●フランシュ-コンテ地方(Franche-Comte) コンテ(Compte)というのは、フランク王国時代の、伯管轄区を意味するのであろう。フランク王国とは、広辞苑の記述を借りれば、<フランク族が建てた王国で、5世紀末、クロヴィス(本稿のReimsの項参照)が、諸支族を統一、メロビング朝を興して建国され、分裂、統一を繰り返したが、751年、ピピンがカロリング朝を創始、その子カール大帝のときに最盛期を迎え、西ヨーロッパ全域に版図を拡大、教皇から西ローマ帝国の帝冠を受けた。843年に3分された。(本稿のVerdunの項のヴェルダン条約参照)> 当地方は、パリからも離れていて、日本には、あまり情報が入らない地域なので、エール・フランスの出版した「フランスの彩り」を参考に、行き場所を決めた。それとは別に、私は、特に、「塩」の生産地を訪問するのが好きなので、塩の生産に関連して、世界遺産にもなっている「アルケ・スナンとサラン・レ・バン」を訪問することを今回の旅行の第一の目的として、全体の旅行計画を立てた。
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●サラン・レ・バン(Salins-les-Bains)フランシュ・コンテ地方
アルケ・スナン王立製塩所は、当地より11 km離れているが、昔、ここから、塩水を送って精製していた。王立製塩所は1892年に世界遺産に登録されていたが、2009年に、サラン・レ・バンの大製塩所を加えて世界遺産として拡大登録された。これを調べている段階で、世界遺産の対象には公式名称があることを知った。英語とフランス語のどちらが公式なのか良く分からが、両方が多分公式なのだろう。英語:From the Great Saltworks of Salins-les-Bains to the Royal Saltworks of Arc-et-Senans, the production of open-pan salt;フランス語:De la grande saline de Salins-les-Bains a la saline royale d’Arc-et-Senans, la production du sel ignigeneである。”ignigene”は、煎熬という意味である。この邦訳は、日本ユネスコ協会連盟と世界遺産アカデミーでは違うのは、ちょっと面白い(前者:天日製塩施設、サラン-レ-バン大製塩所からアルケ-スナン王立製塩所まで。後者:サラン・レ・バン大製塩所からアルケ・スナン王立製塩所までの天日塩生産所)。そして、まだいくつか非公式の訳が紹介されている。サラン・レ・バンの大製塩所からアルケ・スナンの王立製塩所までの開放式平釜製塩などである。 (http://www.weblio.jp/content/アルケスナンの王立製塩所) 因みに、世界の塩の生産量は、塩の情報室の大分前のデータであるが、2006年で、2.54億トンで、その内訳は、それより約10年前ではあるが、天日塩36%、岩塩28%、かん水利用26%、せんごう塩10%と報告されている。費用のかかる、せんごう塩が意外に多いと思う。 製塩博物館に入って見学を始めて間もなく、係員の人が来て、今、先に説明付の団体が回っているから、フランス語説明で良ければ、それに加わってはどうかと声をかけてくれたので、フランス語では細かいことは、全く理解できないが、ことは製塩なので、言葉が分からなくても、大体のことは想像できるので、加えてもらった。そのため、個人では行けたのかどうか分からないが、地下にある実際に製塩を行っていた場所にまで案内してもらえ、良かった。アルケ・スナンでは、先進的な都市計画を見ることはできたが、製塩の様子はほとんど見ることはできなかったので、ここで見られて良かった。 水車を使って、揚水の動力として使っていたことが分かった。特に、図(Sb7’)で示すように、左右の運動を上下運動に変更する仕組みに感心した。物理のベクトルの単純な考えからすれば、左右方向のベクトルは上下方向のベクトル成分はゼロであるにもかかわらず、滑車を使わず、重力の助けもない簡単な仕組みで、上下方向のベクトル変換できることを初めて認識した(あるいは、単に忘れていた)。また、塩水の出る水道がまだ生きていて、見学者が、塩味を味見できた。ここの塩水は、大西洋の海水が1 L当たり80gなのに対して、330 gの塩を含むというから、約4倍濃いことになり、かなり塩辛かった。
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●アルケ・スナンの王立製塩所(La salin royale d’Arc-et-Senans)フランシュ・コンテ地方 当地に来るには、ブザンソンから、列車で約25分で、駅から100 mというから、車なしでも来られる世界遺産ではあるが、その割には、来訪者は少なかった。現代では、塩は貴重でも何でもなくなったので、人々の関心が少ないためだろう。 この地方は、地下に岩塩の鉱脈があり、塩用の井戸から取り出した塩水をボイラーで沸騰させて塩を精製していた。塩は、当時は大変貴重なものであった。塩を得る方法は大別して3通りあり、海水から採る方法、岩塩を掘る方法、塩水を煮詰める方法がある。ここの方法は、灌水を煮詰める方法であった。煎熬(せんごう)または、解放式平釜製塩とも言われる。 クロード・ニコラ・ルドゥー(Claude Nicolas Ledoux:1736-1806)は、1771年に、ルイ15世からロレーヌとフランシュ・コンテの製塩所の監視官に任命された。彼は、すでに徴税請負事務所の建築家であったこともあり「王室建築家」の称号を手に入れる。こうして、アルケ・スナンの建築計画がルドゥーに任せられる。1774年4月に、膨大な計画がルイ15世に提出されたが、最初の案は、評判が悪く、受け入れられなかったが、ルイ15世の崩御(1774年5月10日)の直前の4月27日に認可された。なお、ルドゥーは、パリのエトワール広場の凱旋門を囲む建物や、モンソー公園などに残る円筒形の建物「ラ・ロトンド」でも知られる18世紀後半の建築家である。 場所は旧アルク村と旧スナン村の間が選ばれた(現在は合併して、アルケ・スナンになっている)。当地が選ばれたのは、塩水が得られる以外に平らな広い土地があり、多量の需要の見込まれるスイスが近いこと、ドール運河で、地中海と結ばれ、ライン川で、北海にも運べ、薪に使う広大な森が近くにあったからなどである。1775年4月に、礎石が置かれ、1779年まで続いた。工場の試運転は1778年秋から始まった。サラン・レ・バンの井戸から、「小さな水(petites eaux)」と呼ばれた薄い塩水を21 kmにわたってもみの木の導管が地下に造られた。高低差は143 mあり、材料のもみは中心部が柔らかいことが、選ばれた理由の1つであった。管の接続は、鉛筆状にとがらせてはめ込み鉄の輪がつけられていた。想像するに、ワイン用の樽作りの技術が応用できたのであろう。しかし、距離も長いので、割れ目が存在し、毎日135 000 L、サラン・レ・バンから送られるうち、およそ30%は漏れてしまったそうである。1788年からは、暗渠は木製から鋳鉄製に代えられた。建設当時は塩水を蒸発させて塩を集めるための通風のよい鹹水製造所(全長496 m、高さ7 mで、5mの高さに中空のパイプがあり、流れてきた塩水が流れ込むようになっていた)は、1920年に壊された。塩水は軽く傾斜を付けた溝付の厚板を流れて集められるようになっていた。そして、鹹水は、深さ5 m、容積20万Lの水槽に集められた。原料供給元の井戸水には不純物が多かったこともあり、1895年に閉鎖された。元々は、直径370 mの円形状に建物を配置する予定であったが、資金難から、半円形状になってしまった。ルドゥーは、フランス革命期には投獄され、革命期以後は、不遇をかこっていた。ルドゥーの構想は、製塩所を中心に労働者の住宅・病院・教会・レクレーション設備などを配置する小さな工業都市の建設を目指すものであった。 1918年には落雷が原因で、所長邸宅と礼拝堂が火事にあった。1926年4月29日には建物の一部がダイナマイトで爆破され、周辺の木も伐採された。1927年には県が買い取り1930年から修復が行われた。1982年にはユネスコ世界遺産に登録された。 今回の旅行は、製塩所を見るのが好きなこともあって、当地を訪問することを第一目的に旅程を立てた。意外だったのは、塩を生産していた所とは、全く思えないたたずまいになっているところであった。いろいろな庭園が建物群の後ろに配置されてあり、何か、モデル住宅街展示風の公園のようであった。 もらったパンフレットに、ここで宿泊できると書いてある。1部屋82 Euroとある;2人が泊まれるのかはっきりしないが、フランスの習慣では2人分の価格であろう。もし、1人分でも、世界遺産の中で、泊まることを考えれば、大変、安価である。このことを予め、知っていれば、ここに泊まったのにと残念に思う。
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●ブザンソン(Besancon)フランシュ-コント地方
ブザンソンは、フランシュ・コント地方の「州都」で、観光の名所も数多くあるが、この地に行くのが、丁度、移動日であったのと、大きな町なので、町中に入っても、自分のいる位置さえよく分からず、道に迷ったりして、結局、城砦(シタデル)しか見ることができなかった。それも、上まで車で行けるのを知らず歩いて登ったので、時間を余計使ってしまった。 シタデルに上る途中、Ousmane Sowの展覧会のポスターがあった。ここに行ったのは9月12日で、展覧会は開催中だったが、時間もないので、写真に収めて、帰国してから調べた。1935年にセネガルで生まれて、フランスに来て、人体サイズの彫刻をつくるようになった。2008年には、オランダからClaus皇子賞を受賞している。当地Besancon生まれのVictor Hugoを表した彫像作品をここでは示す。 シタデルを上っていくと、ヴォ―バン(Vaubin:1633-1707)の像がある。ルイ14世の下で、築城などで、働いていた影の存在のためか高校の世界史の参考書には出ていないが、ルイ14世(1638-1715)の植民地拡大は、ヴォーバンに負う所が多い。ヴォーバンの主要景観網(Le Reseau des sites majeurs de Vaubin)を、ブザンソンが先頭にたってヴォ―バン没後300年を記念して、世界遺産登録の申請を計画し、2007に申請し、2008年に正式に認可登録された。申請は、14の城に対して行ったが、ニエーヴル県のバゾッシュ(Bazoches)とベル・イル島(Belle-Ille-en-Mer)のル・パレ(Le Palais)のシタデルを除く12件が、ユネスコの世界遺産に登録された。その地名と場所を示すが、フランス全土にわたることが分かり、それほどヴォ―バンは有能であった。 銅像の横の看板には、つぎのようなことが記されている。 <2007年3月30日 Sebastien LE PRESTRE Marechal(大元帥) DE VAUBANの生没300年を記念して、この像の開幕式が、ブザンソン市長で、「ヴォーバンの主要景観網」の座長であるJean-Louis Fousseretによって行われた。彫刻家Pierre DUVの作品は、世界遺産基金の協力とブザンソン市の援助を得て、「古くからあるブザンソン」の再生委員会(LA RENAISSANCE DU VIEUX BESANSON)により始められた寄付金の結果実現された。この作品は、偉大な軍事技術者の作品群の1つのこのシタデルへ訪問される方を、当然のことながら、お迎えいたします。> 今回の旅行で、前日、すでにアルザス地方のヴォーバンの造ったヌフ・ブリザッシュ(Neuf-Brisach)の城を見ているが、立地条件も、形も全く違うことは興味深い。その地に合わせて臨機応変に設計できたのであろう。そしてまた、ドイツの今回訪問したフライブルグの郊外都市には、彼の名前から取った「Vauban」という新興都市がある。 シタデルからは、眼前に、19世紀に作らせたからくり天文時計などで有名なサン・ジャン大聖堂(聖ヨハネ大聖堂)、ドゥー川、それを跨ぐ鉄道線路などが見られた。ドゥー川の上流には、この2日後に見る、ドゥー川の滝などがある。ドゥ―川は、430 km流れてソーヌ川に入る。ブザンソンでは、逆方向に迂回するのが、面白いと前から思っていた。 時間の関係で、シタデル以外の場所に行けなかったのは、大変残念であった。
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●ジュ―城(Chateau de Joux)フランシュ-コンテ地方
ドゥーの滝を見て、ホテルへの帰り道に近いので、ここに立ち寄った。到着予定時刻は5時頃なので、多分、城内の見学は無理と思ったが、城の外観と周りの景色だけ見られれば良いという積りで行った。着いたのは5時半近かったが、城門は開いていて、城内の入場券販売を兼ねた土産物店はまだ開いていたが、最後の見学ツアーは終わったから、また明日出直して来いと言われた。同様の、入場希望者が、複数、来ていたが、皆、入口で説得されていた。我々は、予定していたことなので、すぐ、外に出て、周りの景色などを楽しんだ。後で、パンフレットを見て、9月は、4時が最後の見学可能な時間であることを知った。標高を調べたが、はっきりした数字は見つからなかった。近くのPonterlierは、837 mと書いてあるので、それより高いことは確かで、1000 m弱ぐらいであろうか。 仏和の電子辞書にも、この城のことが出ている。この辞書にでているくらいなので、かなり有名なのだろう。<(fort de)ジュー砦:ブザンソン南東方、スイス国境近くにある10世紀の城塞. 17世紀末以降、牢獄として使用された。> 現在は、武器博物館としても使用されている。数名の日本人の方の旅行記をネットで拝見したら、いろいろ面白いことが分かった。例えば、ここに、自動車道があるのを知らないで、下から歩いて上って来た人の話が出ているが、歩いてくると相当大変らしいが、景色も良いらしい。また、「ベル・バラ」で有名な、ミラボー伯爵(Comte de Mirabeau)が、放蕩のため、父親の怒りをかって、ここに収監されていたとのことである。悲惨なのは、ハイチ独立の父、トゥーサン・ルヴェルチュール(Toussaint Louverture: 西アフリカのベナンの奴隷であったので、生年は不詳)である。革命を抑えようとしたナポレオンは、義弟を1802年にハイチに送り、彼を捕え、戦艦で、フランスに送り、8月25日に、このジュ―城の監獄に送りこみ、翌年1803年4月7日に肺炎で亡くなった。冬は、極寒の地だから、肺炎になるのも当然であろう。また、築城で有名な、ヴォ―バンが、手を加えている。 ミラボーについては、上記の辞書で、有名な父親と共に、次のような記載がある。 <Victor Riqueti Mirabeau, marquis de Mirabeau: (1715-89)経済学者、ケネーの重農主義学説の解説と普及に努めた。Honore Gabriel Riqueti Mirabeau, comte de Mirabeau: (1749-91): Victorの子、革命家、政治家、雄弁により知られ、自由主義的貴族として第3身分から三部会に選出される。> 同様に、トゥサン・ルヴェルテユール(片仮名表記は、出典により多少違う)については、 <Toussaint Louverture(1743-1803):ハイチの政治家、独立運動指導者、ハイチの独立を宣言して大統領に就任(1800).のち、これに反対するナポレオン軍に敗れ獄死。> 城内には入れなかったが、結局、当地には、1時間弱いて、それなりに、楽しむことができた。
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