●ブルゴーニュ地方(Bourgogne)[英語では、Burgundy] フランス東部の地域圏で、州都はディジョン、人口は、約164万人(2012)で、フランスで6番目に大きい地方である。この地方は4つの県(Departement)からなっていて、面積は、31 582 km2(比較:東京都2187 km2)で、中国地方と同程度である。ブルゴーニュワインの産地として有名である。今回、県庁所在地のうち、マコン以外は、訪問した。
[川] 丘陵の多い地域で、当然、川があり、大きな川として、ヨンヌ川とソーヌ川がある。ヨンヌ川は、北流して、セーヌ川に注ぎ、大西洋にでる。ソーヌ川は、南流してローヌ川に注ぎ、地中海につながる。1832年に完成したブルゴーニュ運河によってヨンヌ川とソーヌ川が結ばれ、大西洋と地中海が結ばれた。ロワール川は、西側を、主として、サントル地方との境界を北に流れる。 ◆ヨンヌ川は、ニエーヴル県のシャトーシノンの近くのモルバンの丘に源を発し、約293 kmで セーヌ・エ・マルヌ県のモントロー・フォール・ヨンヌ(Montereau-Fault-Yonne)でセーヌ川に合流する。訪問したところでは、AuxerreやSensがある。 ◆ソーヌ川は、ヴォ―ジュ県ヴィオメニル(Viomenil)に源を発し、約480 kmで、リヨン(Lyon)でローヌ川に合流する。流域で、今回訪問したところはない。 ◆ロワール川は、アルデーシュ県ゲルビエ・ド・ジョンク(Gerbier-de-Jonc)山に源を発し、約1012 kmで、大西洋に注ぐ。訪問したところでは、Neversがある。 [ワイン] この地方は、ボルドーと並んでワインの銘醸地である。ボルドーと比べ、小規模な個人経営の農園が多いことが特徴である。コート-ドール県を中心に生産されるワインは、主に、赤はピノ・ノワール種、白はシャルドネ種から造られる。その他に、ガメイ、アリゴテ、ピノ・プランなども使用される。appellation(アペラション:呼称)など、今は、ネットでいくらでも情報を得ることができる。例えば: http://www.bourgogne-wines.jp/appellation/beaune,884,5021.html?&args=Y29tcF9pZD04MzcmYWN0aW9uPXZpZXdGaWNoZSZpZD02NDcmfA%3D%3D [ブルゴーニュ公] 11世紀にフランス王家から分かれて、ブルゴーニュはカペー家のブルゴーニュ公の公領となる。織物、ワインの生産などで栄え、クリュニュー派修道院、その後シトー派修道院がこの地方に本拠をおくことになる。14世紀にはカペー家からヴァロア家に移り、公国は最盛期を迎えた。( )内は、在位期間。 ・フィリップ豪胆公 (Philippe le Hardi(1364-1404)):フランドルのマルグリットとの婚礼により、フランドル出身の画家や建築家も、この地方で活躍することになった。 ・ジャン無畏公(Jean sans Peur(1404-1419)):当時フランスは、幼いシャルル6世のためにフィリップ豪胆王のブルゴーニュ派と、南フランスの貴族が中心のアルマニャック派が対立していた。 ・フィリップ善良公(Philippe le Bon(1419-1467)): イギリスと手を組み、パリを占領、ジャンヌ・ダルクも彼の手に落ちた。この頃、公国はオランダ、ベルギーも傘下にし、ヨーロッパ最大の勢力となった。 ・シャルル無謀公(Charles le Temeraire(1467-1477):無謀な戦争をしかけ、公国を滅亡に導いた。 [旅行の概要] エールフランスからもらったパンフレットに、ブルゴーニュ地方の必見の観光スポットが、10ケ所、書かれているが、この10ケ所は、駆け足ながら、一応周った。ブルゴーニュ地方は、地域圏(Region)としては、今回旅行した中で、最も広く、また訪問した箇所も多い。東側のフランシュ・コンテ地方のジュラ県のB&Bと、ブルゴーニュ地方の西にあるニエーヴル県のホテルを基点として、各論で述べる場所を訪問した。
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●オータン(Autun)ブルゴーニュ地方 紀元前15年頃、アゥグスツス(B.C30-A.D.14)によって築かれた都市で、ローマの妹、そしてライバル」ともいわれた。したがって、ローマ遺跡も多いし、また、ロマネスクの彫刻も多い。 [サンラザール大聖堂(Cathedrale St-Lazare)] 1120-46年にかけて建造されたロマネスク様式の教会である。最大の見どころは、正面の壁にあるタンパンに彫られたジスレベルトゥス(GislebertusまたはGislebert)作の「最後の審判」である。中央に卵型をした光背に囲まれたキリストが出現している。作者の名前はキリストの足元に見える(GISLEBERTVS hoc FECIT:「・・・これをつくる」と読める。Vは、現在のU)。12世紀のものにしては、作者名がはっきりしている。向かって右側に地獄がある。その足元で横に広がる?(まぐさ)には、石棺から立ち上がる死者たちの群れがある。向かって右側には、天秤があり(棒の一部が欠け落ちている)、死者の魂を天使と悪魔が奪いあう。天国の方に傾けば、その魂は救われる。(天秤は、ここでも天使側に傾いていて、ボーヌの項で述べたような、悪魔側に傾いた天秤は珍しい。)その右には、巨大な悪魔が小さな魂を地獄に投げ込もうとしている。キリストの左側上には、聖母マリアが人類を代表してキリストに慈悲を乞うている。彼女の下では、陪審員として審判をしている。使徒の左端には、天国の鍵を託された聖ペテロが、1人の魂を天国に導いている。 教会の中にも、切り取られた多くの彫刻が展示されている。題名をいくつか紹介すれば、「カインに尋ねる神」、「ユダの絞首刑」、「東方三博士の来訪」、「エジプト逃避」などである。カインは、アダムとイヴの長男で、次男のアベルを殺している。代表的なものは、ポスターの図にまとめられている(図)。その右下のものは、「東方三博士の来訪」の横面にあり、マリアの処女懐胎のためヨゼフは、正面を追われている工夫をしているところが面白い。新・旧約聖書に通じていれば、興味深いものばかりである。グロテスクで素朴なロマネスク彫刻の神髄を味わえる。 その1つに、Issacの犠牲があった。この話は、Metzのステンドグラスの説明と同じであるが、彫像は、今まで見た、ニースのシャガール美術館、フィレンツェの彫刻などとも、大分違った構図になっている。 <アブラハムは、火あぶりの生贄にするための薪を取り、それを彼の息子イサアクの上に置いた。アブラハムがその地に着く前に、神が彼にそうするように命じていた。アブラハムが祭壇を作り、その上に薪を置いた。それから、彼は、息子を殺害するために、手を伸ばしてナイフを取った。しかし、主のお使いが、「アブラハムよ、体に触るな」と空から叫んだ。「彼に何もするな。汝が神を畏れていることが分かった。汝の息子、唯一の息子を神から庇うことをしなかった。」アブラハムが見上げると、藪の中に、角を捕えられた羊を見た。彼は、近寄ってその羊を捕え、それを、息子の代わりに火あぶりの生贄とした。(創世記 22. 6-13)> [ロラン美術館(Musee Rolin)] ボーヌの項で述べたブルゴーニュ公国の宰相ニコラ・ロランの館跡にある。大聖堂の北側のファサードを飾っていた魅力的な彫刻「イヴの誘惑(Tentation d’Eve)」が、この美術館に展示されている。「最後の審判」と同様、ジスレベルトゥスの製作とされる。どの案内書にも出ているこの浮彫は、図のような状態で飾ってあり、あまり見学者も来ず、ゆっくり見ることができる。もとは、サン・ラザール大聖堂北扉口にあり、アダムは行方知れずだが、記録では、エヴァと顔を寄せ合ってあった。エヴァの後ろで禁断のリンゴを掴んでいる鋭い爪は悪魔の手を示している。 この美術館には、近くのル・クルゾー(Le Creusot)出身の画家レイモンド・ロシェット(Raymond Rochette:1906-1993)の絵の展示もある。労働者を描いた個性的なグワシュ(gouache)絵が多い。グアッシュ(ガッシュ)とは、<不透明水彩絵の具の1つで、アラビアゴムなどを練り合わせ剤とし、つやのない、しっとりとした色調の絵になる>と辞書にでている。 町を歩いていたら、図(Au15)のような日本語の表示がある門があった。何をするところか分からなかったので、帰国後、調べたら下記のような情報が得られた。 <CITU(ユルスリーヌ国際文化センター)は、
フランス国ブルゴーニュ州オータン市内に文化・芸術の交流、特にフレスコ壁画芸術促進を目的として
西暦2000年2月、創設されました。 CITUは、日本・フランスをはじめ、さまざまな国の会員を募り、 次のような活動を展開していきます。 15000人も収容できるローマ劇場跡もある。今は、一部はフットボール場に使われている。 町の北西を流れるアル―川の向こう側にあるヤヌス神殿は、場所がなかなか分からなく、車で行ったが、何度か行き方を聞いて、ようやく、たどり着けた。近くで見ると大きいのに驚いた。修理中で、石が落ちるから、近寄るなと書いてあった。川の反対側から、オータンの大聖堂を見ることもできた。 オータンは、想像していたより見るところが多くて、4時間半、休まず、見学して回った。
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●オーセール(Auxerre)ブルゴーニュ地方
南から北に向かって流れるヨンヌ川の河畔に開けた中世の都市で、起伏に富んだこの地は、かってはブドウ畑が広がり、ヨンヌ川を利用してワインを出荷する河港として栄えていた。しかし、19世紀末に害虫による災害に襲われ壊滅し、その土地に建物が立ち並んだ。害虫により、ブドウが、やられ、街が滅びるということが、実際にあったことを知った。それだけ、ブドウ、ワインが、この地方では重要だったことが分かる。今は、農薬の散布のおかげで、そういうことは無くなったが、人間の体が、知らずに被害を受けているのだろう。 数年前に、フランスのドキュメンタリー映画「未来の食卓」“Nos enfants nous accuseront.”という映画を、友人に勧められて見たことを思い出した。日本語訳は、興行上の理由によってか、希望に満ちたポジティブな印象を与えるが、フランス語の題名内容とは、逆である。原題名は、「我々の子供たちは、我々を訴えるだろう」ということで、農薬漬けになっている食物が、後世に与える重大な影響を与えることに心配して、有機農法などを取り入れようとする南フランスの小さな村の試みの実情を報告したものである。その点を重視して「未来の食卓」という訳にしたのだろう。ガン死亡率の高いのは、1位アメリカ、2位日本、3位フランスだそうである。(日本が高いのは、平均寿命が長いから、そのことにより、ガンの発症率が高まっているので、その点は考慮すべきと思うが。) そのうち、70%の死因は、様々な環境によるものだそうで、40%は食物によるものだそうである。その映画では、散布者が、もくもくとあがる薬の霧の中を、防毒マスク、防護服を付け、ロボットのような恰好で散布する様子が映し出されていた。生産者は、それを食する人のことを第一には考えないのは、当然であろう。他の項で指摘したが、生産者は、自家用ワイン栽培には、薬は撒かず、ネットを張って鳥からブドウを防御しているらしい。日本はTPPにより、安い農作物が輸入されるようになれば、食の安全面でも、「我々が、TPP農作物を訴える」ようになるかも知れない。我が家では、大分以前から、生協に加入して、野菜などは、そこから購入するなど気をつけている。 [サン・テティエンヌ大聖堂] ヨンヌ川の左岸の高台に見える。フランボワヤン様式の華麗なファサードを持つ。ステンドグラスのバラ窓は直径7 mもある。11世紀にロマネスク様式で作られたクリプト(地下礼拝堂)には、キリストと天使が描かれたフレスコ画がある。 [サン・ジェルマン修道院] 町の北側にあるベネディクト派の13-15世紀の教会である。クリプトは必見に値すると案内書に書いてある。9世紀に造られたノルマン人を欺くための穴や墓蹟、古代イオニア様式を真似て造った柱頭などが残されているそうだが、暗いところで、どれがどれだか、下調べもしなかった素人には、後で写真を見ても分からない。特に、フランスにおける最古のキリスト教フレスコ画として見逃せないのは、「サン・テティエンヌの殉教」を描いた858年のフレスコ画だそうだが、残念ながら見逃してしまった。他に誰も観覧者がいないので、人だかりしているという重要かどうかの1つの判断材料もなかった。
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●ボーヌ(Beaune)ブルゴーニュ地方
ボーヌは、ブルゴーニュ地方の、コート・ドール(Cote d’Or:黄金の丘)と呼ばれる延々と続くブドウ畑の丘陵地帯にあり、ディジョンの南西、約40 kmに位置し、人口は、約23 000人(2009年)である。 [施療院] 1430年5月23日にフィリップ善良公(Philippe le Bon)が統治するブルゴーニュ公国は、フランス国王(Charle VII)に敵対し、イギリスと結託し、聖女ジャンヌ・ダルク(国王戴冠の最大の功労者)を英国側に引き渡した。この時、公国の宰相としてことに当たったニコラ・ロラン(Nicolas Rolin: 1376-1462)が、その13年後に施療院(Hotel-Dieu:神の宿)を創設することになる。聖女を捕えイギリスに売り渡したことを、国王側の立場から悪と仮定すれば、その悪をなした張本人ロランが、類まれな善行をなすことになるので、話は、複雑である。しかしながら、歴史は常に勝者側に立って作られるものだから、ニコラ・ロランが悪人で、ジャンヌ・ダルクが善人であるというのは、絶対的な評価ではないであろう。勝者側は、後世、善人とみなされるからである。 「芸術新潮」(2002年8月号)が引用している田辺保著「ボーヌで死ぬこと」では、次のように述べられているそうである。施療院を説明するのに、恰好の著述なので、引用させていただく。 <城壁に囲まれた旧市街のなか、市場が立つ広場の脇に施療院の入口がある。黒っぽい屋根とそっけない石壁に覆われた地味さ加減が、建物に入って中庭に出たところで一変する。色鮮やかな綴織の如き幾何学模様―ブルゴーニュで流行した色瓦の屋根のなかでも秀麗無比なるこの屋根を見るために年間40〜50万人がボーヌの施療院を訪れる。 フランス語で、Hotel-Dieu(神の館)と呼ばれる施療院は、12世紀以降に都市の発達とともに生まれた慈善施設である。もともとは修道院に付随し、「キリストの貧者」と呼ばれた病める者や貧しき者の救済を目的とした。俗人の設立になる施療院でも、礼拝堂や墓地を備え、尼僧たちが看護にあたった。 辣腕政治家で大地主だったロランが施療院建立を発願するのは、60歳を越えてからのことである。自らの来し方、行く末に思いをはせ、功徳を積もうと考えたのだろうが、<愛徳の持主>であった妻の影響も大きかったらしい。 1441年に教皇から施療院設立の許しを得たうえで、1443年に「施療院設立の憲章」を市民の前で発表して工事に入り、8年後に完成。落成式は、宰相の息子でオータンの司教たるジャン・ロランがつかさどった。ちなみにオータンはニコラ・ロランの故郷であり、かの地の大聖堂を飾っていた彫刻群を収める美術館は、ロランの名を冠したものだ。 中庭を抜けて「貧しき者の広間」へ進む。幅14 m、奥行50 mの大広間、その左右の壁際に、28床の天蓋付きベッドが並ぶ。連綿とつらなるカーテンと毛布の赤が艶やかだ。もとはテーブルが広間の中央に置かれ、食事がとれるようになっていたという。蒲鉾形の天井には、着色された梁が雲梯みたいに何本も渡されている。両端をよく見ると、怪物の口から吐き出された格好になっていて、さらに怪物と獣の頭がペアになって突き出ている。これは、実在した市民の顔と、その人の欠点を動物に見立てたものだとか。(中略) 病院のルーツというべき中世の施療院は、しかし病院そのものではない。<病気の完全な治療をめざす施設ではなく、むしろ、病いの苦痛をいくらかでも軽減したり、精神的に慰めをもたらそうとするための場所>、いわば<ホスピス>であったのだ。>(引用終わり) 中央奥のステンドガラスの最下段の左右の両側の人物が、それぞれ、ニコラ・ロラン夫妻である。 そして、この施療院では、外科の手術も行われていたらしく、その道具も陳列されている。また、薬品棚に多くの薬品(単純な、無機化合物が多いが)も陳列されている。これらは、500年以上前のものであるから、西洋の科学・技術は、これほど進んでいたのかと驚く。また、ここへの入院の条件は、貧者であることがただ1つだけだったそうである。そして、費用は、王侯貴族から寄進されたブドウ園から寄進されるワインによってまかなわれた。 この施療院は、1971年に病院としての機能を新たな建物に移したが、その後も「聖ユグノー」という個室だけは1983年まで患者用に使われた。540年間にわたって使われたことになる。 [最後の審判] ロヒール・ファン・デル・ウエイデン(Rogier van der Weyden: 1399/1400-1464)の描いた最後の審判の衝立式の祭壇画(Polyptique du Jugement Dernier: 油絵:板 220 cm × 549 cm)は、現在は、施療院内の展示室に移されているが、もとは、「貧しき者の広場」に接する礼拝堂に安置されていた。施療院所有のフランドル絵画の傑作で、画面の前に吊られた移動式拡大レンズは1980年ごろ、ボーヌの時計職人が製作したもので、係員がボタン操作で動かしてくれる。当時は、オランダは、ブルゴーニュ公国が支配していたので、この地方の画家の画が、多くブルゴーニュにある。 当時、この祭壇画は普段は閉じられていて、日曜と祝日、そして、臨終を迎える患者が出た時のみ、開かれた。臨終の患者は、これを見て、自分は天国に行けるのか地獄に行くのか自分の過去を思い起こして眺めたのだろう。大天使ミカエルが、人々の魂を天秤にかけて、善悪を裁定するのは「最後の審判」の定番だそうであるが、この絵のように、地獄の皿の方が重いのは珍しいそうである。見て分かるとおり、左側が天国、右側が地獄への道である。 [ワイン博物館] ワイン博物館は、15-16世紀に建造されたブルゴーニュ公の城跡にある。入ってすぐの所には、周りの雰囲気には合わない色調で、英語で“Do you spit or swallow ?”と意味深な言葉が、わざわざ英語で書いてある。1階は、ブドウとワイン造りに関する歴史が分かるように展示されている。2階には、古いワイン差しや、ボトルのコレクション、樽詰め用の器具などが陳列してある。 ワインの造り方を説明した日本語のA4版のファイルがあったので、写真に撮る。その説明は以下のとおりである。誰が訳したか知らないが、多少、日本語としておかしいところもある。こういうものが用意されているということは、日本人の観光客もかなり来るのだろう。 ■ワインの醸造過程(日本語の説明資料) ワインの生成 ワインの醸造過程に入るブドウの実は、白ブドウ、白色果汁の黒ブドウ、そして赤色果汁の黒ブドウの3タイプあります。従って、黒ブドウから白ワインが取れますが、果汁が白いうちに、果汁と色素を有する皮を混ぜない場合に限られます。これは、シャンパーニュ地方の4分の3のブドウ畑で適用される方法で、例えば、黒ブドウの一種であるピノ・ノワール種をもとに、白ワインが生成されています。 赤ワインの醸造 収穫を終えたブドウの実は、数ヶ月から、2年の年月を要する一連の醸造過程を経ることになります。 ― egrappageまたはeraflage(除梗破砕)と呼ばれる作業は、しばしば負の要因となりうる収斂性のタンニンを含む果梗を取り除くためにブドウを房から切り離すことです。 ― 得られたブドウ搾汁のcuvaison(発酵)、或いはmaceration(浸漬)は、テーブル用ワインには、4、5日間、グラン・クリュのワインには3週間要します。この過程の間に、かくはん棒または足、或いは果帽破砕機で、搾汁の中に果帽を押し込みます(顆粒を押しつぶす裸のブドウ栽培者の写真を参照下さい)。 この段階に達したところで、以下の多々の作業の介入が可能になります。 ― levurage(酵母補強)により、酵母を加え、発酵を刺激し、促します。 ― sucrage (硫黄添加)、或いはchaptalisation(糖分添加)と呼ばれる作業は、糖分を加えて、アルコール濃度を上げる役割を果たします。但し、糖分添加は、厳格な規則によって制限されています。 ― sulfitage(亜硫酸添加)を行うことで、有害な酵素を無害化し、酸化を防止すると同時に、無水亜硫酸添加による発酵を抑えます。 ― mutage(発酵停止)は、自然でなめらかなワインを育てるために、生或いは精留済みのアルコールを添加する作業です。 ― fermentation alcoolique(アルコール発酵)は、搾汁の発酵後、数日間にわたり行われます。一定の温度のもとで、糖分はアルコール及び二酸化炭素に変わります。生まれたてのワインは、不安定で、すぐに酸化してしまいます。安定し、長持ちするワインを得るためには、その他の一連の作業が必要になります。 ― 醸造桶或いは、大樽でのfermetation malo-lactique(マロラクティック発酵)は、特に赤ワインには利用されますが、これにより、ワインに自然保存料が備わります。(実際に果実のL-リンゴ酸はL-乳酸に代謝されます)。この第二次発酵過程は、実際に行うことはなかなか困難ですが、ワインの酸味を抑えることで、しなやかさを与え、早飲み用ワインを育てます。 ― 木製の桶、或いはステンレス・スチール発酵槽内でのelevage du vin(ワインの熟成)は、瓶詰目前に行われる比較的長期間にわたる作業で、ワインにとっては休憩の時間でもあります。この時期に、清澄剤の添加(例えば卵白の添加)、澱抜き、濾過、安定化が行われ、ワインを澄ませると共に、酒石やその他の沈殿物を取り除きます。 ― mise en bouteille(瓶詰め)は、早飲み用ワインに関しては、すぐに開始されます。一方、長期長期熟成型のワインは、完全に熟成するまで、醸造桶で保存され、その後、大小の樽の中で寝かされます。この時点でouillage(充填)が必要になります。すなわち、ワインを常に足していくことで、蒸発により失われた水分を補います。これにより、空気との接触で、ワインの上層部分にワインの味覚を損なわせるバクテリアが繁殖するのを防ぎます。 館内の片隅では、樽の造り方の映像を上映していた。今でも、熟練工が手作りで作っているようである。顆粒は、足で踏みつぶす(foulage)という話は聞いたことがあるが、実際に素裸になって作業を行っている写真は初めて見た。これは1950年のM. Hudrot(ユドロ)(コート・ド・ニュイやコート・ドール)の発酵室の写真だが、今でも、一部の高級赤ワインでは、このようにしているようだ。 [コロンビエ・ホテル(Maison du Colombier)] 1572年に建てられたホテルで、地図で示すようにワイン博物館や、施療院から、すぐ近くにあるので、前を通った。1階はBarとなっているようである。
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●ベルゼ・ラ・ヴィル(Berze-la-Ville)ブルゴーニュ地方
[モワンヌ礼拝堂(Chapelle des Moines)] クルュニーの南約10 kmにある。入口は、目立たなく、登り坂を、行き過ぎてしまい、また来た路を下がって行った。人もいないので聞くこともできない。ようやく小さな入口を見つけたが、午後2時までは、開かないので、入って左側のパネル展示をしている照明をしている洞窟のような部屋に入って展示を一通り見る。 11世紀以来、クルュニーの修道院長は、ここの主であり、修道院長の聖ユーグ(Hugues:1049-1109)は、ここをお気に入りのリゾートとした。 礼拝堂に入ると、正面の半円のドームの凹んだ天井に相当するところから半円アーチの窓の上まで、卵型の枠組みの中に栄光のキリストがいる。窓からの光のせいもあって、<ブルゴーニュ随一といわれる色鮮やかなビザンチン風の壁画が残っている(地球の歩き方)>という説明とは程遠く、期待を裏切られる。それで、ここでは、ネットで見られる画を、載せて比較する。 https://www.google.co.jp/search?q=berze-la-Ville&client=firefox-a&hs=8xY&rls=org.mozilla :official&hl=ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=aUHNUoq4LoqQlQXH4YCYBQ&ved=0CD4QsAQ&biw=1876&bih=889 右手は、祝福を、左手は鍵をもったクルュニーの守護神聖パウロに巻物を与えている。キリストの左右には、使徒と聖人が描かれている。右に6人の使徒と2人の殉教者(聖ロレンティウスと聖ヴァンサン)がいる。窓の上の半円アーチの柱間の上部にも6人の聖女が描かれている。その中には、クルュニー修道会が崇めたリヨンの聖女コンソルがいる。最下段には9人の聖人が描かれている。これらは、以前に行った(2011)ラヴェンナのサン・ヴィターレ教会の影響が見られるという。より詳細は、饗庭孝男の書いた「ベルゼ・ラ・ヴィル礼拝堂」(下記のURL)で見られる。 http://www.tokibo.co.jp/vitalite/pdf/no06/v06p10hope.pdf
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●シャトーヌフ(Chateauneuf)ブルゴーニュ地方 シャトーヌフという名前は、新しい城という意味なので、フランスに約6ヶ所、シャトーヌフの後に、何か固有の名前を付けた地名も含めれば約30ヶ所ある。それで、ここは、正式には、シャトーヌフ・アン・オソワ(Chateauneuf-en-Auxois)という。ディジョンとオータンの間を流れるブルゴーニュ運河を見張る高台にそびえる12世紀の要塞跡を有するこの地は、コート・ドール県に属し、「フランスの最も美しい村」に登録されている。 肝心の城は修理中で入れなかった。修理費が、630 000 Euro T.T.C.(税込)=8800万円(1Euro=140円とした)と書いてある。どの程度の修理か分からないが、想像していた額よりは安い。フランスは古い文化遺産が多いので、あちこちで、教会、城、博物館で、修理をしている。一体どれくらいの費用がかかるのか、見当がつかなかったが、今回、その額と、どこから援助を得るのかの一例を知ることができた。この場合、ブルゴーニュの地方評議会(Conseil)、要するに税収から50%出ているようである。 他の場所で見たひまわりはほとんど枯れていたが、ここでは、家々の庭では、まだ咲いていた。村全体は大変静かで、観光客も地元の人の姿もほとんど見えないのだが、あちこちに花はあった。 城の横のみやげ物屋が、観光客もほとんどいないのに、Ouvert(オープン)と書いてあるので、少しはお金を落とさねば申し訳ないと思い入ったら、老婆が、座っていたので、なお気の毒で、入って良かったと思った。ただ、何を購入したかは忘れたが、わずかな額だったであろう。 そして、この町でも、2回の大戦の戦死者名を記したモニュメントがあった。第二次大戦は、すぐ停戦状態(敗戦だが、連合軍の援助で最後は戦わず勝利した)にしたので、第一次大戦より、大抵の村では、戦死者は少ないが、ここでは、7名ずつで同じであった。
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