●イル・ド・フランス地方(Ile de France) イルというのは、島を意味し、島ではないのにこの名前がついたのは、セーヌ川に注ぎ込む多くの川に取り囲まれているので、あたかも島のようにも見えるからである。パリが含まれるから、フランスの全ての分野の中心である。したがってパリ中心のみならず、その近郊にも訪問するところが多い。今回の旅行は、シャルル・ド・ゴール空港(名前が長いので、フランス人は、その地の名前のロワシー(Roissy)と呼んでいる)に始まって、そこで終わるので、帰り道に、近郊のいくつかの観光地に立ち寄った。再訪したところが多く、新たに訪問したところは、ディズニーランド、サン・ドニ、モレ・シュル・ロワン、グレ・シュル・ロワンである。 [川] パリを流れるセーヌ川を中心に主な川について述べる。 ◆セーヌ川:セーヌの源泉に源を発し、パリを流れて780 kmの後、ル・アーヴルとオンフルールの間のセーヌ湾に注ぐ。フランスでは、ロワール川に次いで、2番目に長い。今回、セーヌの源泉(Sources de la Seine)を訪問した。 ◆オワーズ川:ベルギーのエノー州シメイ近くにある標高309mの山に源を発し、309 kmの後、イヴリーヌ県コンフラン・サントノリーヌ(Conflans-Sainte-Honorine)でセーヌ川に合流する。 ◆マルヌ川:ラングル高原のコート・オ・クロに源を発し、1525 kmの後、ヴァル・ド・マルヌ県のシャラントン・ル・ポン(Charenton-le-Pont)でセーヌ川に合流する。
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●バルビゾン(Barbizon)イル・ド・フランス地方 1999年にパリに数日間滞在中、フォンテンブローへのバス旅行に参加した。その帰りに、バスは、バルビゾンに立ち寄った。バスの停まった場所は、メインの通りからは50 mぐらい離れていただろうか。ガイドは、バスの中で、主に見る選択肢について概要を説明し、各自が行きたいところへ行くように言い、ガイドは、バスで待っていた。自由時間は30分ぐらいではなかったと思う。皆さんミレーの家に行くと思っていたら、大半は、お茶を飲みに喫茶店に入り、ミレーの家に行ったのは、ほんの数組だけであり、我々は、西洋では、ミレーは、日本ほどは人気が無いことを初めて知った。井出洋一郎「フランス美術鑑賞紀行」によれば、日本で西洋画が紹介された明治の初めごろ、当時のフランスでは、ミレーやコローの自然派あるいは写実主義が絶頂期だったので、西洋画の巨匠 =ミレーという神話を作り上げてしまったそうである。喧噪の都会を離れて、農村で、清貧、風雅に暮らすというのも、当時の日本人のメンタリティにぴったりだったそうである。この時、ヨーロッパの画家の評価は、フランスなどと日本とでは、隔たりがあることを初めて、実感した。 いずれにせよ、その前回訪問の時は、充分に見られた感じがしなかったので、今回、フォンテンブローなど近くに行く予定もあったので、バルビゾンを再訪した。前回、バスが停まったところにたまたま出たので、そこに車を停めた。すぐ前に、観光案内所があったが、5時を少し過ぎたためか、季節が終わっているのか(9月23日;観光地では、 9月15日で閉まる観光所も多い)閉まっていた。記憶に残る教会の横の細い階段を下りると、メインの道路(La Grande Rue:大通り)に面した教会の前に出る。そこを右に曲がったメインの道に面した右側に、ミレーの家はある。もう、ほとんど終わりかけていたが、最後の入場者として入れてくれた。今は個人の所有のものであるらしく、絵を販売しているらしく、客が売買の交渉をしていたように見えた。中は雑然と作品が並べられているが、特に、題名などはついていないし、どれが本物で、どれが複写なのかも分からない。例えば、有名な、「落穂拾い」は複製であるが、片隅に置いてある。なお、「種まく人」の本物は2つあり、1つは、ボストン博物館にあり、もう1つは、山梨県立美術館に入って、当時、日本では、話題になった。 ミレー本人と妻との、写真が1枚貼ってあるが、ここに書いてある説明を後で読んだが、内容が解せない。私の訳では、「Jean-Francois Millet通称Francois Millet(Jean-Francois Milletの長男で、Parisで1849年1月17日に生まれ、1917年に死去)と妻、Geraldine REED、1906年Grande通り39の自宅にて」となるが、多くの間違いがあるように思う。以下、ウイキペディアで調べた結果を記す。まず、父親の名前が本人と同じというのはおかしい。生まれたのは、1814年10月4日である。生まれた場所はパリではなく、ノルマンディのシェルブールの西、約15kmのGreville-Hagueである。亡くなったのが、1875年1月20日であるから、1906年に写真が撮れるはずがない。表の入口に書いてある1849年から1875年まで、ここに居住していたというのは正しいのだろう。しかし、公共の美術館でないと、こういういい加減は許されるのもフランス流なのだろう。あるいは、私が、ぼけているのか、誤訳しているのであろうか。 ミレーについて補足すれば、最初、シェルブールの画家に学んで、1837年からパリに出てドロラーシュに師事した。それからは、ロココ風の艶雅なパステル画や看板画で生計をたてるが44年からサロンに農民画を出品し始め、49年にバルビゾンに移住してからは、農民生活に理想を託した。 19世紀にバルビゾンに移り住んだ画家たちをバルビゾン派と呼んでいるが、1830年頃にコロー、テオドール・ルソーらを中心に若い風景画家たちが訪れて描き、1835年にまず、ルソー、49年にミレーが移住し、ジャック、ドワン、ディアズ・ド・ラ・ペーニャ、ユエ、トロワイヨン、ツィアン、デュプレ、コローらも住み、古典的歴史風景ではなく、オランダ派の影響を受けた動物画や、自然や農民の暮らしを主題にした風景画を描き始めた。 ミレーのアトリエの中に、3組の「19世紀のバルビゾンの画家達」の写真がある。これは、バルビゾン派を意味するわけではなく、バルビゾンに来たことがある画家だろうと思うが、当時の有名な画家が顔写真付きで出ているので、読める範囲で、その名前を記す。 1830年から約30年にわたり、バルビゾンに住んだ芸術家は約80人いる。当時の村の様子は、ゴンクール兄弟の小説「マネット・サロモン (Manette Salomon)」(1867)の中に書かれている。ゴンクール兄弟も、当地を訪れているが、「印象派」画家に対しては、厳しい批評もしていることを知った。 (左上)
(左下)
(右上)
[註] 左下の写真は、手振れしているため、拡大しても、人名が、ほとんど、はっきり読めない。 ローザ・ボヌールは、この中で、唯一の女性画家で、フランスの最高勲章であるレジオンドヌール勲章を女性芸術家としてはじめて受けている。青字の人たちは、スペースを余計に取っているので、評価が上であることを示しているのであろう。 Grez-sur-Loingの、Chevillonホテル(Grez-sur-Loingの項参照)の芸術家達の写真には、6人の男性と1人の女性が写っているが、名前が挙がっているのは、5名で、しかも、それが、どの人か書いてないところを見ると、ここにこの写真を貼った人が、各人を識別できないためであろう。書いてある名前は、R.A.M. Stevenson(縞の靴下)、Chavalier Palizzi、O’Meara(フアーストネーム無)、Fany Osbourne(座っている)、John Singer Sargentと書いてある。フェニィ・オズボーンは、1度離婚後、R. L. Stevensonと結婚した。上記、R.A.M. Strevensonとは従兄弟関係にある。
このミレーの家のすぐ先にミレーとルソーの並んだ記念碑があることは、上記、井出氏の本などで後になって知った。下調べ無しで行ったので、見られず残念なことをした。この通り(上記ラ・グランド・リュ)の両側には、画商の店や、バルビゾン派の家、喫茶店などが立ち並んでいるが、人通りは非常に少ない。季節が遅いせいかどうか分からないが、前回来た時の賑やかさは、すっかり無くなって、寂れた感じがした。 この通りを歩いていたら、黒い花を植えてある木製のプランタンを置いてある家があった。黒い花は、珍しいので、何枚も、写真を撮る。珍しいから、植えているに違いないと思うのだが、名前が分からないのが残念である。 バ・ブレオー(Bas Breau)では、この村の画家たちの展覧会が開かれた。表の様子からは想像できないが、現在は、フランス料理で有名な格式あるホテルになっている(以前は4星だったが、現在は5星らしい)。中庭で食事が取れるようになっている。常連客にアラン・ドロンやエリザベス・テーラーなどがいて、昭和天皇も来られたそうである。映画「パリのめぐり逢い」(イヴ・モンタンとキャンディス・バーゲン主演)のワン・シーンにも使われた。パリからは、車で1時間半で来られる。R. Louis Stevensonがここで、Forest Notesを執筆したとある。 ガンヌの家(Auberge du pere Ganne)は、最初食料品屋であったが、村に宿が無く、バルビゾンを訪れたコロー、ミレー、アングルなどは、とりあえずこの家に腰を据えた。画家たち以外にも、ジョルジュ・サンド、アルフレッド・ミュッセ、イギリスの文豪R. L.スチーヴンソン(「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」などの作者)も滞在した。 村を出たところに、この付近が、「晩鐘」の舞台となったことを示す陶板画が置いてあるが、風景を見て、具体的にどこなのかは分からなかった。前回、バスで通りすぎた時も、このあたりが「晩鐘」の舞台だという説明があったが、走るバスから確認できなかったので、今回は、ゆっくり確認しようと思っていたのだが。
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●ディズニーランド(Disneyland)イル・ド・フランス地方
パリから東に約32 km、マルヌ・ラ・ヴァレー(Marne-la-Vallee)の、パリ市の面積の約1/5の面積を有する敷地内に、ディズニーランド・(リゾート・)パリ(総称)がある。シャルル・ド・ゴール空港(通称、ロワッシー:Roissy)から、パリ中心には南西に行くのとほぼ同じ距離だけ、南東に行くとディズニーランドがあると考えればよい。パリの観光地の中で、観光客が一番多く来るところが、このディズニーランドだそうである。面積からすれば、当然であろう。 この中に、「ディズニーランド・パーク」「ウオルト・ディズニー・スタジオ」「ディズニー・ヴィレッジ」の3パークと、7軒の直営ホテル、関連ホテル、ゴルフ場がある。 旅行の最終日[2013年9月25日(水)]の、パリ発の飛行便は、夜の11時25分発であり、昼間は、1日中時間があり、ロワッシーからも近いので、パリのディズニーはどういう風になっているのか、中に入らなくても、門外から写真でも撮れればという積りで行き、詳細は、ほとんど調べずに行った。したがって、上記のように、“ディズニーランド”が幾つかに分かれていることも事前には知らなかった。車で行くと、どこが入口なのかも分からず、周りを回って、そのうちに、走っている車が多くなりだし、他の車について行ったら、そのうちに、中に入れて、建物の中にある駐車場に入った。そして、人の流れについて行ったが、入場料を払わないのに、ディズニーの雰囲気のところに出ていた。後で知ったが、ここが、上記の「ディズニー・ヴィレッジ」で、入場は無料で、他の2つのテーマパークに隣接する総合商業地区であった。ここでは、ショッピング、アミューズメント、飲食などが楽しめて、乗り物などに乗る積りのない我々老夫婦には、充分であった。写真で示すところは、全てこの領域内で撮ったものである。なお、他の2つの有料パークへの入場券は、1パーク券(大人:61 Euro、子供(3-11歳):55 Euro、2パーク券(大人 74 Euro、子供:66 Euro)で、ウエブサイトから、日本語でも、申し込み可能のようである。空港が近いので、いつも、上空には、飛行機雲が見られた。日本人らしき人は、見かけなかったが、パリに来て、わざわざ、ここに来る人もいないのだろう。 結局、ここに、2時間いて、雰囲気を味わったり、買い物をしたりした。有料パーク内が、どうなっているかは、分からないまま後にした。
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●フォンテーヌブロー(Fontainebleau)イル・ド・フランス地方
パリから南東に約62 kmの場所にフォンテンブローの森がある。この森はセーヌ川左岸に広がる約25 000 haの広大な森林地帯の東端にあり、この森だけで、16 700 haある。因みに、山手線の内側の面積は、6300 haなので、その約2.6倍もある。ロッククライミングに適した岩場が点在し、約1350種の樹木と、約2700種のキノコが自生していて、晩秋にはキノコ狩りをする家族連れがパリから押し寄せる。また多くの野生動物が住んでいる。それで、歴代のフランス国王の恰好の狩猟場として愛され、12世紀頃にはすでに王が狩りを楽しむための館が築かれていた。 ロッククライミングといえば、知人で、フランスに留学されていた方が、休日に、岩を素手で登っていくのが流行っていて、このフォンテーヌブローでやっておられた写真を、40年以上前に見せてもらって、落ちたらどうするのかと思ったことを思い出した。そのスポーツの名前は忘れてしまったが、ネットでみたら、ボルダリング(bouldering)というそうで、縄は使わないが、落ちた時の為に、下にマットレスを引いて登るそうだ。 狩りの館を宮殿に変貌させたのは、ヴァロア朝のフランソワ1世(在位:1515-47)であった。彼は、イタリアの覇権をめぐってオーストリアのハプスブルグ家と争いイタリア遠征を繰り返し、戦いには負けたが、ルネサンスの文化に触れ、イタリアから、多くの芸術家を招き、フランスにルネサンスを開花させた。フォンテーヌブローはかくて、フランス-ルネサンス芸術で埋め尽くされた。建設は1528年に始まり、息子のアンリ2世:在位: 1547-59)に受け継がれ、その後も歴代国王が、増改築した。 ナポレオンは、フォンテーヌブローとは、深い関係がある。彼は、コルシカ島の小貴族の次男として、1769年8月15日に生まれた。彼は、生粋のフランス人と一般に思われがちであるが、コルシカ島は、1年前の、1768年5月13日のヴェルサイユ条約で、ジェノヴァ政府がフランスにコルシカを売却したので、フランス人となった経緯がある。このことは、数年前に、コルシカ島に行った際に、調べて分かった。両親は、ジェノヴァ人であったはずである。そのナポレオンは、13歳で、フランス本土の兵学校に入学し、1789年にフランス革命が起こると士官として革命軍に加わった。その後、96年には、イタリアで、オーストリアに勝ち、98年にはエジプト遠征で、英国軍と戦った。そして、翌年1799年11月9日に30歳でクーデターにより、総裁政府を倒し、統領政府の第一統領になった。 彼が、フォンテーヌブロー宮殿を訪れたのは、1801年であった。彼は、気に入って、1804年に皇帝に就任してナポレオン一世になり、宮殿の修復を始めた。特に、四方が建物に囲まれた中庭の、西側の建物を壊し、鍛鉄の格子門を設け、宮殿が街に開かれるようにした。しかし、1808年のスペインの反乱、13年に、ロシア・プロイセン・オーストリアの連合軍に敗れ、1814年にパリを占拠される。44歳のナポレオンは、この宮殿の「退位の間」で、退位同意書に署名し、「別れの中庭」からエルバ島に向かった。翌年、一旦パリに戻り、帝位に戻ったが、「百日天下」で、イギリス・プロイセンの連合軍に大敗して、セント・ヘレナ島に流され、1821年5月5日に、52歳で没した。 フォンテーヌブローは大分以前に、パリからのバスツアーに参加して、屋内を見たので、今回は、屋外だけを見ようと思って行った。結局、3時間いたが、建物からあまり離れない領域を、ゆっくり散策しただけであった。中に、軍隊の、馬の訓練場のようなところがあって、立ち入り禁止の札が立ってあるところもあった。広大な、森の中に入っていくには、それなりに調べて、用意してからでなければならないと思った。建物には、何組かの中学生ぐらいに相当する生徒が、教員に連れられて見学に来ていた。 なお、写真の順序は見た順序と必ずしも一致していない。
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●グレ・シュル・ロワン(Grez-sur-Loing)イル・ド・フランス地方
グレ・シュル・ロワンは、パリから南東、約70 km、フォンテンブローの森の南端からは、約2kmに位置し、人口1409人(2010年現在)、セーヌ川の支流ロワン川が村を横切る。同じロワン川に面するシスレーで有名なモレ-シュル-ロワンの南西11 kmに位置しているので、モレ訪問の後、この地を訪問した。「地球の歩き方」に、我が国の西洋画の創始者の黒田清輝が、留学していたことがあり、Kouroda Seiki通りというものもあると書いてあったからである。訪問時には、その程度の知識しか無かったが、帰国してから調べたら、私には、大変興味深い地であることが分かり、詳しく下調べしてから行けば良かったと思った。なお、日本語の説明や絵の題名などで、「グレー」と長音を用いているものがあるが、フランス語の発音の規則に反していて、「グレ」が正しい。シュル-ロアンは、「ロアン川の畔の」という意味である。以下、グレと略記する。 行ってみると、メイン通りに面する教会と立派な建物の村役場の前には、簡単に行けたが、写真に示すとおり、誰ひとり歩いていない(火曜日14時50分)。市役所の横に貼ってある地図にも、Kouroda通りの記述は見当たらない。きっと、川の反対側が賑やかな地区に違いないと、ようやく通りかかった若者に、橋の位置を聞いて、渡ってみた。途中、ガンヌの塔という12世紀の城の廃墟が橋のすぐ手前にあった。向こう側の川岸は、芝生があって、ウイークデイではあるが、数人が、座って川を眺めていたり、日光浴をしたりして、思い思いに余暇を楽しんでいる。1人の老人が、気持ち良さそうに泳いでいるのに驚く。9月24日で、気温は、日中でも、もう15 oCぐらいで、日本人なら、誰も泳ぐ水温ではないはずである。後で考えたら、スウェーデン人の芸術家だったのかもしれない。スウェーデン人なら、水泳好きで、15 oCぐらいで泳ぐのは普通であるからである。水は、澄んでいるわけではないが、周囲の柳などの緑が反射して、大変美しい。そこにいた中年の地元の夫婦に、村の中心は、川のどちら側なのか、Kuroda通りはどこにあるか聞いてみた。村の中心は、先ほど最初に居た村役場あたりで、Kuroda通りは、持参の本の写真を見せても分からず、村役場に行って聞くように言ってくれた。それで、元来たところのメインの通りに戻って歩いていたら、それと直角をなす小道の入口の壁の上方に、Kuroda Seiki通りの表示を偶然、見つけることができた。その道の入口からすぐ近くに、黒田の住んでいた家があった。そこには、写真で示すように、日本語の説明もある表記があった。なお、Kurodaと綴るとフランス語では、「キュロダ」と発音するので、「クロダ」と発音するようにKourodaと書いてある。嬉しくて、その前で何枚も写真を撮っていたら、妻との話し声を聞いて、向かいの家の奥さんが、出てきて、我々2人の写真を撮ってくれた。日本人が、ここに来るかと聞いたら、ほとんど来ないと言っていた。最寄の鉄道の駅は、プーロン・マルロット・グレ駅で、そこから当地までは、歩いて約1時間というで、この駅にタクシーなどはありそうもないから、自分の車が無ければ、来られるところではない。それにしても、1400人の人口があっても、店も無ければ、働いている人は見かけなかったし、車はあっても、歩いている人もほとんどいないし、ブドウ畑もない。それでいて、立派な教会や、市役所がある。一体、この村の人は、何をして生計を立てているのか、想像が出来なかった。 日本の絵画界におけるグレという場所の意味は、我が国に西洋絵画を最初に紹介した黒田清輝の滞在だけではないことは、帰国してから、井出洋一郎著「フランス美術鑑賞紀行2」(美術出版社)などを読んで知った。グレが、画家たちに人気が出たのは、バルビゾンより遅く、印象派時代の1880年代になってからである。フランス人には風景が平凡すぎる為か、あまり人気がなく、来たのは、北欧人、イギリス人、日本人ばかりであったようだ。日本からは、黒田の他に、久米桂一郎、浅井忠、和田英作が来ている。三重県立美術館の荒屋鋪透氏の書かれたグレに関する記事には、黒田は帰国後、東京美術学校が1896年に新設されると、その最高指導者となり、「外光主義」を実践していったと書かれている。 http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/catalogue/carl_larsson/arayashiki.htm 同じ記事で、ゴンクール兄弟が1863年7月24日の日記に登場するころから、グレは、芸術家が訪れることになり、スウェーデンからは、黒田よりやや早く、スウェーデンを代表する画家たちのアンデシュ・ツォーン(Anders Zorn)や、カール・ラーション(Carl Larsson)などが来ていたことを知る。ラーションは、ストリンドベリをこの村に誘った。フランスで、黒田などの日本人に絵画の指導したのは、コラン(Raphael Collin(1850-1916))という人である。そして、これらのグレに来たスウェーデン人画家たちも、コランに習い、自国に帰国後、外光主義を実践していく。 コランについては、ウイキペディアに次のような記述がある。<アカデミーの古典的な骨格を備えながら、印象派や象徴主義の影響を受けた優美な画風の作品を制作し、裸婦像も多い。印象主義の影響を受けた折衷的な作風は外光派(Pleinairisme)と呼ばれる。藤雅三の紹介で黒田清輝・久米桂一郎が指導を受け、後に岡田三郎助、和田英作もコランの下で学んだ。日本ではこれら洋画家の師として知られるが、フランス絵画史では印象派の最盛期にあたるため、折衷的なコランの画風が評価されることは少なく、当のフランスでもほぼ忘れられた画家であるという。> 上記のように、黒田らも、スウェーデンの画家たちと類似した行動を取ることになり、グレは外光派絵画の発祥の地になった。ここに紹介するラーションの絵の右側に、建設中のエッフェル塔があり、左側に、丁髷を結った日本人がいることは、この時代の背景を示し、ジャポニズムを意識していたことを示すそうである。 ラーションが、妻と共に滞在したのは、オテル・シュヴィヨン(宿主の名前による:Chevillon)というが、1917年に閉じ、その後、宿主が次々に変わったが、1986年頃から、スウェーデン第2の都市イエテボリー(Goteborg)の高級カメラで有名なハッセルブラードの財団が、同所を購入し、Grez-sur-Loing Foundation管理による「シュヴィヨン館」となった。そこは、小さなキッチンとバスルームを備えた6つの部屋などがあり、ラーションの旧アトリエは中庭の2階で、シュヴィヨン館で最も大きな滞在用ロッジとなっているそうである。芸術家、作家、研究者などに数ヶ月単位の長期滞在を、奨学金付きで、自炊で、貸しているようである。スウェーデン、北欧諸国とフランス国籍所有者が優先するそうであるが、部屋の使用が可能な場合は入れる:(www.grez-stiftelsen.se)(英語版を添付)。 私は、1970年代に、2年間有余、イエテボリーに妻と共に留学していたので、このグレが、イエテボリーと、このように縁の深い場所と知っていたら、当然、シュヴィヨン館を見に行っていたと思うが、黒田の家を発見して、それで十分満足して、当地を後にしてしまった。しかし、メインの通りにさえ、店は一軒もなかったように見えた。静かな自然の中で、外界から遮断されて、芸術や作家活動に専心するには、大変よい場所だろうと思う。 なお、パリの大学に勤めている友人にGrez-sur-Loingを知っているか聞いてみたら、その地名は初めて聞いたと言っていた。
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