●モレ・シュル・ロワン(Moret-sur-Loing)イル・ド・フランス地方
モレ・シュル・ロワンは、アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley: 1839-1899)が、長年住んだところなので、景色もよいに違いないし、予定したおおまかな旅行コースからも外れていないので訪問した。現地に着いてまず一番に彼の家に行こうとして、インフォメーションで貰った地図を頼りに歩いたが、地図が分からず、通りがかりの人に聞いたが、地元の人でも、シスレーの家がどこにあるか分からず、また地図が分かり難く、どこなのか、よく分からず、それでも、そのご婦人は、わざわざ近くまで案内してくれた。 シスレーは、生前認められなく、ひたすら、この周辺を描き続けた。したがってシスレーの家は、モネやルノワールのような、広大な庭をもつ邸宅ではなく、ごく普通の家で、今は、関係ない人が住んでいるようで、中には入れず、家だけに関しては、わざわざ見に行くようなものではないことを知る。それでも、印象派のシスレーの名前を日本人は誰でも知っているので、この地を訪問する日本人も多く、観光案内所で購入したシスレーに関する小冊子は、仏・英・独語と並んで、日本語も書いてある。その、冒頭の一節をここに原文のまま掲示する。日本語として、少し、こなれていないのは、外国人が訳したためと思う。 <アルフレッド・シスレーの一言 1839-1899 イギリス人の両親のもと、パリで生まれ。印象派とよばれるグループ(マネ、バジール、モネ、ピサロ、ルノワールなど)を代表する画家の一人。「光の画家」ターナーと「自然の画家」コンスタブルの後継者と認められている[と]同時に、もっとも典型的な印象派の風景画家ともいえる。自分もコローの弟子であったと思っていた。またバルビゾン派の画家の影響も受けた。約1000点の作品を残し、その半分は、セーヌ・エ・マルヌ県の南にあるモレ・シュル・ロワンの辺りで描いた。サロンで落選されたこともあったし、当時の批評家に認められなく、あるいはこきおろされたこともあった。だから、貧しい暮らしをしていた。一点の絵を当時の100フラン(\5,0000)[5万円]で売ったシスレーはその作品の時価を見れば大いに驚くだろう。[死後、認められるようになってからの値段の一例] ルーヴシエンヌの庭:\5,7800,0000[5億7千800万円]、モレ・シュル・ロワン:\2,3000,0000[2億3千万円]> 但し[ ]括弧内は、ここで加えた註である。また、1 Euro=167 円で計算している。一時は、これくらい円が安かった時期がある。また、原文でも、円は日本流に4桁ごとに、「,」が入っている。 ほぼ、同時期に生まれて、同じような絵を描いていたモネと生前、どうしてこんなに差があったのだろう。モネの家の庭と、このシスレー宅と比べると、シスレーは気の毒である。中学時代の図工では、印象派絵画として、「マネ、モネ、シスレー」と習ったから、同様な、評価を受けていたものとばかり思っていた。見る人の目はいい加減なものであることの一つの証明であろうと思う。ゴッホなどはもっとひどい目にあった。 シスレーが、モレ・シュル・ロワンに住んでみて、彼の友達のモネに1880年に書いた手紙で、モレを賞賛している:<この地は、悪くない>と。 ところで、街に、労働者の、60歳停年を要求するスローガンがあったので、フランスの停年事情を調べたら、次のようで、一般の日本人とは逆に、早く停年を迎えることを希望していることを知る。<停年を雇用主は、従業員に老齢年金の満額受給資格があれば、本人が承諾することを条件に65歳から定年退職させることができる。満額受給資格がない場合、本人が勤続を希望すれば70歳まで定年退職させることができない。>とネットにあった。 景色はよく、それなりに楽しめるが、シスレーの家は見学できるようなものでなく、その絵は当地には1枚も残っていない。セーヌ川と近くで合流していることを知らず、行けずに残念であった。西洋画の父の黒田清輝が2年間有余住んでいたGrez-sur-Loingは、ロワン川の約13 km上流である。
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●プロヴァン(Provins)イル・ド・フランス地方
プロヴァンス(Provence)と間違いやすいが、プロヴァンは、イル・ド・フランス地方に属し、パリからも列車で、1時間半ぐらいで来られ、中世の都市として、世界遺産になっている。この地には、2年前の、2011年6月に、訪問したことがあり、そこの「中世の街」は、ある程度歩いて見たが、帰国して調べたら、ここには、有名なバラ園があることを知り、全く知らずに、見過ごしていたので、今回、この付近を旅行の途中通ることになったので、バラ園だけに絞って訪問した。それでも、ホテルの移動日なので、6時ごろには、ホテルに着かねばならないので、文字どおり、駆け足で周り、ともかく、1つ1つのバラの写真を妻と手分けして撮った。ここに示す写真は、ほんのわずかである(1/20以下)。 中世の時代、ヨーロッパの商人を集めた」「シャンパーニュの大市」で栄えたプロヴァンスは、13世紀末には人口1万人を超え、フランス第3の都市であり、今の姿は、当時とほとんど変わっていないそうである。 1240年、十字軍遠征に出かけたシャンパーニュ伯ティボ―4世が、中東から1株の赤いバラを持ち帰ってきた。以来、そのバラは町のシンボルとなった。13世紀末にシャンパーニュ地方を治めたランカスター伯は、伯爵家の紋章にこの赤バラを使った。15世紀英国のバラ戦争(1455-1485)は、このランカスター家と白バラの紋章のヨーク家の王位争奪の争いから名付けられた。 「プロヴァンのバラ」は学名をロサ・ガリカ(Rosa gallica:英名はGallic rose, French rose)」といい、現在のヨーロッパの祖先である。フランソワ1世やルイ14世が、この町を訪れた際に献上された。撮ってきた写真を見ても、残念ながら、このロサ・ガリカと名のある写真は撮っていなかったので、ネットにあるものを載せざるを得ない。それにしても、バラの名前は、どのように認定されるのであろうか分からない。あるいは勝手に名付けてよいのだろうか。 当地のバラの見ごろは、5月から6月にかけてだと言われているが、9月でも、ほとんどが咲いていて、美しかった。300種類あると称している。バラ園は、公的公園ではなく、入口は、普通の小さい店と同様で、探すのに2度地元の人に聞かねばならぬほどであった。バラ園からは、2011年に行ったセザールの塔などは、はっきり見えるが、セザールの塔からの写真では、まだ、このバラ園の位置は分からない。住所は後で調べて分かった:La Roseraie de Provins;11, rue des Pres, 77 160 Provins, France. 4月2日〜4月30日は週末のみ 14時〜18時
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●ソー(Sceaux)イル・ド・フランス地方
地名は、片仮名で書けば2文字だが、フランス語では6文字も要し、フランス語に慣れてなければ、大変、読み難い地名である。ソーは、パリの郊外にあり、大公園があることで有名であるが、キュリー家の所縁の地でもある。すなわち、(夫となる)ピエール・キュリーが、マリア・スクウォドフスカ(ポーランド人のマリー・キュリーの結婚前の名前)と1895年7月26日に結婚するまで住んでいた。また、1906年4月19日にピエールが馬車の事故で急死後、マリー・キュリーが2人の娘と、義父(ピエールの父)とソーの別の場所に住み始めた。そこの部分の記述を、エーヴ・キュリー著、河野万里子訳の「キュリー夫人伝」白水社(2006)から引用する。原本は、1938年に刊行され、川口篤ら4人による邦訳版も、その年に出版され、伝記としては、世界のベストセラーではなかろうか。 <彼女はソーのシュマン=ド=フェール(Chemin de fer:鉄道通り)6番地に、特にしゃれているわけではないが、気持ちのいい庭のついた家を借りた。老キュリー医師(ピエール・キュリーの父)は、その独立した翼(ウイング)におちついた。イレーヌ(長女:後のイレーヌ・ジョリオ・キュリー)は庭に、自分で好きなように耕していい一角をもらって、大喜びだった。エーヴ(次女:上記の本を出版し、102歳の生涯を閉じた;アメリカに渡って暮した夫のR.ラブイスは、1965年UNICEFがノーベル平和賞を受賞した際の事務局長であった)は子守りに見守られながら、芝生の草むらで大好きなカメをさがしたり、せまい小道で黒ネコやトラネコを追いかけたりした。> この部分の、括弧( )内は、私の註である。エーヴの夫のノーベル平和賞を勘定に入れると、キュリー家は、計6個のノーベル賞を受けていて、キュリー夫人は、2回受賞している(1903年にノーベル物理学賞「放射能の研究」夫ピエールと、「放射能の発見」のベクレルと3人で、1911年にノーベル化学賞「ラジウムおよびポロニウムの発見とラジウムの性質およびその化合物の研究」で単独で受賞)。 以前(2011年)、イル・ド・フランスを、6日間周った際に、この家を見てみたいと思って、あまり下調べもせず行こうとした。駐車して、稲葉宏爾「パリからの小さな旅」TBSブリタニカ(2002)にある地図(Sc2’)と、上記の番地を頼りに行こうとしたが、ソー公園が広大であるという認識が、その時は全くなく、行きつけなかった。何しろ、RER(Reseau express regional:パリの郊外電車)の駅が、公園の周囲に合計5つもあるくらい広大な公園なので、なるべく近くに駐車しなければ、たどり着けないことが分かって、そこに行くのはあきらめて、公園の一角だけを見て帰った。しかも、上記の地図は古く、また、今回知ったが、シュマン・ド・フェール通り6番地という住所自体が変わってしまっているので、近くに行っても探し当てられなかっただろう。 それで、今回は、観光案内所で、情報をよく聞いてから行こうとは思っていた。しかし、今回訪問したのは、日曜日(2013.9.22)で、近くの駐車場は、ほとんどがアパートに住むパリ市民が、憩に郊外に来る車で、皆、満員であった。次々に来る車は、ぐるぐる回りながら不可能と知らず、駐車スペースを探している有様で、仕方がないので、公園の外に出て、前回、知っていた道路の中央にあるスペースに停めた。しかし、停めた場所が公園のどのあたりかもよく分からないので、一旦、公園内のはっきり分かる建物(現在、博物館になっている城)に行って聞いてみた。駅に行く道を教えてくれと思わず聞いたら、どの駅かと逆に聞かれ、公園の周りには5つの駅があることを思い出した。ともかく、親切に教えてくれたので、それに従って歩いて行ったら、運よく、ソー公園の向側にある動物公園(Jardin de la menagerie)の入口の観光案内所を目にした。そこは、我々が聞いている間、他に誰も来ないくらい空いているせいもあってか、キュリーの家の場所など、大変親切に応対してくれ、コンピューターでも調べたり、手持ちのキュリー家に関する全ての資料をくれた。この情報が無かったら、今回、2軒の昔のキュリー家を訪問することは、大変、苦労したと思う。その指示に従って、RERのソー駅にたどり着く。その前の道が、案内所で教えてもらったキュリー家の道と分かって、ようやくたどりついたが、表示が、そうはっきりしていなく、ごく地味に存在しているので、すぐ近くで、また、通行人に聞いたりした。 今は、関係ない人が住んでおられるので、外から写真を撮るだけであった。「キュリー夫人伝」中にある義父の住んでいた翼(ウイング)は、多分、右側の建物で、そこは、住所としては、”bis“となっていて、ポストは別になっていた。なお、”bis”というのは、”その2”に相当し、同じ番地で、違う家の住所に使う語である。中で、母屋とはつながっていると思うが、東京の郊外の家などに比べて大変大きいと感じた。ただ、庭は、伝記の記述から想像していたより大分小さかった。住所も駅の位置も、当時とは変わっているので、この地域の開発で、駅の位置を少しずらしたり、付近の道路も、変えたのかと思った。しかし、道路の名称変更の理由は、後で、写真をよく見直してみて道路標識から分かった。Jean Mascreは、第2次世界大戦中、レジスタント運動に入り、ナチに捕まり、Mont Valerien捕虜収容所で、銃殺された。多分、この通りに住んでいたのだろう。それで、戦後、Rue Chemin de ferからRue Jean Mascreに変わったのだろう。道路標識には、<Rue Jean Mascre fusille au Mont Valerien>と書かれている(fusille:銃殺された)。 http://sceaux.blog.lemonde.fr/2012/05/16/la-maison-de-marie-curie-un-temps-oubliee-toujours-radioactive/ この家を、外から十分見た後、ピエール・キュリーが結婚前に住んでいた家に歩いて行く。地図の上方に、鉛筆で距離を入れてあるとおり、1200-1400 mぐらいあるが、地図に従って、ほぼ、迷うことなく行く。途中、目的地の近くにあるマリー・キュリーの名前を冠したリセ(高校)の前を通るので、そこも、外側から見て写真を撮る。日曜日なので、中には勿論、周りもほとんど人が通っていない。 そのすぐ横の、目的の家に着いたが、ここも目立たないので、ちょっと行き過ぎて、たまたま通っている人に聞いたら、そこですよと教えてくれた。その人が、今は、関係ない人が住んでいるから中には入れませんよと、念を押してくれた。道の角にあるので、両方の道から中の写真を撮った。 充分、見た後、途中でサンドイッチを購入して、ソー公園のベンチで食べて、車に戻った。以前には、自分の車をどこに置いたか分からなくなり、こればかりは、ポリスに聞いても分からないので、何度か泣きたい思いをしたことがあるので、2009年にヨーロッパでも使えるGPSを購入して以来、車を停めた場所を登録して、町を歩くことにしている。 大分、歩いたので、ソー公園内は、最小限しか歩かなかった。それにしても、ソー公園は、今まで、ヨーロッパで見た公園と名が付くものの中で、一番大きいような気がするし、隅々まで、手入れが行き届いている。こういう公共の公園に、博物館同様に、お金をかけられるフランスの豊かさと心の余裕には感心する。
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●サン・ドニ(Saint-Denis)イル・ド・フランス地方 サン・ドニは、パリの北方、約4 kmのところにある。パリには10回以上来ていて、滞在期間の合計は、半年を超えるが、この近くの有名な場所を訪問したことがなかった。近くに、1998年にフランスが、フットボールの世界大会で、優勝した記念すべきスタジアムのスタッド・フランス(Stade de France)もあるので、今回、訪問した。サン・ドニには、歴代の王の公式の墓があるので、厳粛な町と想像していたが、町の雰囲気は、低所得者が集まっていて、やや安全でない感じがするところで、今回の旅行中、雰囲気の悪い場所は、ここ以外になかった。パリの東北部は、低所得者や外人のアパートが多く、治安もよくないと案内書にでていた。 [サン・ドニ大寺院(St-Denis Basilique)] この付近は、カトラクスという名前の地であったが、3世紀に、イタリアから宣教団が、当時ルテチアという名のパリにやってきて、その中にサン・ドニがいた。サン・ドニは、モンマルトルの丘で、迫害にあって斬首されたが、そのまま首を抱えて歩き続けてこの地で力尽き倒れ、埋葬されたと、6世紀の聖職者によって伝えられた。以後、サン・ドニという地名になった。大聖堂は5世紀に建立され、巡礼地となる。754年にはピピン3世(在位: 751-768)がこの聖堂で、聖別されてフランク王国の国王となる。 ここがまだ修道院だった12世紀、政治的に辣腕を振い修道院長シュジェが、初期ゴチックを取り入れ大改築をした。すなわち、明るい採光と高い堂内を取り入れた。シュジェ時代の建物で残っているのは、地下納骨堂や19世紀に改修されたステンドグラスなどである。聖堂の西正面は、シュジェが造らせたが、人像円柱が失われ、19世紀の改修で、北路も取り壊されたため当初の趣は失われた。大聖堂は、王家の埋葬教会であるため革命時に破壊され、19世紀に、ヴィオレ・ル・デュクにより大規模な修復がなされた。6世紀以来の42人の王、32人の王妃、63人の王太子および王女、10人の重要人物が、眠っている。 稲葉宏爾「パリからの小さな旅」の記述を借りれば、<初期の墓は浮彫の平面的な形だけれど、ルネサンス期のルイ12世とアンヌ・ド・ブルターニュ夫妻、アンリ2世(1519-59)と王妃カトリーヌ・ド・メディシス(1519-89)などは、天蓋つきの寝台のような形の豪華な霊廟。上段にひざまずく2人の生前の姿、その下に気味悪いくらいリアルな、ほとんど丸裸の2人が寝ている>。アンリ2世の没後に王妃(メディシスはイタリア語でメディチ)が注文した像が陰惨すぎたため、1563-70年にかけて造り直させたものである。したがって、これは、まだ王妃は、生存中であったから、この像は、王妃自身は見て気に入って(少なくとも認めて)いたはずである。 このすぐ横に市立歴史美術館があり、スタッド・フランスに行った時、前を通ったはずで、そこの大きな屋根裏部屋は、パリ・コミューンの歴史資料が展示してありバリケードや虐殺の様子を伝える絵や写真の数々があるとのことである。そして、私の好きな、「さくらんぼの季節(Le temps des cerises)」の音楽が流れているとのことで、予めよく調べていれば、行ったのにと残念に思う。この歌は、1871年の国民議会軍によるパリ・コミューン連盟兵の虐殺の後に、もともと作詞したクレマンが、その悲しみを、4番に付け加えたという経緯がある。
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●スタッド・フランス(Stade de France) サン・ドニから、1998年にフランスが、サッカーのFIFAワールドカップで優勝したスタジアムのスタッド・フランスまで近い。1998年は、仕事で、南仏に行き、プロヴァンスのバンドールという町で、フランスが、準決勝で勝った時に居たので、特に若者のお祭り以上の騒ぎを見ており、日本に帰国途中に、ジダンの活躍で、ブラジルを破り優勝した。因みに、日本は、岡田武史監督の下、初出場できたが、予選リーグで、アルゼンチン(0-1)、クロアチア(0-1)、ジャマイカ(1-2;中山選手が唯一得点)に3連敗し、決勝リーグに進めなかった。私は、丁度、ワールド・カップ中、マルセーユ空港に行かねばならなかったが、エール・フランスは、予約が取れず、パリ経由ではなく、サベナ航空で、ブラッセル経由で、行ったが、往きの時点で、日本の敗退は決まっていたが、成田からのブラッセル経由、マルセーユ行きの便は、同乗した日本人の応援団でいっぱいで、しかも、大半の人が、入場券も持ってなく、ホテルも予約してないと言っていたのには、驚き、サッカー熱を、初めて肌で感じた。 2011年に、パリの南西郊外にあるフランス・ミニアチュールというフランスの主な建造物のミニチュアを展示しているところに行ったら、このスタジアムのミニもあったので、機会があったら、現物を見たいと思っていた。何しろ、主催国のフランスが、世界で最も人気のあるスポーツのフットボール(サッカー)で、優勝したところで、その思い出をフランス・ミニアチュールにまで、残しているくらいの場所である。サン・ドニから最初は車で移動するつもりでいたが、町の歩行者用の方向表示板に、スタード・フランス方向が示されているので、歩いて行く。なかなか着かないので、途中、人に聞いたら、この道を真っ直ぐ行けばよい、あそこに見えるだろうというので、はっきり確認できなかったが、歩き続ける。スタジアムがはっきり見えてきたが、まだ、少し距離がある地点で、妻は疲れたから、ここで、待つというので、1人で行く。歩道が途中で途切れていたりして、ちょっと、行くのに大変だった。近くまでは来れたが、スタジアムの中には入れない。後で調べたら、見学は出来るらしいが、時間が遅かった。周りの写真を撮って、妻の待っているところへ、引き返した。このスタジアムの上からは、4 km先のモンマルトルの丘が見えるそうで、その写真は、見たことがある。サン・ドニとスタジアムの間に、サン・ドニ運河があった。 脇にヒュンダイ(現代)の大きな建物があった。フランスは国産車があり、外国の車を排除していると思っていたが、韓国の車が、こんなにフランスに進出しているのを知らなかった。自動車業界には詳しくないので、分からないが、韓国とフランスの車会社が合併したのであろうか。
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●ヴォ―・ル・ヴィコント城(Chateau de Vaux-le-Vicomte)イル・ド・フランス
2011年の秋に、イル・ド・フランスを旅行した際に立ち寄ったが、その時は、城の屋内のみを見学して、庭は、建物内から見たのみであった。庭も美しかったので、いつか見たいと思っていたが、今回、宿泊するホテルから、近いので、この城を再度訪問した。 パリの南東約40 kmに位置した城で、ルイ14世(1638-1715)の大蔵卿を務めていたニコラ・フーケ(Nicolas Fouquet:1615.1.27-1680.3.23)の居城で、建築家ル・ヴォ―、室内装飾は、ル・ブラン、庭園はル・ノートル(Andre Le Notre:1613-1683)という当時の最高のスタッフが造り上げた。 視覚的なトリックや寒色の使用による望遠効果を用いて軸線を一点に集中させ、その終点の山の頂の城館が立つような幻想をつくりだしている。ここで確立した手法によって、17世紀のフランス式庭園の展開の方向が定まったといえる。 <1661年8月17日、王家への奉公にまたしても全財産を投げ打とうとしたフーケは、 臨幸を希望したルイ14世にヴォー・ル・ヴィコントで有名な祭典を捧げた。フーケは、ルイ14世とコルベール(莫大な蓄財を隠そうとしていた) が4ヶ月来、近々逮捕し、裁判にかけ、死刑宣告を下すつもりでいるとは思いもよらなかった。祭典の3週間後、9月5日、 国王はフーケをナントで逮捕するようダルタニァン(銃士隊長)に命じた。コルベールが捏造した裁判にもかかわらず、3年の公判の結果、 コルベールによって全員綿密に選ばれた判事の多数はフーケに国外追放の投票しかできなかった。不服従に憤慨したルイ14世は判決を加重、 フーケを終身懲役に処した。ピエモンテのピネローロ(ピニュロール)城塞牢獄で17年間、生きたまま葬られることになったのである。 1680年没。フーケの未亡人が保持したヴォー・ル・ヴィコントは1705年、 ルイ14世が戦功報償により公爵ならびに王国貴族に叙したヴィラール元帥に売られた。1875年、領地はショワゼル・プラスラン家により売却された。城は長年無人のままで廃墟と化し、 庭園は見分けもつかず領地は分散の危機にさらされていた。偶然にヴォーを訪れたアルフレッド・ソミエ氏は、このフランスの宝を保存し、17世紀にあった面影を蘇らせる決心をした。競り落として買収、建物を修復、庭園を復元し、 家具が何もない状態であった城全館を調度品で備えることに生涯を捧げた。死去した1908年、ヴォーの復興は成った。 (日本語ガイド協会員、黒澤オサム氏のネット上の記事より) ルイ14世は、部下のフーケの城より立派なものを造らねば、権威にかかわるという事情で、ヴォー・ル・ヴィコントと同じスタッフに命じて造ったのがヴェルサイユ宮殿である。したがって、ヴェルサイユ宮殿は、この城によく似ている。なお、ルイ14世が、この城に臨幸した時は、23歳で、フーケは46歳であった。王の権力には、驚くばかりである。
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