●コルチナ・ダンペッツォ(Cortina d’Ampezzo)
コルチナ・ダンペッツォと聞くと、年輩の私には、冬季オリンピック開催地として記憶に残っている。これは1956年(昭和31年)で、もう約60年前のことである。1944年にも当地での開催が決まっていたが、第2次世界大戦の為に中止になった経緯がある。この1956年の大会は、日本選手が参加した最初の冬季オリンピックで、男子ばかり10名が参加したが、猪谷千春選手(当時24歳、166 cm, 65 kg、2回目の出場、国後島出身、米ダートマス大卆)が回転で、2位(大回転は、11位)に入賞した以外は、入賞した選手はいなかった。これは、戦後11年目の日本に明るさを与えてくれた。しかも、その時、金メダルを取ったのは、トニー・ザイラー(オーストリア)で、「白銀を招くよ」という映画の主演にもなって、この映画は大ヒットした。従って、我々日本人には、この猪谷選手の入賞が無ければ、コルチナは、あまり記憶に残っていなかったのかもしれない。しかも、以後、現在に至るまで冬季オリンピックで、このもっとも華やかな種目(滑降・回転・大回転)で3位までに入賞した日本選手はいない。
ベッルーノ県の北部、アンペッツォ地方の谷(Valle)、ヴァッレ・ダンペツォに所在する、人口は5900人(2012年)である。北緯、46o32’0’’で、ボルツァーノの46o30’0’’とそう変わらない。標高は1057?3244 mで、町は1211 m(1224 mと書いてあるものもあるが、約1200 mなのであろう)であるから、高度差があり、スキーによい場所である。
歴史的には、中世以前は特筆すべきものは無いらしい。中世には神聖ローマ帝国に属し、1420年にヴェネチア共和国に征服され、1508年にはハプスブルグ家(オーストリア)に征服され、第1次大戦にイタリア王国が参戦した時に、イタリアに敗れ、イタリア領になり、アンペッツォの村の集落のコルティーナの名前を取り、コムネーム名はコルティナ・ダンペッツォとなった。
Cortinaというのは、イタリア語で「幕、遮蔽、目隠し」という意味で、後期ラテン語では「小さな中庭」という意味で、英語の「Curtain」の語源となっている。
コルチナは、ドロミテ地区の他の町と比べて垢抜けた感じのする町である。町といっても、ほとんどメインの商店街の目抜き通りと一本離れたマルコーニ通りだけで、メインの通りはコルソ・イタリアと言い、「歩行者天国」で、巾の広い、500 m程度の長さの1本で、その両側に店が並んでいる。訪問したのが、9月7日で、夏期シーズンの終わりの日曜日であり、時々小雨も降っていて、店は閉まっており、散策する人も少なかった。なお、コルソ(Corso)というのは、英語のCourseと同じ語源で、「大通り」という意味らしい。
当地を(車で)訪問するに当たり、他の大きな都市の訪問の際と同様、まず駐車場の場所を予め、調べて行った。教会のすぐ横に駐車場があることが分かったので、そこをGPSに入れて行った。コルチナは思っていたほど大きな街ではなかったが、駐車場も小さかった。シーズンを外れた日曜だったが、満車に近かった。後で、他の方の旅行記を拝見して、この街は、一方通行が多くて、車で周るのは大変苦労することを知り、そういう事情も知らずに、目的として行った駐車場に留まれてよかったと思った。
コルチナには、鉄道が通っていないので、例えば、ヴェネチアから来るには、鉄道(パドヴァで乗り換え)とバスを乗り継いで来るか、バスだけで来なければならず、3時間―3時間半かかるので、不便なのと、冬は、スキーに限られるので、そのお蔭で、極度に、俗化しないでいるのであろう。
コルチナダンペッツオと縁の深い、上記、トニー・ザイラー(Toni Sailer:1935.11.17?2009.8.24)は、当地のオリンピック入賞が契機で、日本にも強い縁ができる。彼は1956年の冬季オリンピック大会では、滑降・回転・大回転(それぞれ、downhill,
slalom, giant slalom)で金メダルを獲得した(3冠王)。以後、今日に至るまで、3冠王を達成したのは、1968年のグルノーブル大会での、フランスのジャン・クロード・キリ―だけで、日本では、ザイラーに比べてほとんど知られてないことは、ザイラーが映画俳優になったことと、当地で、同時に猪谷が入賞したことも大きいのであろう。因みに、猪谷はこの栄光で、今日もJCOの理事、日本オリンピアンズ協会でも副理事を務められている。なお、ザイラーは、オーストリア人であるが、コルチナから、オーストリア国境までの最短直線距離は、27 kmで、ボルツアーノまで(60 km)の約半分の距離である。また、コルチナなどの一帯はオーストリア(ハプスブルグ家)の領土だったこともあるので、彼にとっては、当地は、ほとんど地元なのであろう。
トニー・ザイラーは1957年の映画出演で、当時はアマチュア資格が厳しい時代で、それが問われ、1960年に予定されるスコーバレー(Squaw Valley:米国)オリンピックには出場できないことになり、1958年のシーズン終了後、22歳で引退し、本格的な俳優に転向し歌手活動も始めた。1959年の映画「Ich bin der glucklichste Mensch auf
der Welt.(直訳:私は、世界一の幸せ者だ)」は、「白銀は招くよ」と訳され、その主題歌と共に、日本でも大ヒットした。日本映画「銀嶺の王者」(1960)では、鰐淵晴子、笠智衆などと共演した。また、日本映画ではないが、「白銀に躍る」、「空から星が降ってくる」(1961)では、日本でも有名な西ドイツのフィギュア―・スケーターの(荒川静香の演技で有名になった)イナ・バウアー(Ina Bauer-Szenes: 1941.1.13- 2014.12.13;ハンガリー人のフィギュア―スケーターのセネシュと結婚で、Szenesが付く)と共演している。ザイラーは、日本で5ヶ月間連続して滞在したばかりでなく、札幌(1972)、長野(1998)の冬季オリンピックなど数回にわたり来日し、スキー場(八ヶ岳、安比、白山)の設計にも貢献し、その名前の付いたスキー場もある。
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