上記、Co17は、ヨーロッパ レジスタンス運動で、捕えられ処刑された人々の最後の言葉を、展示したコモ湖の湖畔にある公園である。私は、ヨーロッパなどの旅行に際して、戦場など、戦争関係のものに、特に関心を持って、戦争犠牲者に思いを致し訪問することにしている。これは、D-day海岸や、Verdunのような戦場に限ったことではなく、東西冷戦を終わらせる米ソ首脳会談の行われたアイスランドのレイキャヴィークやマルタなども含まれる。これらの地を訪問するたびに、未来を含めても、平和な、恐らく日本歴史上最高の時代に生き長らえて来たことを感じ、運の良さに感謝している。ここにある記念碑は、多数の人の最後の言葉が書かれていて、犠牲者が何を考えて亡くなって行ったか、直接、言葉で表されているので、特に重く受け止められる。
この慰霊碑は、1983年5月23日に、イタリア第7代大統領のSandro Pertiniによって落成された。彼は、戦争中、全体主義に対するレジスタント運動を展開して、自身も捕えられて、死刑になりかけた経歴を持っていたので、特に思いが深く、ミラノの彫刻家 Gianni Colombo(1937-1993)に依頼して、ここに慰霊碑が建った。この碑はレジスタンス運動だけの記念碑ではなく、世界の平和を祈願した公園であることは、そこに「Hiroshima」と書いた岩が入口に置かれていることや、レジスタンス運動で殺害された人々の遺言が、世界の代表的な7ケ国語で陶板に書かれていることからも想像できる。多分、ユダヤ人がほとんどなのであろう。殺害された中に日本人はいないが、7ヶ国語の中には、日本語の表記がある。日本人が訳したのでないらしいことは、漢字などに間違いがあることからも推察されるが、大略は十分伝わる。陶板によって文字の消失程度が違うのは、意図をもってあるいはいたずらで消した者がいるのであろう。
原爆の被害にあったHiroshimaが平和のシンボルとして、ここに示されているように、日本が平和国の象徴として扱われているとか、日・独・伊が、第2次世界大戦の3主要枢軸国であったのも理由であろう。1945年4月、戦局不利でスイス経由でスペインに亡命すべく、メラーノに向けて逃走していたムッソリーニ首相(Benito Amilcare Andrea Mussolini:
1883.7.29-1945.4.28)が、コモでパルチザンに捕えられ、コモ湖畔で銃殺されたのも、このような碑をここに建てることにした理由であろう。
1940年9月27日に、日・独・伊で3国間条約を結び、第2次世界大戦における枢軸国の原型になたことは、今の若い世代の方は、どのくらい学校で習っているのか知らない。
3つの大きな金属板に書かれているもので、筆者が、少しは分かるドイツ語とフランス語のものを中心に訳文を示す。ポーランド語のものは、ゲシュタポの建物の中にあったものなので、一般に知られていてネットでも見られ、ドイツ人の友人が、そのことを教えてくれた。
ちょっと不思議で残念なことに、この公園がコモの一等地にありながらコモの市内地図に名称も出ていないし、「地球の歩き方」など日本の案内書にも、全く言及されていない。
◎Co-M3
2番目 ドイツ語:下のM8のドイツ人の言葉に相当する。訳はそこで示されている。
In der Hoffnung auf das Leben gehe ich in den Tod. Ich gehe im
Glauben an ein besseres Leben fur Euch.
Elli Voigt
最下段 フランス語:下のM7のフランス人の言葉に相当する。訳はそこで示されている。
Je me considere un peu comme une feuille qui tombe de
l’arbre pour faire du terreau. Le qualitedu terreau dependre de celle des feuilles. Je veux parler de la
jeunesse francaise,
en qui je mets tout mon espoir.
Jacques
Decour
◎Co-M4
1番目 ポーランド語:下のM12のポーランド人の言葉に相当する。訳はそこに示されている。
Z trudu naszego i znoju Polska powstanie by zyc !!!
2番目 ドイツ語:字がはっきり読めないので、ドイツ人の友人に、字とついでに内容について聞いたら英訳までしてくれた。文章は分かったが、書いた人の名前は、判読できないようだ。文の最初が、小文字なのは、何かの文章を途中から切り取ったのであろうか。
der Mensch, der fur sich
lebt, nur sein Gluck allein sucht, der lebt nicht richtig und auch nicht
glucklich. Der Mensch braucht etwas, das uber den Rahmen seines "Ich"
hinausgeht, uber ihn steht. Das "Wir" ist nichts mehr als das"Ich"
Rudolf F????
自分自身の為に、また自分の幸福のみを追求する人間は、正義があるとは言えず、また幸福でもない。人は、“自己”の枠を越え、自分の上に立つ何かを必要とする。“我々”は、“自分”以上のものではない。
4番目 ノルウェー語:下のM9のノルウェー人の言葉に相当する。文字はノルウェー語を習ってないので正確に書けないが、訳はそこに示されている。
◎Co-M5
1番目 フランス語:下のM10のベルギー人の言葉に相当する。訳はそこに示されている。
J’ai peri pour attester que l’on peutala fois aimer follement la vie et
consentiraune
mort necessaire.
Marguerite Bervoets
以上の3枚の大きな金属板の他にある6枚の陶板には、処刑される前に書いた言葉が、次の7つの言語で書かれている。なお、次に掲げた6枚の順序に、特に意味はない。
1:イタリア語、2:英語、3:フランス語、4:ドイツ語、5:ロシア語、6:日本語、7:アラビア語
□Co-M7
■オランダ人:理想も夢も輝かしい希望も私たちには生ぜず、残酷な現状を居現にさせ、完全に打ち砕かれてしまっているのです。(青字の部分、解読不能;一番はっきりしている次のドイツ語の訳から想像したが、大変、不完全。)Die Ideale, die Traume, die leuchtenden
Hoffenungen sind in uns noch nicht entstanden, und schon sind sie durch die
grausame Wirklichkeit getroffen und vollig zerstort…
■ユーゴスラビア人:犠牲のない創造はないごとく血の流れない自由などありえない。
■フランス人:私は、落葉し畑地を肥やすまでの葉みたいだと思う。土の質は葉の良し悪しによるだろう。末のすべての希望を託すフランスの若者のことを話したい。
ジャック デクール、
ジャック デクールデマンシュ 作家、1942.5.30 午前
「註」日本語に訳されない点で、ちょっと興味深いのは、「フランスの若者」は女性を指していることである。jeunesseというフランス語は、性が決まっている語ではないが、ここで、定冠詞が女性の「la」を指し、francaiseという女性形形容詞を使っていることから分かる(男性形はfrancais)。
□Co-M8
■ハンガリア人:今もまだそれを言う:やる価値があったと!
イストゥヴァン パタキ(ピスタ)、労働者、銃殺1944.12.24
■ドイツ人:人生に希望を抱きつつ私は死に行く。あなた達の為により良き人生があると信じつつ私は去りゆく。 エリ フォークト、女性労働者、1944.12.8、断首
[註]目下の人(複数)に対する呼称を用いているから、「君たち」と訳すべきだが、女性が言っているので、日本人の習慣としては、ここに示されているように、「あなた達」と訳す方が、適当であろう。
■ルーマニア人:まだ望みがひとつある。それは不正が、この地から消滅すること。
フィロモン シルブ、労働者、銃殺、1944.7.17
■ソ連人:死を恐れてはいない、ただ少ししか生きなかったことと、私の祖国の為に少しのことしかできなかったことを残念に思う。
イリナ マロゾン、コムソモール(青年共産党連盟)の少女、銃殺
□Co-M9
■ブルガリア人:どうかお願いだから死にゆく僕の代わりに戦い続けてくれ。
アーメド タタポフ アーメドロフ、絞首刑、1944.5.16
■ノルウェ―人:我々は世界に対しておだやかな気持でいる。誰にも恨みを抱いていない。。。憎しみからは少しも良いことは生まれてこない。。。こういう理由でこそ死ねるのだ。
ボルゲン ボエ、ビジネスマネージャー、1941.12.29、銃殺
■チェコスロヴァキア人:人々よ、君たちを愛した。警戒して!
ユリウス フュチック、ジャーナリスト、作家、断首、1943.9.8.午前
□Co-M10
■ベルギー人:私は人が人生を熱愛することが出来ると共に、またひとつの余儀ない死をも受け入れることが出来るということを証明する為に死んだ。
マルゲリータ ベルヴォーツ、教師 兼 女流詩人、断首、1944.8.9.
■ギリシャ人:生き残る人をうらやましくはないけれど自由の世界に生きているであろう人を羨ましく思う。
セラファン トリアンタフィロウ、弁護士、銃殺:1944.3.26
■デンマーク人:民族の存在の為には誰かが死なねばならない。
クリスチァン ウルリク ハンセン、学生、銃殺: 1944.1.23
□Co-M11
■イタリア人:この恐しい経験が何かの役に立つかというのか?完全で普遍の再教育が課されるべきだ。さもなくば、この経験は、何の役にも立ちはしない。
ピエール アマト ペセッタ、行政官、殺害:
1944.11.15
■ルクセンブルグ人:自由の太陽を輝かせておいて。
アドルフ クロード、断首、労働者、断首: 1942.
2.12
■全ヨーロッパのユダヤ人の名において:たとえ空が紙であり、世界中の海がインキだとしてもあなた達に僕の苦しみと僕のまわりで見るもの全てを書き描くことはできないであろう。。。みなさん、さようなら。僕は泣いている。
14歳のユダヤ人若者、Pustokow(プストクフ)収容所、
□Co-M12
■ポーランド人:我々の不幸と、我々の悲しみの活動から、ポーランドが再生することを願う!!
ゲシュタポの建物の壁から引用
「註」日本語をはじめ多くの言語が消されているのは、何か理由があるのであろうか。ドイツ語のみ比較的はっきり残っているので、そこから、日本語を想像した。
■オーストリア人:。。。自己の為にのみ生きる人、自己の為にのみ幸せを求める人は善くも幸せにも生きない。人間は自分自身より以上の何かを必要とする。“我々”とは“私”より以上のものである。
断首、1943年1月28日
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