●クレスピ・ダッダ(Crespi d’Adda) 世界遺産
今回の旅行予定先のドロミテと湖水地方の範囲内に、世界遺産の当地があることが分かり、調べて行ってみた。場所は、ミラノの東の約35 km(道路の距離)にあり、ヴェローナやヴェニスに向かう高速道路から、ごく近い。
1869年にクリストフォロ・ベーニョ・クレスピ(Cristoforo Benigno Crespi)により労働者のための理想郷としてアッダ川とブレンボ川が合流する三角地帯に、一大、紡績工場が建設された。丁度、明治維新(明治元年:1868年)の頃である。アッダ川の上流に発電所も建設した。そして、最も近代的な、病院、学校、劇場、洗濯屋、教会なども、建てられた。かくて、イタリアで最初の公共電燈の点灯した村となった。1889年には、イギリスに滞在し学んだその息子、シルビオ(Silvio)は、労働者にとって理想的な場所とし、以後50年間にわたって、争議も起こらなかった。このシルビオ・べニーニョ・クレスピは第一次世界大戦後のベルサイユ条約締結会議では、イタリアの全権公使としても活躍した。従業員の子供のための学校のクレスピ村学校では、教科書、ペン、子供の上っ張り、給食、先生の給料まで、全て工場から支給されていた。20世紀初頭には、シャワーや更衣室完備の温水プールもあった。労働者を搾取の対象としていた時代に、経営者が、労働者目線で、経営していたのも、大変珍しい。しかし、1929年にファッシストの台頭と共に、この全村を、STI(Italian textile enterprise)に売却せざるを得なくなった。最盛期には、3200人の労働者がいたが、このような変遷で、600人程度になった。そして、2004年に操業を終えた。
ここは、世界遺産登録基準における以下の規準が満たされているとみなされ1995年に選ばれた。
(4)人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
(5)ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。以上の情報は、主に、英語版のウイキペディアから得た。
しかし、行ってみて大変驚いた。現状は、建物類は、そのまま残っている一方、ほとんどゴーストタウン化して、観光客は全く見当たらなかった。2013年に、Percassiグループが、ここを買収し、そのグループの本社にするとのことである。ミラノからも近く、交通には便利だが、世界遺産の制限下で、有効に使用ができるのであろうか。イタリア企業に知識がないが、ここで、Percassiグループが活動を始めたらどうなのであろうか。
今回は、詳しい下調べをして行かなかったので、見学者がほとんどいないとか、中が見られないとは知らなかった。見学できる時間は、決まっているが、限られている。ここは観光施設ではなく、世界遺産は、その保護が主目的であることを改めて認識した。いずれにせよ、外からも、その素晴らしさは判り、訪問して良かったと思う。次の、URLに、ここの極めてユニークな点が、日本語で、いろいろ紹介されていることを、この旅行記を書く段階で知った:http://www.villaggiocrespi.it/jp/
日本では、世界遺産になると観光客が多く来て活性化し、実際、世界遺産に登録することの一番の目的は、それにより観光利益を得ることのようも見えるが、ヨーロッパのように、世界遺産が多いところは、集客能力の増大とは、あまり関係が無いのが興味深い。例えば、今まで訪問した世界遺産で、ほとんど観光客が来ていないところに次のような場所が思い浮かぶ:○今回訪問したイタリアのカモニカ渓谷、○フランスの、Neuf ?Brisach、Abbey de Fontenay、Arc-et-Senans、○スペインのLas Medulas、○スウェーデンのTanumの岩絵などがある。
Arc-et-Senans(アルケ・スナン王立製塩所)で思い出したが、ここも、製塩工場を、労働者の住居と一体化した理想の集落として建設しようとした点で、Crespi d’Addaと似ている。
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