルマン系のアルザス人(Alsacien)が、主であったのが、フランス、ドイツという2つの大国に挟まれて、一番被害を被ってきたのは彼らであった。ストラスブールに留学したアメリカ人が、現地の友達に、最も嫌いな外人は何人かと聞いたら、フランス人とドイツ人だと言ったという話を上記の友達から聞いた。

アルザス・ロレーヌ地方に限らないが、特に、この地は、両国の戦争が絶えない地域で、どれだけの人間が、亡くなられた方ばかりでなく、不条理で、悲惨な目にあったかは、測り知れない。フランスは、小さな村でも、第一次、第二次大戦の戦死者の碑があり、花が供えられている。約70年間、この地区でも、仏・独の和解で、平和が保たれ、どれ程、幸せになったか測りしれない。平和の有難さを、この地域を旅行する際に、特に強く感じた。

[旅行の概要]

アルザス地方の地図や鳥瞰図などを示す。行った場所などは、名前の下に赤線を引いた。これらの地はロレーヌ地方のサン・ディ・デ・ボージュのホテルを基点に、正味、約2日間、訪問した。すなわち、

9月8日()は、ストラスブールに行き、次に、他の地方のロレーヌ地方のアルツ・ヴィレ(Arzviller))に行った。

9()は、ホテルから、コル・ド・ラ・シュルフトを越えて、1日中、アルザスを周った:エギスアイムコルマールリクヴィルリボヴィレオー・クニクスブール城を訪問した。

11()は、ヌフ・ブリザックに行き、ドイツのフライブルグに迄足を延ばし、また、戻ってケーゼルベールに立ち寄った。

ホテルから、アルザス地方に出るには、ボージュ山脈を越えねばならないが、それには、主に、3つのルートがある。コルマールなど南側の地域に出るには、コル・ド・ラ・シュルフトの峠(標高:1139 m)を越えるのと、1つ北側の道を通るのと、更に北の有料トンネルを通ることによって、カーブのない、良い道だけを通る道がある。結局、往に、上記峠を通る道を、2番目の道を、往きに2回、帰りに2回通り、アルツヴィレ(ロレーヌ地方)からの帰りは、その位置の為に、上に述べた道ではなく、北から南下する道を通った。

 アルザス地方(レジオン:Region)は、オー・ラン(Haut-Rhin)とバ・ラン(Bas-Rhin)の2つの県(デパルトマン:Departement)からなる。「haut」、「bas」は、それぞれ、「高」、「低」を意味し、「Rhin」は、ライン川(ドイツ語:Rhein)のフランス語である。したがって、オー・ラン、バ・ランは、それぞれ、ラインの上流、下流地域を意味する。ただし、ライン川は、これらの県の中央を流れているのではなく、東端の、ドイツとの国境になっている。

ストラスブール(Strasbourg)バ・ラン県

ストラスブールのグランディル(Strasbour-Grande ile)は、1988年に世界遺産に登録されている。Grande ileは、大きな島という意味で、市街が、イル川の中の島状になっているからである。一番の見どころのノートルダム大聖堂に行き、66 mの展望台に登った。

当地は、他の、訪問したアルザスの地域と北方に少し離れて、北にあるので、その他の場所とは違う日に訪問した。

コル・ド・ラ・シュルフト(Col de la Schlucht)オー・ラン県

この地点は、ロレーヌ地方とアルザス地方の境界にあるが、一応、アルザス地方に属すことになっている。冬には、スキーの基地である。天気が良ければ、1度、当地を通ることをフランスの友人から勧められていたので、一度だけ、コルマールなどに出るのに、この地を通る道を使った。

エギスアイム(Eguisheim)オー・ラン県

ローマ教皇を務めた(1049-1054Leon IX(1002-1054)は、当地の出身で、その銅像が町の中にある。「花の町」と言われているように、色彩に富んだ美しい街である。「フランスの美しい村」に登録されている。

コルマール(Colmar)オー・ラン県

一番の見どころは、ウンターリンデン美術館(Musee Unterlinden)で、その中でも、マティアス・グリューネヴァルト(Mathias Grune wald)の描いた「イーゼンハイムの祭壇画(Retable d’Issnheim)(1512-16)が、一番の見ものなので、それを中心に見た。

ケーゼルベール(Kaysersberg)オー・ラン県

コルマールなどに行ったのとは別の日に、ドイツのFreiburgへ行った後、ホテルへ帰る道で、遠方にタワーが見えるので、昇れるなら、昇ってみたいと思い、予定していなかったが立ち寄ってみた。それは、フリードリヒ2世が建てた古城の一部である。フリードリヒ2世は、神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン朝の皇帝、及びシチリア王。イタリア史関係では、イタリア名のフェデリーコ2世で呼ばれることが多い。

リクヴィル(Riquewihr)オー・ラン県

美しい建物と高級ワインの産地として古くから知られ、「アルザスの真珠」として知られ、「フランスの最も美しい村」にも登録されている。18世紀後半まで、ドイツのヴェルテンベルク公国の一部であった。旧市街の建物は、15-18世紀建造のものが多い。周囲に広がる。ブドウ畑の丘が市街のすぐ隣から広がり、そこからの眺めも良い。

ここから、リボヴィレに行く際に、3 kmあまりの距離にあるウナヴィル(Hunawihr:「フランスの最も美しい村」)を通った。そこには、コウノトリの保護センターがあるそうだが、見る時間も無かった。

リボヴィレ(Ribeauville)オー・ラン県

 コルマール地方にある郡庁所在地である。近隣の他の村と同様に美しいと思うが、「フランスの最も美しい村」にはなっていない。

オー・クニクスブール城(Chateau du Haut-Koenigsbour)バ・ラン県

12世紀前半ごろに建てられたが、30年戦争 (1618-48)中の1633年に、スウェーデン軍に攻められ、以後廃墟になる。1871年、普仏戦争に勝ったプロイセンが、ドイツ帝国を建国し、アルザス・ロートリンゲン地方に献上し、1901-08年にかけて、ボード―・エプハルトによって修復工事が行われた。1919年、第一次世界大戦の戦後処理で、フランスの国有財となった。2007年から、バ・ラン県の所有となった。ヴォ―ジュ山脈の標高755 mの場所に立つので、眺めがよく、フランス人に人気があるそうである。

ヌフ・ブリザック(Neuf-Brisach)オー・ラン県

 ドイツ国境のライン川の橋までは、3.5 kmで、コルマールからは、12 kmの距離にある。ルイ14世が、防衛上の目的で、ヴォ―バンに命じて、八角形の要塞を造らせた。この要塞は、2008年、ヴォ―バンによる代表的な要塞群の1つとして、世界遺産に登録された。ここを訪問した後、ライン川を越えて、ドイツのフライブルグを訪問した。

ライン川(Rhin) 国境付近

ヌフ・ブリザックから、ドイツのフライブルグに行くのに、ライン川の国境を越える。その付近のフランス側には、発電所(EDF)があり、また、公園になっている。この辺から、ドイツ側からフランスに帰る際には、借りた車で、スイッチを特に入れなくても、ドイツ語の交通事情の説明が聞こえてくる。内容は、よく分からないが、フランスでの運転の注意や道路状況を言っているらしい。ドイツからフランス側への観光客が多いから、そういう人たちに役立つのだろう。個人の一般の車にも、この情報が入ると思うが、スイッチを入れなくても聞こえるのかどうかは分からない。

[ワイン街道]

当地は、アルザスワインの産地としても大変有名な地域である。私は、以前はワインが、短期間であるが、大変、好きだった時代があったが、最近は、自粛するようにしている。理由は、アルコール度が15%と、ビールの3倍高く、ビールは、飲むにつれてまずくなり、自然に辞められるが、ワインは、飲み進んでも、美味しく、辞め時を失うので、健康に良くないことが第一の理由である。それに、旅行先では、喉が渇いているので、ビールの方が、美味しく感じる。他の理由は、「違いが分からない」ことや、海外では、車で周るので、試飲ができないこと、土産に購入しても、飛行機に持ちこむことが困難なことなどである。以前、数万円するムートン・ロトシルトを、ボルドーの本社で、購入して飲んでみたが、1000-2000円程度のものとの違いが、分からなかったし、今回、シャンパンではあるが、シャンパーニュ地方で、ドンペリの高級のものより、1/3の値段のものの方が美味しく感じることで、残念ながら、全く、違いが分からないことが証明された。今回の旅行で、ワインには、どの程度か分からないが、農薬が混入されているらしいことが確認された。その証拠は、ごく一部のブドウ畑の一画には、ネットを被せていることである。これは、自家用で、そうでないところは、鳥が食べないように薬が撒かれているに違いない。農薬を撒いていないらしい「バイオワイン」というのも、特別に販売していることも知った。

それでも、当地では、ときどき、スーパーなどで、購入して、ホテルに帰って、少量ずつ楽しんだ。あまり飲まないが、興味はもっている。ここでは、現地で得た、アルザスのワイン街道の地図などを示す。

なお、A.O.C.は、仏和辞書によれば、appellation d’origine controleeの略で、「原産地呼称統制」のことで、原産地、品種、最低アルコール含有度、最大収穫量、栽培法、剪定、醸造法、場合によっては成熟条件などの規準がうたわれており、その規準に適合したワインのみがA.O.C.ワインとなる。1935年頃に、この名称が生まれたらしい。

“AOC Alsace Grands Crus”は、47コミューンの51の産地のワインに与えられ、(アルザスの)4%のワインに与えられる。L’AOC Alsaceは、73%のワインに与えられている。AOC Cremant d’Alsaceは、スパークリングワインで、Pinot BlancPinot Gris、または、Chardonnay種から作られ アルザスワインの23%が、これに当たる。今、フランスで、最も人気のあるスパークリングワインであるとパンフレットに述べられている。

[コウノトリ(cigogne]

 アルザスのシンボルの1つとして、コウノトリがある。 次のURLに、コウノトリについての、いろいろな面白い話が見られ、アルザス地方との関係も述べられている。

http://www.geocities.jp/kunschthafe/cigogne.html

 この中に書いてあることの一部を引用すると、次のようである。

<アルザスは昔から湿地帯の多いところで、コウノトリが営巣するには好都合な地方だった。というのもコウノトリは肉食で、湿地帯には好物としている蛙、トカゲ、蛇といった両生類や爬虫類などが豊富にいたからである。これらの小動物は害虫であり、悪徳の象徴と考えられていた。たとえばストラスブールやフライブルクの大聖堂の正面門扉にはリンゴを持った悪魔の彫像があるが、その背中には蛇、トカゲ、ヒキガエルがはりついている。また、コウノトリはキリスト教の図像学では、アヴィニヨンの司教だった聖アグリコルの表象となっている。というのも伝説 によるとこの聖人は、アヴィニヨンの町が蛇に襲われたときに、コウノトリの一団の助けをかりて蛇を追い払ったと言われているからである。コウノトリの餌となるような蛇は誘惑の、ネズミは破壊者の、モグラは異教徒の象徴とされ、トカゲは蛇や竜と同一のものとして、それぞれ悪の象徴と考えられていたことから、それらを食べるコウノトリは、聖性を持った鳥であり、また正義を体現するものと考えられたのである。>

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Air Franceから得た「フランスの彩り」というパンフレットにある、アルザス地方の見どころ:オー・ケニスブール城と菓子クグロフの写真がある;必見の場所としては、黄色のマークをしたところを訪問した。

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アルザスの観光地の概略図;赤線は、今回訪問した場所。

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周囲(ホテルとアルザスの訪問した一連の町村)を含めた地図。コル・ド・ラ・シュルフト、:ホテルのあるサン・ディエ・デ・ボージュ、:訪問した所通過した所。

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アルザス地方の地図。

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アルザスの鳥瞰図;赤アンダーラインは訪問した場所。

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アルザスのワイン産地街道の地図(現地で得たパンフレット)。

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ワインの名称と生産地。

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ワインを造るブドウの種類。

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AOC Alsace Grands CrusL’AOC AlsaceAOC Cremant d’Alsaceの説明。

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購入した、安価なワイン。


●コル・ド・ラ・シュルフト(Col de la Schlucht)ロレーヌ地方-アルザス地方の境界

ドイツ名はSchluchtpassで、シュルフトパスと発音すると思うが、フランス語は、どう発音すべきか、自信はない。何故なら、綴りは、フランス語にないものであるからである。サン・ディエのホテルに泊まって、そこから、アルザスに通うなら、天気が良ければ、この地を通ると景色が良いからと、フランス-ドイツの両国籍を持つ友人から勧められたからである。ホテル、当地点、アルザスの一連の観光地の地理的関係は地図に示すとおりである。

私は、Col(峠)の意味をよく考えないで、ここから、辺りがよく見まわせると思った。サン・ディのホテルの2泊目の朝は、天気が良いので、ここを通って、アルザスに行くことにした。標高は、1139 mだが、サン・ディエの平均標高が、約340 mあるので、道の勾配が特に厳しいことはなかった。ただ、ここは、道の峠にはなっているが、周りはそれより高い山があるので、周囲の眺めがよいわけではない。どこか高いところに登ろうとしたが、用意もないし、どれくらい時間がかかるか分からないので、それは、断念して、周囲の雰囲気を味わうだけにした。ここは、スキーの拠点地のようで、リフトは、あったが、もちろん、動いていない。土産物屋は開いていて、車も時々通るが、閑散としている。それでも、ここに10時から約1時間いて、エギスアイムに向かった。この地は、ロレーヌ地方とアルザス地方の境界であるが、標識のある点は、アルザス地方であった。


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周囲(ホテルとアルザスの訪問した一連の町村)を含めた地図。:コル・ド・ラ・シュルフト、:ホテルのあるサン・ディエ・デ・ボージュ、:訪問した所通過した所。

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Col de la Schlucht(標高;1139 m)の表記;Haut-Rhinは、オー・ラン県(アルザス地方)

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峠の頂上付近の広場。

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スキー用宿泊所 兼 雑貨販売店。

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上記、登山関係、みやげ物販売店。

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止まっているリフト(スキー用)

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周辺の風景。

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そこから、車で、20分程、下って行ったところ。


コルマール(Colmar)アルザス地方

コルマールの近辺には、観光向けの似たような村が、10近くある。そのうちのいくつかは、「フランスの最も美しい村(Les plus beaux villages de France)」に入っている。フランスには、約32000の村があるそうで、そのうち157が、これに認定されている。このアルザス地方はドイツに近く、歴史的にみれば、ドイツの領土になったり、フランスの領土になったりして、直近には第2次世界大戦で、ドイツが敗北したので、フランスの領土になっている。そのため、村の読み方もフランス語とドイツ語では多少読み方の違う村もあり、文化(例えば、家、ワイン、食べ物、菓子など)は、両国の影響を受けていて、観光客もドイツ人が多く、賑わっている。但し、見た目には、自分には、フランス人なのか、ドイツ人なのかは分からない。いずれにせよ、観光客が楽しめるように、地元の人も努力していることが感じられる。

[ウンターリンデン美術館(Musee d’Unterlinden]

 1232年に建てられた旧ドミニコ修道院が改装されて、美術館になっているこの修道院が「菩提樹の下」という名前をもっていたので、この名前がついた。中世末期からルネサンスのライン地方の彫刻、絵画が集められている。中で宗教画の巨匠と言われる本名マティス・ニッタルトで仮名、マティアス・グリューネヴァルト(Mathias Grunewald作の「イーゼンハイム祭壇画(Retable Issenheim」が、大変有名である。1511年から16年に描かれた3重の観音開きの画で、かって流行病から身を守る守護の働きや、治癒の奇蹟を示すといわれていた。パリを中心とするイル・ド・フランス地方を別とすれば、当館は、フランスで、最も人気のある美術館の1つであるといわれている。

 「地球の歩き方」の記述を借りれば、この祭壇画は、<キリストの表情は苦痛のためにゆがみ、手足を硬直している。ところが祭壇画の裏側に回ると体の傷は消え、手に打たれた釘の跡から発する光が墓守たちを射ている。復活の具体的場面は聖書には記されていないから、これはあくまでも想像図だが、実に生々しくその雰囲気が伝わってくる>。

 鳴門にある大塚国際美術館の解説によれば、<これは、1512年頃に製作を依頼され、病の苦痛と死の恐怖から患者の霊魂を救い、奇跡の治癒を祈願するという切実な目的をもったもので、あらゆるヨーロッパの宗教画の中で最も苦悶に満ちた苛酷な表現も、そうした事情に由来する。高さ8 mの構造体に組み込まれた祭壇画は計10場面からなり、<<キリストの磔刑>><<聖セバスティアヌス>><<聖アントニウス>><<ピエタ>><<天使のコンサート>><<受胎告知>><<キリストの降誕>><<キリストの復活>><<聖アントニウスの聖パウロ訪問>><<聖アントニウスの誘惑>>が描かれる。中心となる<<キリストの磔刑>>は、断末魔の苦痛を如実に表した両手の痙攣、傷だらけの体から流れ落ち凝固する赤い血など、キリストの肉の苦しみと死を嫌が上にも強調して、全人類の罪を一身に背負って犠牲となるキリストの贖罪が描かれる。伝統的な磔刑の図像では描かれることのない洗礼者ヨハネが死んだキリストを指さしており、わが子の悲惨な死を目撃し失神する聖母マリアや激烈な身振りのマグダラのマリアが描かれる。宗教改革のその国で、救済と刑罰の不条理という思想に深く浸された、個性的で意志強固な近代画家グリューネヴァルトにして初めて、この世の地獄が描き出されたのである。>

それにしても、これらの大事な絵の一部に、直接、太陽光が当たっているのは、考えられない状況である。よくも、色が褪めずにいるものと不思議に思う。

別掲(資料編の「世界遺産」の項)の「死ぬまでに一度は行きたい世界の1000カ所」の1つに、このウンターリンデン美術館が挙げられているのを、旅行後に再確認して、更に驚いた。キリスト教の国民には、この「キリストの磔刑」は、最高の芸術作品の1つらしい。それなら、尚更、このような、太陽光に当たる展示などは考えられないはずなのだが。

また、更に驚いたのは、帰国して、この話をしたら、この、グリューネヴァルトの「イーゼンハイムの祭壇画」のA4版、150頁を越える詳細な図入りの高価な本(4万円)が新潮社から1993年に発売されていて、それを購入されている友達がおられたことである。

クラナハ(Lucas Cranach the elder(1472-1553))のメランコリー

クラナハは、A.デュラーの1514年の同じ題名の作品に影響を受けて、この作品を製作した。中世には、4つの基本体液humor)(血液、粘液、黄胆汁yellow bile:かんしゃくを起こす液)、黒胆汁black bile:憂鬱を起こす液))のバランスの欠如が、病気を引き起こすと考えられていた。ルネサンス期には、芸術的な気分をもつことで、そのバランスが保てると考えられた。そして、デュラーの考えを、マルチン・ルターの説教の1つに入れ替えて、病気というものは、悪魔の影響にある証拠とした。そして、飲物と食物は、この影響を和らげるのに、必要であると考えた。この時代の他の画家達よりも、クラナハは、ルターの影響を強く受けた。ザクセン選帝侯のフリードリッヒIII世は、ルターの擁護者であり、クラナハを、1504年に、お抱えの画家に雇った。この絵の意図は、研究者の間で、いろいろな議論があるが、この棒を削っている翼のある女性は、多分、メランコリーへ繋がる無為・怠惰のアル―ジョン(引喩)ではないかとみなされている。

因みに、メランコリーを辞書で引くと、古語として、「黒胆汁は、不機嫌(を表す)」と出ているから、作者は、不機嫌を表そうとしているのかもしれないが、どうして、健康に良くないと当時も考えられていて、そう信じていた作者が、わざわざ、「不機嫌」を描きたかったのか、作者の意図が、私には、分からない。しかしながら、この絵に、そんなに、深い意味や背景があるとは、よく調べてみないと分からない。そういう背景・意味や、作者も全く分からずに、多くの絵の中から、この絵の写真を撮ったのは、見たときに、この絵に何か、魅力があったのだろうと思うし、やはり、クラナッハの実力なのだろう。

 その他、多くの展示があったが、多すぎて、集中して見ることができないほどであった。

 旧市街には、面白い家が沢山あり、川に面したところは、小ヴェニスと呼ばれると案内書に書いてあるが、時間がなく行けなかった。


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美術館;「工事中(拡張)も、開館」の表記;主要な絵画10点の一部を表示している。

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有名な「キリストの磔刑」;左「聖セバスティアン」、右「聖アントニウス」、下「ピエタ」。

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左「天使のコンサート」;右「キリストの降誕」。

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左「キリストの復活」;右「受胎告知」;マリアの顔が、他の多くの絵とは大分違い面白い。

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左「聖アントニウスの聖パウロの訪問」;右「聖アントニウスの誘惑」。

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キリストの生涯を表す;題名は分からない。

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この部屋の祭壇上部の飾り。

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「キリストの磔刑」などの展示場を上からみたもの;そこでは、撮影が行われていた。

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Christian Heck著、岡谷公二訳「グリューネヴァルト---イーゼンハイムの祭壇画---」新潮社 (1993.9.20)

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クラナハの「メランコリー」。

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美術館から見た町の風景。

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観光ミニトレインや馬車もある。

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町の風景;家並みに特徴がある。

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市役所。


エギスアイム(Eguisheim)アルザス地方

フランス語では「h音」は発音しないから、「アイム」となり、ドイツ語では、エギスハイムというが、「ハイム」は、家とか郷里を意味し、日本の住宅建設業でも「ハイム」というものがあるので、日本語としても通用するだろう。2つの表記があるのは、アルザスが、歴史的には、仏・独の取りあいの場所で、独・仏のどちらの村にもなったことがあるからである。現在は、フランス領なので、フランス語流に読むのがよい。

村の全体の様子は、案内所でもらった鳥瞰図などでわかるが、村全体が観光の村となっていて、それなりに観光客も来ていて、理屈なしに楽しいところである。「フランスの最も美しい村」の1つに選ばれている。折角もらったパンフレットを十分読まずに周ったので、旧ハンセン病患者受け入れの家がどういう様子なのかなどを見損ねてしまった。

近隣の同様の町に比べて、観光面で、努力をしており、効果も上がっていると感じた。具体例をあげれば、土産屋が多く、充実していて、展示の仕方も工夫しているし、日本人観光客が多いとも思えないのに、日本語パンフレットまで用意している。このアルザスの近隣の類似の村の1つを選んで行くとすれば、ここがお奨めだろう。


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案内所でくれた日本語パンフレット。

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村の形はronde(円形)と表現されている。

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エギスハイムの観光名所一覧。

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教皇の)聖レオン9広場;Leon 9(1002-54)の教皇在位(1049-54;屋根の赤い建物は、聖レオン9世教会;高いところにコウノトリの巣のあとが2つ見える。

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歴史的建造物に認定された泉(1557)

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コロンバージュ、花、色彩が美しい;このワイン店は、ネットでは、評判が良いようだ。

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アルザスの名物料理のテーブルマット:タルト・フランベ(相当する日本語訳は無い)とシュークルート(ドイツ語ではザウアークラウト:発酵させた千切り塩漬けキャベツ)。

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ドイツ国境と近いので、ドイツ語表記の併記も多い。

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被写体は:La boutique du champignonで、キノコの専門店。

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アルザス風の美しい家並み。

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ビールのいろいろな言語の表現;「ばくしゅ」は、日本人以外の人が訳したのだろう。

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フランスの最も美しい村」のマークのある出入り口の1つ。


ケーゼルベール(Kaysersberg)アルザス地方

ドイツ語読みでは、「カイゼルスベルク」といい、「地球の歩き方」にも採用されていて、日本人には、フランス語読みより、ドイツ語読みの方が、分かりやすい。しかし、実際は、フランス領になっているから、仏和大辞典にある「ケーゼルベール」が、良いのだろう。更に、地元では、アルザス語という言葉があり、これでは「カイザーシュバリク」というそうで、領土争いになってきた場所の名前は、読みにくかったり、意味がわからなかったりする。日本では、北海道などで、経験することだが、本来の意味は分からないが、“弾圧された?原住民”の名前が多く採用されている。

この村に立ち寄るのは、予め、予定していたことではなかった。ドイツのフライブルクに行った帰りに、サン・ディ・デ・ボージュへ帰る道を走っていたら、(古城の廃墟の一部であることが後で分かった)塔が見えてきた。観光地では、高いところに上るのが好きなので、車を停めて、塔に行ってみた。街の裏手に車を停めて、塔に行ったので、閑散としていて、ここが、賑やかな街の外れにあることは、全く知らず、場所の名前さえ分からずに塔の階段を上った。誰も居ないと思ったら、日本人のご婦人が、階段の下の方で、一人で立っているのに出会って驚く。事情をお聞きしたら、娘さんと2人で来て、娘は上に昇って行っているが、自分は、疲れるので、ここで、待っているのだと言われる。より、年寄りの我々が上っているのに、ここまで来て、ここに上らない手はないでしょうと言い残して、我々は、頂上まで上ったら、娘さんがいた。我々を見て、驚かれただろう。この辺鄙な所で、しかも他に誰も居ないところで、日本人同士が出会うというのは、全く、偶然のことだろう。我々に刺激されたのか、そのうちに母親も上って来られた。どうして、此処に来られたのかを、お聞きしたら、(多分、「地球の歩き方」を見られて)面白そうなので、コルマール(バスで30-40分ぐらい)に2、3泊、宿泊しながら、バスを利用して、当地に来て、帰りのバスの便まで、時間があるので、ここまで来たと言われた。そして、この下の街に行くと、店などもあり、大変、面白いと教えて下さった。その情報が無ければ、我々は、この後、車に戻って、そのまま、帰ってしまっていただろうから、大変、有難かった。行く方向が同じなら、車に乗せてあげたかったが、夕方5時ごろで、丁度、コルマールは、逆方向で、我々も、この先、ホテルまでは、1時間以上かかるので、申し訳なく、残念ながら、それは出来なかった。

塔の上からの眺めは、大変良かった。今回、ワイン地帯を周りながら、ブドウ畑を、適度の高所から、見渡せたのは、ここが一番であった。そして、ここでも、遠方に、青色のネットの張ってあるブドウ畑の一画が見えた。天気は、はっきりしなく、その後、一時小雨も降ったが、180度以上にわたって見回すことができた。

塔の入口付近に貼ってあったフランス語の当地の歴史には、次のようなことが書いてあった。

< ホーエンシュタウフェン家のフレデリックII (1194-1250) Kaysersbergの創建者

フレデリックI世の孫 バルバロス・ハイレッディン・パシャは、神聖ローマ帝国の皇帝、ローマ帝国の王、シシリーの王、キプロスの王、エルサレムの王、シュワ―ベン地方の君主、アルザスの君主であった。Mathieu de Parisにより“stupor mundi:世界の驚くべき人”とあだ名され、彼の時代の最も教養のある皇子の1人であった。アルザスでは、彼の息子アンリZ世と王の代官のWoelflinにホーエンシュタウフェン家の支配力を強化することを命じた。こうして、Selestat, Colmar, Rosheim, Kayserbergや他の町が生まれた。ケーゼルベールでは、1227年頃、Woelflinが、城を造り、1293年には、皇帝の町になるまで重要になった。フレデリックII世は、1250年に亡くなり、彼と共に、シュベ―ベン・アルザス公国が黄金の世紀を迎えた王朝は消滅した。>

ここは、シュヴァイツァーの生まれたところでもあり、訪問したアルザスの近隣の観光村の中では、エギスハイムと並んで、一番楽しめると感じた。高所から周囲を眺望できることと、川が流れていることで、ここの方がより良いかもしれない。それでも、ここも、「フランスの美しい村」には、何故か、指定されていない。推察するに、これに指定されるメリットを住民が感じていないだけなのだろうか。

近隣のどこでも見られた、名物の菓子、クグロフにも、いろいろな種類ができることを知った。中央の穴の中に、次のようなものを、丁度アイスクリームのように、好みに応じて入れている店があった;ブルーベリー、フランボワーズ、オレンジ、ピスタチオ、チョコレート。

この町へ来る5 kmほど前に、アマーシュヴィル(Ammerschwihr)という村を通る。後で調べたら、歴史も古く、高品位のブドウを産する丘があるところとして知られている。1150 haの森と、400 haのブドウ畑があり、特別な気候(un climat exceptionnel)を有している。「特別な気候」というのは、「ブドウの栽培に特に適した」という意味であることを知る。ここには、村の外から撮った写真3枚を示す。


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アマーシュヴィルの村;教会は、聖マルタン教会(L’eglise Saint-Matin)。

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村は、ブドウ畑に囲まれて存在する。

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拡大すると右遠方にネット(青色)を張った所が見える。Am1-Am3は、旅順の逆の順序。

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古城(廃墟)の壁にあるフレデリックII1194-1250)の碑;訳は本文中。

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城の塔。

Ky3

塔からの眺め:以下Ky7まで、左方向(コルマール方向)から右方向にほぼ連続に写真を撮る;丘の中腹に、ネット(青色)を張った部分が見える。

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市街の教会のドームが見える。

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橋が見えて、立木のある部分に小川が流れている。

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一番遠方に見える方向にホテルに帰る;ボージュ山脈が遠方に見える。

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塔の上にある見張り小屋か?

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村を流れる小川(Weiss川)。

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小川が建物の下を流れる部分もある;昔、小川を利用したのであろう。

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奥に水を取り入れる(?)装置が見られる。

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聖十字架教会。

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Constantin(コンスタンティヌス)の噴水1521とある;歴代のローマ皇帝名であるが。

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噴水の違う方向からの眺め。

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聖十字架教会内。

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上記の下に見える祭壇像:Jean Bongard作(1518年)。

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街の風景;右上手が、城の廃墟。

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アルザス名物の菓子のクグロフ。

Ky19

別の店のクグロフ;5種類もある。

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街から見上げる塔。

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購入したワイン;Gewurztraminerとういのは、ブドウの種類。