●ル・クルーゾ(Le Creusot)ブルゴーニュ地方
この町の名前には、La Chariteと同様、定冠詞が付いている。その理由はまだ知らない。この地を訪問は、予め計画に入っていたわけではない。オータン(Autun)を訪問して、少し、時間が余りそうなので、近隣の地で面白そうなところがないか探していたら、ル・クルーゾに、大きな遊園地があることを知って行くことにした。そう最終的に決めたのは、何時かはっきり覚えていないが、位地をGPSに入れたのは、旅行以前であったから、可能性は考えていた。 当地は、「地球の歩き方」に、記載されてないから、情報はほとんど無かった。コンブ遊園地(Parc des Combes)に行ったのは、9月19日で、すでに9月15日に営業は終わっていた。フランスの観光シーズン(Vacances)は、7月―8月に集中していて、9月になると、急激に、観光する人は減る。それで、地方の観光施設では、観光案内所も含めて9月15日で終了するところが多い。その様な訳で、ここに着いたら、撤去作業の真最中だった。それでも、まだ、大半の施設は残っているので、邪魔にならない所を勝手に見させてもらった。かなり、大きな施設で、バカンスシーズンには、「クルーゾ」とはいえ、営業が成り立つほど人が「来る」のかと心配する。また、大きなサッカー場もある。 遊園地は、山の上にあり、下の街がよく見える。ところどころに、川のようなものが見えるが、ここには、3つの大きな池があるので、池であろう。そこまでの距離の2倍程度の距離には、サントル運河(Canal du Centre)が、流れているが、多分、ここからは、見えないであろう。 折角なので、街にも行き、歩いてみた。クルーゾの都市部の人口は、42 846人(2011年)で、市町村は、22 620人で、減少傾向にある。以前は鉱業の町であったが、アルセロール・ミッタル、シュナイダー・エレクトリック、アルストムなどの冶金や重電機企業がある。コンブ・パークは1990年代に観光開発の一環として建設された。工業都市だけではなく、ブルゴーニュ地方では、ディジョンに次ぐ第2の学術都市で、技術短期大学がある。ほんの一部しか歩いていないが、古いものが無いだけ、他のフランスの都市とは違い、非常に、垢抜けた、近代的な街であると感じた。大学があるせいか、文房具店があり、世界地図が貼ってあり(5.20 Euro)、世界の全ての国の、首都、使用通貨、面積、人口が、表となってついていた。日本でも、同様のものは、販売していると思うが、日本が中心にない地図は、教育的で、孫の土産に購入すれば良かったと思った。後で、ここの写真に写っているURL: www.rentreepleinciel.frを調べたら、plein cielという店に繋がる。 この町はなかなか住み易そうだと思ったら、地図や広告をみたら、停年者用の医療付住宅(Maison de Retraite Medicalisee)のパーマネント及び一時的というのが、いくつかあることが分かった。価格は調べていない。 不動産屋があったので、売り家と貸し部屋の物件の写真を撮って、後で調べてみた。細かい条件は分からないが、例えば、借家で、4部屋(?)、計60 m2で、月380 Euro (=53000円; 1Euro=140円として)と書いてある。日本のここに相当する地方の都市の価格はよく知らないが、それに比べて、安価な気がする。
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●ヌヴェール(Nevers)ブルゴーニュ地方
ロワール川とニエーヴル川の合流点に近い、ロワール川右岸の丘陵の斜面に位置する。アリエ川も、ヌヴェール近くで、ロワール川に合流する。ニエーヴル(Nievre)県の県庁所在地で、人口は、1975年に45 480人出あったのが、漸減して、2011年には、36 210人になり、その傾向は止まっていない。近隣の市を合わせると約10万人である。5世紀には、キリスト教司教座がおかれた。県庁所在地なのに、日本ではあまり知られていなく、「地球の歩き方」にも取り上げられていないし、ウイキペディアの日本語版でも、数行の記述しかない。 [サン・テティエンヌ聖堂] 7世紀初めにサン・コロンバンによって建てられた修道院を1068年にヌヴェールの司教は、クリュニ―修道院に寄贈した。ヌヴェールの伯爵ギヨーム(Guillaume)は修道院の建物を持った教会を建設することを引き受け、第1次十字軍に参加できないほど、出費した。建設された教会はシャルトルのYves司教によって、1097年12月13日に聖別された。11世紀の終わりのロマネスク様式の、この大建造物は、均整がとれていて、1793年の正面の塔と交差廊の損失は別として 大きな劣化を受けなかった。このことは、次のような設計や斬新な技術の質の高さを物語っている。---伝統的な教会の間取りと放射状のチャペルのついた周歩道、---高さ方向には、アーケード、特別席、高窓で、曲面天井を有している。質素な飾り、三角アーチをした交差廊は、光が建物に入ることを際立たせている。 [ヌヴェール伯爵邸、現市庁舎(Palais ducal de Nevers)] 15世紀と16世紀には、ヌヴェールの伯爵の城(13世紀以来)であったが、次いで、1464−91年、新しい建物の建築が行われ、公爵邸になり、現在は、ヌベールの市庁舎になっている。1840年に決まった歴史的建造物(monuments historiques: MHという)に指定されている。 ゴンザーグ公(duc de Gonzague:1539-1595)は、元々、イタリア人で、イタリア名は、ルドヴィーコ・ゴンザーガ-ネヴェルス(Ludovico Gonzaga-Nevers)といい、1565年に、ヌヴェール公の長女で相続人であるアンリエットと結婚して、ヌヴェール公となった。 [サン・シルとサント・ジュリット大聖堂(Cathedrale Saint-Cyr-et-Sainte-Julitte de Nevers)] 市庁舎のすぐ横にある。起源は、30歳の殉教者サン・シルと、その母、サント・ジュリットに、304年に捧げられた。第二次世界大戦中1944年7月15-16日に空襲で、破壊されたが、1946-66年の間に再建された。そのため、ステンドグラスなどが、斬新的である。
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●セーヌの源泉(Sources de la Seine)ブルゴーニュ地方
ディジョンの北西、直線距離で約30 kmの森の中、標高470mの地に地下水がわき出ている場所がある。ほぼ、ディジョンとフォントネーの修道院を結ぶ直線上の中間点にあるが、この2つの場所を流れるブルゴーニュ運河とは独立している。そこに、セーヌの源泉を示すニンフの像がある。この地は、紀元前100年頃に、ガリア人たちが泉の女神セクアナ(Sequana)を祀る聖所として崇め、ガロ・ローマ時代の神殿も発掘された。(ガロ・ローマ(Gallo Roma)とは帝政ローマ支配下にあったガリア、すなわち現在のフランスを指す。)セクアナは、セーヌのケルト語で、「水の女神」、「治癒の女神」であった。 現在の状況に至った要約は、当地にある看板に表示してある。そこに書いてあることを基に、多少、後で調べたことを加えて述べると以下のようになる。 セミュール・アン・オーソワ(Semur-en-Auxoix)の副知事のM. Labbineという人が、セーヌの源流をパリ市に売却することを考え、1843年から、交渉を始め、1864年に当時のパリ市長の、有名なオスマン(Georges-Eugene Haussmann(市長在任期間:1853-70))が、その提案を受け入れ、1864年に、この土地を購入した。その経緯があって、「パリ市(Ville de Paris)」という看板が立っている。1865年に、建築家Baltard, Davioud, Combazによって、洞窟が作られた。費用は、パリ市とサン・ジェルマン・ソース・セーヌが出し合った。1966年、セーヌのニンフの最初の像が、ディジョン生まれの彫刻家ジュフロワ(Francois Jouffroy)により作られた。1867年、公園が落成し、表示板が、洞窟の上に設置された。1934年、第一次世界大戦の後、彫刻家Paul Ch.A. Aubanによって作られたものに取り換えられた。 洞窟のすぐ脇の木に飛びついて木の実を採っている家族連れの人がいたので、何か聞いてみたら、ハシバミの実(Noisette)だと教えてくれて、親切にも、我々にも採ってくれた。実際に食するものは、生ではだめで、後日、ヘーゼルナッツを購入して、土産に持ち帰った。 観光案内と書いた方向50 mぐらい先にテントが張ってあり2,3人立ち寄っているので、行ってみたら、この地区の昔の信仰を信じている団体の勧誘場所らしく、普通の観光案内所とは違うようで、そこにおいてある木製の信仰の対象となる人形などの写真を撮ってはいけないと言う。そんなことは知らずに言われる前に写真を撮っていた。本は販売していたが、付近の案内の観光パンフレットなどは一切置いてなかった。 付近には、ハイキングコースがあるが、洞窟の周囲だけしか見ないで、満足してこの地を後にした。
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●サンス(Sens)ブルゴーニュ地方
ブルゴーニュ地方のホテルから、イル・ド・フランスのホテルへの移動中、オーセールに続いて立ち寄った。オーセールと同様、ヨンヌ川に面していて、サン・テティエンヌ大聖堂が、一番の見どころである。また、町のすぐ南側で、東側から流れているヴァンヌ川がヨンヌ川に合流している。観光地図が示すとおり、中心街は大変小さく、その中心に、市庁舎と聖堂と屋根付きマーケットが、共和国広場(Place de la Republique)を取り囲んで存在する。観光の対象としては、大聖堂ぐらいしかないが、駐車場が多く、マーケットもあるので、買い物も容易にできるし、お茶を飲むところも十分ある。したがって、周囲の村から、気軽に来られるので、人が多く集まって賑わっている。 [サン・テティエンヌ大聖堂(Cathedrale St-Etienne)] 1135年から数十年かけて建てられた初期のゴシック建築である。そのため、フランスの各地のゴシック建築に影響を与えてきた。 訪問した時は、土曜日の午後で、結婚式が行われていたので、結婚式を後方で見ていた。それで、聖堂の内部を見て回るのは遠慮したので、ほとんど見なかった。
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●ヴェズレー(Vezelay)ブルゴーニュ地方
この村は、「フランスの美しい村」にも登録されている。また、サンチャゴ・コンポステーラ巡礼路の起点として世界遺産ともなっている。この村は、2006年7月にNHKの夏の特別番組の生放送で紹介されたので(鎌倉千秋・住吉美紀アナ、伊東順二 美術評論家、現在、富山大学教授:奥様は、歌手・女優の小川知子)、それを見て関心をより強くして、今回ようやく訪問できた。 [サント・マドレーヌ・バジリカ聖堂(Basilique Ste-Madeleine)] バジリカ(フランス語では、バジリク:Basilique)は、聖堂を意味するから、「バジリカ聖堂」という言い方は、ちょっとおかしく「サント・マドレーヌ聖堂」が適当と思うが、「地球の歩き方」などにそう書いてある。多分、バジリカに相当するほど大きな教会は日本には無いから、その言葉自体が、日本では、あまり馴染みがないからだろうと思う。まお、大聖堂というのは、司教区の主要教会を意味し、聖堂の物理的大きさではないことを、キリスト教に疎い私は、割合、最近知った。マドレーヌは、マグダラのマリアのことで、当初、この聖堂に、彼女の遺骨が祀られていたとされて、人々が訪問し、中世のサンチャゴ・コンポステーラ巡礼路の出発点の1つとなった。第二次十字軍(1146)の出発点ともなった。マグダラのマリアの遺骨のあり場所は、漂着した南仏(Stes-Marie-de-la-Mer)にあるという説が有力になり、フランス革命で、ベズレーは、一時は衰えた。19世紀になってから、建築家ヴィオレ・ル・デュック(Eugene Emmanuel Viollet-le-Duc: 1814-79)により再建され、また繁栄を取り戻した。なお、彼は、ピエールフォン城や、パリのノートル・ダム大聖堂などを手掛けている。 タンパンや、100あまりある柱頭彫刻は、いずれも、新・旧約聖書などに基づいた物語を表していて、信者でない私には、ほんの一部しか意味が分からない。その説明はネットや、書物などの解説で、ある程度は理解できるが、大半は、無理である。購入したパンフレットには90の記載があるが、そこでも、意味不明になっているものがある。写真が、比較的良く撮れた一例「聖ウスターシュの改宗」をあげて、説明すると、以下のようになる。 <プラキダスという名のローマ軍最高司令官がチボリの近くで狩りをしていたとき、光り輝く十字架を戴いた牡鹿の幻を見てキリスト教に改修した。十字架のイエスは「あなたは鹿を追いかけているつもりだろうが、この鹿によって私に捕まえられたのです」と語りかけた。以後、エウスタキウス(よい実を結ぶ木)と改名し、家族とともに洗礼を受けた。エンブレムは、鹿と帽子> しかし、この説明を見た後でも、犬は分かるが、鹿がどこにいるのか分からない。こういう柱上彫刻は、ステンドグラスのように、神父が、当時の文字の分からない民衆に説教するのに使われたのだろう。 上記生放送で、知ったが、第二次大戦終了直後、この教会から平和の十字軍という呼びかけを行い、ヨーロッパ中から3万人がこの町に集まり、祈りを捧げた。人々は各地から十字架を担いで歩いてきた。当初、元敵国のドイツには平和の十字軍の呼びかけをしていなかったが、フランスの捕虜収容所にいた元ドイツ兵が、ドイツ軍の空襲で破壊されたフランス家屋の廃材で十字架を作り、フランス人の憎しみの的の旧ドイツ軍の軍服を着て現れたが、ヴェズレーの人々はそれに感動して迎え入れたという。当時20歳で参加したフランシスコ会司祭のこの話を聞き、住吉アナは感涙に声を詰まらせ、この番組は、この3人の出演者の感動のうちに終わり、生放送故に、その感動が伝わってきた。その放送は録画して保存している。 その十字架もここにあり、説明も付いていた。これによれば、1146年の、聖ベルナールによる(独・仏連合の)十字軍の800年記念で行われたとある。14個の十字架は、イギリス、ルクセンブルグ、ベルギー、スイス、イタリー、フランス各地から、歩いて運ばれ、15個目が上記ドイツからのものであり、これは、世界に対して、和解の力強いサインとなった。 駐車場のある村の入口から、聖堂に至る道は、観光客で賑わっていたが、聖堂の下の丘を一周する道を歩いてみたが、誰も歩いてなく、特に見るべきものはなかった。 <前に来たときは、正面左隅の階段から身廊の屋根裏を通って塔に上ることができた。てっぺんからの眺望は素晴らしかったけれど、残念ながら今は上れないらしい。>と稲葉宏爾は、「パリからの小さな旅」(2002)で書いている。てっぺんに上れなくても、丘になっているので、丘からの眺めは十分よい。
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