●サントル地方(Centre

 この地方の主な観光地のロワール川流域の、アンボワーズ城、ブロワ城、シャンボール城、シュノンソー城などの城は、以前に訪問していて、今回は、ブルゴーニュ地方に隣接するアプルモン・シュル・アリエ(Apremont-sur-Allier)と、そこに近いロワール川からの運河の取り込み口(L’Ecluse des Lorrains)を訪問しただけである。


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「フランスの彩り」に紹介されているサントル地方。


アプルモン-シュル-アリエ(Apremont-sur-Allier)サントル地方(Cher県)

今回の旅行で、ブルゴーニュ地方に隣接して、西側にあるサントル(Centre)地方を訪れたのはこの村と、ヌヴェールの近くで、ロワール川に設けられている水閘門だけである。近隣のヌヴェール(Nevers)を訪問することは計画していたが、その近くで面白そうなところを探したら、この地が、「最も美しい村」であることを知ったので訪問した。訪問した時は、よく分からなかったが、後で、調べてみたら、いろいろな意味で、面白いところだという気がしてきた。この地は、名前が示す通り、アリエ川(の左岸)に面している。アリエ川は、地図(Ap1’)から分かるように、南から北に流れて、ここから、約7kmの地点で、東側から流れるロワール川に合流し、そのロワール川は、その地点で北に向きを変え、最終的には、ナントの先で大西洋に出る。

GPSに、当地を入れて、ヌヴェールから来たが、それに従って来たら、城の手前から、森の中の舗装のしていない森の小路という感じのところに導き、向かいから車が来たら、どちらかが、大分戻らねばならず、これで、大丈夫かと思って進んだが、やがて、突然開けた高台にある城の前に出た。しかし、城は無人のようで、観光客も、いない。下を見ると公園の一画と思われる中国庭園が見えたり、柵には、大きな日本庭園の写真看板もある(京都の寺: Temple de Kyoto Japon;看板の下にある文字を拡大して推定した)。しばらく、城の写真を撮ったが、誰も居ない森の中の城というのもあまり気持ちのよいものではない。そもそも、ここに入ってきてよいものかも不安になった。帰国後知ったが、ここへの正門は、村のメイン通りにあり、そこは、閉じているので、普通には、ここには入れないことを知る。したがって、裏から、偶然に入れたことになる。しかし、ここが、美しい村に指定された条件として、この城の存在があったはずである。

この城は、中世、ブルゴーニュ公国によって守りの拠点要塞として造られ、アリエ川の通行税を徴収した。1467年に要塞が再建され、ヌヴェール伯の領地となった。19世紀末に持ち主が破産し、フランス革命を切り抜けた城のみ残されて放置された。1894年に実業家Eugine Schneiderが、妻の要求で購入し、城を修復した。1918年に、空軍兵の息子を失い、息子に捧げて庭園を造ることにした。この息子の死については、村の教会にあった戦死者名簿の中に見出すことができた。それで、教会内の壁の目立つところに戦死者の名前が、大きく示されている理由が分かった。1970年代に孫によって花の公園(Parc Froral)が造られ、1977年に開園した。歴史については、

http://informative.seesaa.net/article/125447867.htmlに、大変詳しい。

その下にある庭園や、村に、歩いていけるのかと思ったが、間に、柵があって、どうも城側から直接はいれそうもないので、一旦来た道に戻り、そこから迂回して村に行こうと思った。しかし、森の中へ入って行ったら、GPSで行先をセットできなく、方向が分からなくなり、悪路の森の中を迷った末、先ほど来た道にようやく出られた。

航空写真(Ap6’:www.panoramio.com/photo/12721302)にある、左側の入ってきた森を抜けて、メインの通りに出て、写真の左奥にある道を、右方向に進んで、やがて右折し、城の右手にある、ここには見えていないメインの通りに出た。メインの通りといっても、200 mぐらいしかなく、人口は、どんどん減っており、例えば、1861年に587人であったのが、1990年には、83人、2011年には73となっている。これで、年間15万人の観光客(1日当たり400)が訪れるそうで、信じられないし、どうして人口が減り続けるのだろうか。「アリエ」と言いながら、「ありえない」というダジャレが浮かぶ。城が見られなければ、観光施設は、上記、花の公園ぐらいしかないし、あとは、アリエ川と城の遠くからの眺めぐらいしかないだろう。喫茶店が1件ぐらいしか無いような気がする。我々も、来る時間が、ちょっと遅かったので、お金を使える所は無かった。

小さな教会の壁には、上記、Schneiderの息子など、第一次大戦で亡くなった人の名前と、戦死日まで掲げてあった。フランスの村は、どこでも、2つの大戦の戦死者の碑があるが、ここまで、詳しく出ている例は見たことがなかった。城主のSchneiderの息子が戦死したので、こうなったことは、後になって分かった。行ったときは、わざわざ来るべきところでなかったと思ったが、後になって、いろいろ面白いことを知って、行って大変良かったと思うようになった。

帰り道に、ここでも、枯れたひまわりの畑を見た。ひまわりは、枯れる時も、ほとんど一方向を向いていることは分かっていたが、それが、夕日を背にしているので、東向きに枯れていることを知った。夜の間に、東を向きそこで、枯れるのだろうか。どうしてそうなるのか、知りたいが。ゴッホの影響か、ひまわりは、アルルなどのプロヴァンス地方に多くあると、日本人は、思いがちであるが、プロヴァンスで、広大な、ひまわり畑を見つけるのは、割合難しいが、ブルゴーニュなどでは、多くある。

また、白いシャロレー(Charolais)牛が、暗くなっても、牧草を食べている。シャロレー牛は、食用に適しているそうで、元々は、ヌヴェール付近にローマ人が、持ち込んだそうなので、この付近が、原産地である。なお、Charolaisとは、「シャロレー地方」という意味で、「シャロル(Charolles)は、ブルゴーニュ地方のマコンが県庁所在地のソーヌ・エ・ロワール(Saone-et-Loire)県のコミューンである。肉食の苦手な私は、牛に関して、ほとんど知識がない。

なお、地図(Ap1’)で示すように、アプルモンの東南、約9 kmに、F1レースで、有名なマニー・クール(Magny-Cours)がある。航空写真を見ると、周囲とは対照的な様子が分かる。

我々もそうであるが、「フランスの美しい村」に引かれて、訪問する日本人がかなりいるようで、ネットでは、意外に多く、日本人の興味深い旅行記が見られる。しかし、城まで行けた人はいなかったようである。

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Apremont-sur-Allier付近の地図;Neversまでの距離は直線で、13 km

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アプルモン・シュル・アリエ城(Le chateau d’Apremont-sur-Allier);どの建物を撮ったのかは、Ap6’から分かる。

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城の航空写真:www.panoramio.com/photo/12721302

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城から見えた中国庭園。

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城と公園とのフェンスにあった、京都の寺 ”Temple de Kyoto”という名前の庭園の看板。

Ap9

メイン道路;工事中のブルドーザーの間に「フランスの美しい村」のマークが見える。

Ap10

住宅;当地の産物の砂岩の石材でできている。

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アリエ川河畔;右から左(ヌヴェール方向)に流れている;対岸は、ブルゴーニュ地方。

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村の教会;人口が、73人なので、大きすぎるくらいである。

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教会にある第一次戦死者13名;当城主の息子の戦死を悼み、副官Henri-Paul Schneiderの名前が一番上に。

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人口の変遷(縦軸の単位は、人)1861年に583人であったのが、現在は、70名強; wikipediaより引用。

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当地特産の、白色のシャロレー牛。

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東に向く、枯れかけたひまわり。


ロワール川の水閘門(L’Ecluse des Lorrains)サントル地方

ロワール川のアプルモン・シュル・アリエに近いところに、水閘門がある。これは、ロワール川から水を引き、平行した運河となっている。1825年に運河の工事が始まり、1835-1841年に、ロワール川に接続する球形の閘門の建設を行った。1838年には、この運河から、ロワール川への運行を開始した。1872年にアリエ川に、この水閘門に達するダムを建設した。1950年頃には、この水路を、水供給の目的だけのものとした。船の通行は止めたということであろう。フランスでは、円形の閘門は、現在、唯一ここだけとなっている。 

別名、「アプルモンの円形閘門」(Ecluse ronde d’Apremont)という。ロワール川の左岸にあるので、ブルゴーニュ地方ではなく、サントル地方に属する。なお、ロレーヌ地方は、Lorraineで似ていて、紛らわしい。

この閘門の直径は、32 m、閘門の横幅:5.20 m、航行可能な長さ:3.4 kmである。この水路は、閘門の少し南にあるゲタン(Guetin)という所で、ローヌ川の上を通っている。ちょうど、ポン・デュ・ガールの橋の上を、水道が通っているようなものである。そのことを、現地に行った時は、未だ、知らなくて、その橋を見学に行けなかったことを後で、残念に思う。

この水閘門には、「ロワール川の鮭のための協力(Ensemble pour le saumon de Loire)」という看板があり、次のようなことが、記されていた。

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ロワール川の鮭の保護

ロワール川とアリエ川起源の鮭は、現在、絶滅の危機にある。その絶滅は、生物的遺産に対しての元に戻せない損失を意味するであろう。ヨーロッパによる精力的な、保護が、次のように計画され、資金援助がされてきた:

--産卵地のアリエ川上流における鮭・鱒養殖のために、戻って来る親鮭の捕獲。

--永続的な、質の高い養殖。

--数の状態、回遊の状態、この計画の成果評価の為に、数を追跡し、産卵場を調査する。

--産卵、生育場の保護の手段。

--広報活動。

アリエ川へのロワール川の水閘門

 グリーンランド沖の広大な領域から、上流領域の産卵場まで、鮭はおよそ6000 kmに渡って回遊する。驚くべき能力を有するとしても、鮭は、生存と、適した回遊の条件を必要とする。ロワール川の中流にある原発の水の採取の始まりに対する魚に対する大きな通路を整備することで、今日、鮭が、特に苦労することなく、550 kmを上ってくることを可能にしている;ここで、550 kmというのは、航行可能な道の始まりの大西洋から、アリエ川本流の入口、すなわち、ゲタン(Guetin)の橋の上の運河、ロワール川からの水の採取地、までの距離である。

 鮭が、季節に、よい状態で、ここから、380 kmのアリエ川の最上流地の産卵場に到達するように、アリエ川の下流のダムは、魚が通過できるような有効なパスが無ければならない。連続する多くの流域からなる通路の中に魚が泳いで入るように、水流を調節し、水門の高さを、魚が容易に越えられるような小さな滝に分割している。

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 この閘門とは直接関係ないが、アリエ川が、ロワール川に合流するところには、砂嘴(さし:Bec)があり、図(Ec1’, Ec2)に示されているように、Bec d’Allierと呼ばれている。この場所について、対岸のヌヴェール(Nevers)の公爵邸(Le Palais ducal(博物館)に説明があった(Ec3)。

Bec-d’Allier、合流点:アリエ川とロワール川の合流点のBec d’Allierは、18世紀の中ごろまで貨物輸送用港であった。この植物と動物の保護者は、常に、自然愛好者を引きつけている。魚特に、アリエ川を遡る鮭の交流点である。渡鳥の目印の役目もしている。Marzy(Ec1’にある)のアリエ川の砂嘴の鳥類学研究所は、ロワール渓谷の国際的研究センターとなっている。>


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ロワール川は、東から流れ、南から流れるアリエ川は、Bec d’Allierで北に向きを変えるロワール川に合流する;合流点から、少し北の下流にジブリの水閘門(l’Ecluse de Givry)がある;Ec1’には、水閘門の地名の記載はない;lateralは、平行するという意味。

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Bec d’Allier:ヌヴェールにあった説明。

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北に流れるロワール川から、分水する水閘門の操作塔。

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取り入れ口;右手に見えるのが、Ec7の看板。

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右手の穴から取り入れた水が、中央の穴から、運河に入る。

Ec7

ここでは、運河は、ロワール川とは、ほぼ直交しているが、やがて2手に分かれる。

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Ec4で見られる鮭の保護に関する看板;内容は、本文中。