コモ湖(Lago di Como

 コモ湖はミラノの北側にあるイタリアの湖水地方の中で、一番有名な湖である。漢字の「人」のような形をしていて、この字が右に約45°傾いている。この字の上から下(北南にほぼ相当)までの距離は、約45 kmに及ぶ大きな湖である。一番の中心地は、「人」の左側(西側)の一番下側のコモComo)で(湖の名前と同じで紛らわしいが、町の名前である)、次は東側の下のレッコ(Lecco)である。そして、この東側に沿って、高台を無料の高速道路が走っている。我々の3泊した場所(Agriturismo)は、この「人」の更に北で、そこからコモに行くには、この高速道路を利用した。コモから、宿泊場所への帰りに西側の一般道を北上しようと試みたが、時間がかかりそうで途中で引き返して、レッコに戻り、高速道路を利用して戻った。

 19999月に、ヴォルタ(Alessandro Giuseppe Antonio Anastasio Volta:1745.2.18-1827.3.5;教科書などでは、電圧の単位をボルトと表記するのが、正式なので、以下、ボルタと表記)の電池発明200年を記念して、ミラノの南約31 kmにある大学町パヴィア(Pavia)で行われた国際電気化学会に参加した。パヴィアには、ホテルがあまりないので、ミラノのホテルから通った。その際にミラノに在住の甥の夫妻に案内してもらい「コモ湖の真珠」と呼ばれるべッラジオBellagio)の観光をしたことがある。今回は、コモを主に観光した。観光シーズンにはレッコとコモの間の道路は大変渋滞するそうであるが、シーズンを過ぎていたとは思うが、コモ付近の道路は混んでいた。

(1) コモ(Como)

コモ湖の湖畔には、戦没者慰霊塔、ボルタ博物館、市民公園などがあるが、特に行きたい場所は、自分の現役時代の仕事(化学)の理由から、ボルタ博物館であった。12時から15時までは休憩で閉まっていたので、その間は、他を周って15時に入った。大変良い場所に建てられているが、一般受けするところではないので、他には数名の見学者しかいなかった。ボルタが実際に使った実験道具のある部屋は、公開していないとのことだったので、ここに展示されているものは模造品なのであろう。電池の発明で有名であるが、いろいろ広く研究していたことが分かった。より詳しく知るために、解説書(英語版)を購入した。電池については、以前に、上記のパヴィア(Pavia)の大学の一室に展示してあるのを見たことがある。

なお、コモ湖畔の一等地に、ひっそりとヨーロッパ レジスタンス慰霊碑Momento alla Resistenza)があることを偶然見つけた(Co3’)。そこには、第2次世界大戦時に、レジスタンス運動で処刑された多くの国籍のヨーロッパ人が残した遺言を、イタリア語、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、アラビア語、そして日本語7ケ国に訳した碑がある。興味があったので写して、ここに掲載することにした。

(2) ベッラーノ(Bellano)

 ホテルを予約する段階では、スイスを通ってリヒテンシュタインに、1日、訪問することを計画し、スイス国境に近いサン・カッシアーノという所にあるAgriturismo形式のホテルを申し込んだが、その後、車を借りる段階で、日本のHertz車に協和海外社を通して聞いた話では、イタリア外に出国できないとのことであったので、コモ湖などのイタリア観光には、やや不便な場所で3泊することになってしまった。(ミラノ・マルペンサ空港のHertzの事務所では、スロベニア、クロアチアなどの旧共産圏国には行けないが、スイス、オーストリア、フランスなどは、自由に行けると言われたが、スイスの現金を用意していなかったし、リヒテンシュタインに行く下調べもしていなかったので、行くことは止めてイタリア内のみの観光にした。)

 このホテルのあるサンカシアーノは、コモ湖の東側を走る高速道路の北端より更に北に行ったところにあるので、そこから、コモ湖のコモに出るには、その東側の高速道路を南下することになり、その多くの部分はトンネル内なので、東湖岸から湖を眺めるには、適当な所から、高速道路を出なければならない。それで出てみたら近くにベッラーノ(Bellano)があった。


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Co1’

湖の北端より上側にあるChiavennaのホテルから湖の東側の高速道路を南下し、コモなどを訪問した;ほとんどトンネルの中である。

Co2’

ここで、言及するBellanoComoComacina島、Bellagio等の位置を示す。

Co3’

コモの町の主に訪問した場所;この地図は、「地球の歩き方」から借用させていただいたが、コモの一等地「3」の場所に、詳細を別添する[Hiroshima]広場があり、第2次大戦中レジスタンス運動で処刑された人々の日本語訳の展示もあるのに、場所の説明もないのは何故だろう;”Stadio Comunale”はサッカー場で、その横の道が駐車場になっていて留めたが、サッカーが始まる前には空けねばならなかった。

Co4

東岸からの景色を見るべくベッラーノ付近で高速道路(トンネル)から出て湖を見る;この付近で自分の別荘に泊まっている人が、ここを基点として、コモなどに、船で買い物や遊びに行くのではと、服装・持ち物などから想像される;丁度、船が近づいてくる。

Co5

Co6

Co7

戦没者慰霊碑:因みに、第2次大戦のイタリア人戦死者数28.0万人(230万人)、民間人死者数9.3万人(80万人;カッコ内は、日本)。

Co8

ボルタ博物館は、コモの湖の畔の一番良い場所に建っている。

Co9

入った正面。

Co10

ボルタが実験した電池;ここに、示しているものは、皆コピーで、実際に使ったものは、公開していないか、焼失してしまったようである。

Co11

1999年に学会で行ったボルタの働いていたパヴィアの大学の中庭にある銅像。

Co12

そこの壁に掲げてあるボルタの肖像画。

Co13

ボルタの用いた電池関係の実験道具(コピー);

Co14

桟橋付近の光景。

Co15

Co16

Co17

ボルタ博物館前の公園にあるヨーロッパ・レジスタンス運動モニュメント詳細は、下記

Co18

同じ公園にある機関車の展示;機関車の由来は調べていない。

Co19

近くにあるドゥオーモ。

Co20

帰りに西湖岸を通ってホテルに帰ろうとしてCarte UrioCo2’参照)まで北上したが景色はそう変わらず、先が不安で17時頃、引き返し東湖畔の高速道路を通って帰り、19時頃ホテルに帰る。


(3)  ベッラジオ(Bellagio

1999年に、甥夫妻に案内してもらい、全くコモ湖などの下調べをしていなかったが、コモから乗った船からの景色や当地の優雅な美しさは強く印象に残った。当地は、「コモ湖の真珠」と言われるだけあって、コモ湖畔で、最も美しいという定評がある。今回、当地を訪問しなかったが、当時の写真を示す。写真の日付が、199994日と5日のものがあるが、カメラの時刻を日本時間で合わせてあったので、7時間進んでいるので、4日の17時以後は、5日の日付となる。なお、この頃の日の入りは19時頃である。


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コモからベッラジオへは、30 kmを遊覧船で行く;途中、コマシナ(Comacina)島に立ち寄る。

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コマシナ島とベッラジオの間の風景。

Co24

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ベッラジオの桟橋で降りる乗客。

Co26

セルベッローニ邸は公開されていないが、その一部がホテルになっているのか、いずれにせよ、そこにレストランもあり、良い風景を眺めながら食事が取れ、庭園は公開されていて、散歩できる。

Co27

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帰り、コモの桟橋で降りる。


「付録」

ヨーロッパレジスタンス記念碑(Momento alla Resistenza Europea


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 上記、Co17は、ヨーロッパ レジスタンス運動で、捕えられ処刑された人々の最後の言葉を、展示したコモ湖の湖畔にある公園である。私は、ヨーロッパなどの旅行に際して、戦場など、戦争関係のものに、特に関心を持って、戦争犠牲者に思いを致し訪問することにしている。これは、D-day海岸や、Verdunのような戦場に限ったことではなく、東西冷戦を終わらせる米ソ首脳会談の行われたアイスランドのレイキャヴィークやマルタなども含まれる。これらの地を訪問するたびに、未来を含めても、平和な、恐らく日本歴史上最高の時代に生き長らえて来たことを感じ、運の良さに感謝している。ここにある記念碑は、多数の人の最後の言葉が書かれていて、犠牲者が何を考えて亡くなって行ったか、直接、言葉で表されているので、特に重く受け止められる。

この慰霊碑は、1983523日に、イタリア第7代大統領のSandro Pertiniによって落成された。彼は、戦争中、全体主義に対するレジスタント運動を展開して、自身も捕えられて、死刑になりかけた経歴を持っていたので、特に思いが深く、ミラノの彫刻家 Gianni Colombo(1937-1993)に依頼して、ここに慰霊碑が建った。この碑はレジスタンス運動だけの記念碑ではなく、世界の平和を祈願した公園であることは、そこに「Hiroshima」と書いた岩が入口に置かれていることや、レジスタンス運動で殺害された人々の遺言が、世界の代表的な7ケ国語で陶板に書かれていることからも想像できる。多分、ユダヤ人がほとんどなのであろう。殺害された中に日本人はいないが、7ヶ国語の中には、日本語の表記がある。日本人が訳したのでないらしいことは、漢字などに間違いがあることからも推察されるが、大略は十分伝わる。陶板によって文字の消失程度が違うのは、意図をもってあるいはいたずらで消した者がいるのであろう。

原爆の被害にあったHiroshimaが平和のシンボルとして、ここに示されているように、日本が平和国の象徴として扱われているとか、日・独・伊が、第2次世界大戦の3主要枢軸国であったのも理由であろう。19454月、戦局不利でスイス経由でスペインに亡命すべく、メラーノに向けて逃走していたムッソリーニ首相(Benito Amilcare Andrea Mussolini: 1883.7.29-1945.4.28)が、コモでパルチザンに捕えられ、コモ湖畔で銃殺されたのも、このような碑をここに建てることにした理由であろう。

1940927日に、日・独・伊で3国間条約を結び、第2次世界大戦における枢軸国の原型になたことは、今の若い世代の方は、どのくらい学校で習っているのか知らない。

3つの大きな金属板に書かれているもので、筆者が、少しは分かるドイツ語とフランス語のものを中心に訳文を示す。ポーランド語のものは、ゲシュタポの建物の中にあったものなので、一般に知られていてネットでも見られ、ドイツ人の友人が、そのことを教えてくれた。

ちょっと不思議で残念なことに、この公園がコモの一等地にありながらコモの市内地図に名称も出ていないし、「地球の歩き方」など日本の案内書にも、全く言及されていない。

Co-M3

2番目 ドイツ語:下のM8のドイツ人の言葉に相当する。訳はそこで示されている。

In der Hoffnung auf das Leben gehe ich in den Tod. Ich gehe im Glauben an ein besseres Leben fur Euch.                                               

Elli Voigt

最下段 フランス語:下のM7のフランス人の言葉に相当する。訳はそこで示されている。

       Je me considere un peu comme une feuille qui tombe de l’arbre pour faire du terreau. Le qualitedu terreau dependre de celle des feuilles. Je veux parler de la jeunesse francaise, en qui je mets tout mon espoir.

                                                                       Jacques Decour

Co-M4

番目 ポーランド語:下のM12のポーランド人の言葉に相当する。訳はそこに示されている。

    Z trudu naszego i znoju Polska powstanie by zyc !!!

2番目 ドイツ語:字がはっきり読めないので、ドイツ人の友人に、字とついでに内容について聞いたら英訳までしてくれた。文章は分かったが、書いた人の名前は、判読できないようだ。文の最初が、小文字なのは、何かの文章を途中から切り取ったのであろうか。
der Mensch, der fur sich lebt, nur sein Gluck allein sucht, der lebt nicht richtig und auch nicht glucklich. Der Mensch braucht etwas, das uber den Rahmen seines "Ich" hinausgeht, uber ihn steht. Das "Wir" ist nichts mehr als das"Ich"
                                Rudolf F????

       自分自身の為に、また自分の幸福のみを追求する人間は、正義があるとは言えず、また幸福でもない。人は、“自己”の枠を越え、自分の上に立つ何かを必要とする。“我々”は、“自分”以上のものではない。

4番目 ノルウェー語:下のM9のノルウェー人の言葉に相当する。文字はノルウェー語を習ってないので正確に書けないが、訳はそこに示されている。

Co-M5

番目 フランス語:下のM10のベルギー人の言葉に相当する。訳はそこに示されている。

 J’ai peri pour attester que l’on peutala fois aimer follement la vie et consentiraune mort necessaire.

                                                     Marguerite Bervoets

 以上の3枚の大きな金属板の他にある6枚の陶板には、処刑される前に書いた言葉が、次の7つの言語で書かれている。なお、次に掲げた6枚の順序に、特に意味はない。

1:イタリア語、2:英語、3:フランス語、4:ドイツ語、5:ロシア語、6:日本語、7:アラビア語

Co-M7

■オランダ人:理想も夢も輝かしい希望も私たちには生ぜず、残酷な現状を居現にさせ、完全に打ち砕かれてしまっているのです。(青字の部分、解読不能;一番はっきりしている次のドイツ語の訳から想像したが、大変、不完全。)Die Ideale, die Traume, die leuchtenden Hoffenungen sind in uns noch nicht entstanden, und schon sind sie durch die grausame Wirklichkeit getroffen und vollig zerstort…

■ユーゴスラビア人:犠牲のない創造はないごとく血の流れない自由などありえない。

■フランス人:私は、落葉し畑地を肥やすまでの葉みたいだと思う。土の質は葉の良し悪しによるだろう。末のすべての希望を託すフランスの若者のことを話したい。

                              ジャック デクール、

                ジャック デクールデマンシュ 作家、1942.5.30 午前

「註」日本語に訳されない点で、ちょっと興味深いのは、「フランスの若者」は女性を指していることである。jeunesseというフランス語は、性が決まっている語ではないが、ここで、定冠詞が女性の「la」を指し、francaiseという女性形形容詞を使っていることから分かる(男性形はfrancais)

Co-M8

■ハンガリア人:今もまだそれを言う:やる価値があったと!

               イストゥヴァン パタキ(ピスタ)、労働者、銃殺1944.12.24      

■ドイツ人:人生に希望を抱きつつ私は死に行く。あなた達の為により良き人生があると信じつつ私は去りゆく。          エリ フォークト、女性労働者、1944.12.8、断首

 []目下の人(複数)に対する呼称を用いているから、「君たち」と訳すべきだが、女性が言っているので、日本人の習慣としては、ここに示されているように、「あなた達」と訳す方が、適当であろう。

■ルーマニア人:まだ望みがひとつある。それは不正が、この地から消滅すること。

               フィロモン シルブ、労働者、銃殺、1944.7.17

■ソ連人:死を恐れてはいない、ただ少ししか生きなかったことと、私の祖国の為に少しのことしかできなかったことを残念に思う。

               イリナ マロゾン、コムソモール(青年共産党連盟)の少女、銃殺

Co-M9

■ブルガリア人:どうかお願いだから死にゆく僕の代わりに戦い続けてくれ。

               アーメド タタポフ アーメドロフ、絞首刑、1944.5.16

■ノルウェ―人:我々は世界に対しておだやかな気持でいる。誰にも恨みを抱いていない。。。憎しみからは少しも良いことは生まれてこない。。。こういう理由でこそ死ねるのだ。

               ボルゲン ボエ、ビジネスマネージャー、1941.12.29、銃殺

■チェコスロヴァキア人:人々よ、君たちを愛した。警戒して!

               ユリウス フュチック、ジャーナリスト、作家、断首、1943.9.8.午前

Co-M10

■ベルギー人:私は人が人生を熱愛することが出来ると共に、またひとつの余儀ない死をも受け入れることが出来るということを証明する為に死んだ。

               マルゲリータ ベルヴォーツ、教師 女流詩人、断首、1944.8.9.

■ギリシャ人:生き残る人をうらやましくはないけれど自由の世界に生きているであろう人を羨ましく思う。

               セラファン トリアンタフィロウ、弁護士、銃殺:1944.3.26

■デンマーク人:民族の存在の為には誰かが死なねばならない。

               クリスチァン ウルリク ハンセン、学生、銃殺: 1944.1.23

Co-M11

■イタリア人:この恐しい経験が何かの役に立つかというのか?完全で普遍の再教育が課されるべきだ。さもなくば、この経験は、何の役にも立ちはしない。

               ピエール アマト ペセッタ、行政官、殺害: 1944.11.15

■ルクセンブルグ人:自由の太陽を輝かせておいて。

               アドルフ クロード、断首、労働者、断首: 1942. 2.12

■全ヨーロッパのユダヤ人の名において:たとえ空が紙であり、世界中の海がインキだとしてもあなた達に僕の苦しみと僕のまわりで見るもの全てを書き描くことはできないであろう。。。みなさん、さようなら。僕は泣いている。

       

                14歳のユダヤ人若者、Pustokow(プストクフ)収容所、

Co-M12

■ポーランド人:我々の不幸と、我々の悲しみの活動から、ポーランドが再生することを願う!!

                               ゲシュタポの建物の壁から引用

「註」日本語をはじめ多くの言語が消されているのは、何か理由があるのであろうか。ドイツ語のみ比較的はっきり残っているので、そこから、日本語を想像した。

■オーストリア人:。。。自己の為にのみ生きる人、自己の為にのみ幸せを求める人は善くも幸せにも生きない。人間は自分自身より以上の何かを必要とする。“我々”とは“私”より以上のものである。

                 断首、1943128