「広辞苑はなぜ生まれたか」を訪ねて、京都へ
                  野口 正二郎(当社)
       

来年、2018年1月12日に「広辞苑」改訂新版の第7版がでるという。それに先立ち、初版の編者・
新村出(しんむらいずる)先生の孫の新村恭(しんむらやすし)氏が祖父の足跡をたどる本を上梓。
「広辞苑はなぜ生まれたか 新村出の生きた軌跡」が、京都の(世界思想社)から出版された。
新村恭氏は、(株)岩波書店の編集者、人間文化研究機構の「HUMAN」編集主任を経て、
今年の春から、京都の新村出記念財団・重山文庫(ちょうざんぶんこ)の管理を任されておられる。
ある小さな研究会でご一緒させていただいており、その会の有志で重山文庫を訪問することになった。

12月の第一日曜日、新幹線・京都駅の八条東口を出ると、新村恭氏が出迎えてくださった。総勢6人。
地下鉄で、(鞍馬口駅)下車。重山文庫の最寄駅であって、鞍馬山、鞍馬寺はずっと北に位置する。
昼食後、近くの御霊神社を参拝。平安時代からの古い神社で新村出先生の歌碑がある。
このあたりは、静かな住宅地で、高級マンションの一室が販売中であった。東京都心よりお安い感じがした。
烏丸通りを横切り、5分ほど歩いて行くと、重山文庫がある。新村出先生の旧宅ということで、住宅地にあり
閑静な所である。家は、明治維新で活躍した木戸孝允(桂小五郎)の旧宅を移築したものである。

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【写真説明】
1・2)御霊神社と歌碑 3〜15)重山文庫にて 16)夕食会

なぜ木戸孝允(桂小五郎)の旧宅がというと、父の関口隆吉の説明が必要と思われる。
江戸時代、天保7年(1836年)江戸に幕臣・関口隆船の次男として生まれる。
祖父は、静岡県御前崎の池宮神社宮司・佐倉豊麿である。17才で父の後を継ぎ、
慶応3年(1867年)大政奉還の際には、側近の幕臣として大変な功績を残された。
その後も江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜と共に現在の静岡県菊川市月岡に居を移し、元幕臣のために
牧の原台地の開墾と大茶園造成を始めた。明治4年(1871年)、明治政府の要請により、
第二代山形県県令、第二代山口県県令を務め、政府の要職を経て、第三代静岡県県令に着任する。
明治19年(1986年)地方長官公布により、初代静岡県知事に任命された。明治22年(1989年)4月
自身が敷設に尽力した東海道線の列車事故にあい、それが元で53才の生涯を閉じた。
明治維新の際、その後も長州藩出身の政治家と深い交流を持っていたのである。
その縁が子孫に繋がり、大正12年に木戸家より鴨川西畔にあった邸宅を譲り受け、この地に移築された。

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【写真説明】
17〜23)大河内山荘庭園 24〜27)竹林の道

新村出先生は、明治9年(1876年)第二代山口県県令・関口隆吉の次男として、山口市に生まれる。
その後静岡に転居。父の死後6ヶ月、明治22年12月、徳川慶喜の側近、新村猛雄の養子となる。
東京帝国大学卒業の際に、成績優秀にて、恩賜の銀時計を受けた。同大学の助手時代に、当時では
珍しい恋愛結婚で荒川豊子と結婚。明治40年(32才)京都帝国大学に移り、京都が終の棲家となる。
若くして渡欧、ドイツ、フランス、英国等に留学し、言語学の研究を行う。帰国後に教授となり、また
付属の図書館長も長く務めることになった。交流する知識人も多し。昭和11年退官後も種々の役職に着く。
昭和30年5月(80才)、次男・猛、多くの関係者の協力を得て、ついに岩波書店より「広辞苑」を刊行する。
翌年11月、文化勲章を受章、娘が同行。また京都市名誉市民も受ける。昭和32年、内助の功で支えた
妻・豊子が先立つ。昭和42年8月、数え年92才で永眠する。高潔な学者人生に幕を閉じた。

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【写真説明】
28)野宮神社 29〜34)東映太秦映画村

孫の恭氏の案内で、重山文庫に入ると、玄関の向こうに書斎が見える。重山とは、出先生の雅号であり、
名前の由来である山形県、山口県の縁から父が付けた二つの山から、ある故旧の茶道人より授けられた。
奥の洋間で概略をお聞きする。2001年6月19日NHKの(プロジェクトX〜挑戦者達〜)で放送された
「父と息子 執念燃ゆ 大辞典」のビデオも拝見した。新村出・猛に焦点を当てた内容であった。
6版までの広辞苑が沢山本棚に並ぶ室では、編集作業に使われた用紙を見せていただいた。訂正が入ったり、
ひとつひとつの言葉をA4の用紙に丁寧にまとめている。戦中に出来上がった原稿が、大戦の際に焼失したり、
戦後になると軍隊用語が無くなり、外来語が増えてきた。気の遠くなるような仕事で、戦後10年以上もかかり
完成となった。編集中は、編者である新村家が全ての費用を賄うことになっており、金銭的にも大変なことだ。
和室の居間には、勝海舟の書「美意延年」が鴨居にかけられており、歴史を感じさせる。
その意味は、簡単に記すと、(心楽しければ長生きする)とのこと。
女優の高峰秀子のポスター・写真がある。昭和28年、映画「雁」見てからファンとなった、その交流がほほえましい。
洋間に戻り、古く珍しい写真を拝見する。昔の大家族の写真、徳川慶喜関係のものもある。
著名人との文通の手紙も多く残されている。京都は戦災に合わなかったので、貴重な資料が残されていた。
何十年ものなが〜い仕事の軌跡の一端を見させていただいた。
恭氏は、その管理や整理を続けることとなる。
是非、本書「広辞苑はなぜ生まれたか」225ページをお読みいただき、素晴らしい功績と、素敵な人生を
感じ取っていただければ幸いである。

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【写真説明】
35)ホテルの夕食 36・37)嵐山 38・39)法輪寺 40・41)つけもの屋さん 

京都の観光地は、12月初旬、紅葉が終わりに近い頃であったが、多くの観光客、特に外国人で賑わっていた。
同行者が嵯峨野・嵐山に近い会員制のホテルを取ってくれたので、2泊とも良い環境のなかで過ごすことができた。
会員制ということで落ち着いており、食事も良く、そして費用も安く嬉しいことであった。
観光は近い所で、嵯峨野の【大河内山荘】に向かった。タクシーのドライバーが、「竹林の道を通りますか」
と聞くので、はいと答えた。午前9時半のやや早い時間帯で、竹林の道は混んでいなかったが、狭い道に別の
タクシーが対向車で進入してきて、立ち往生した。観光客はどんどん増えてくる。対向車がバックしてくれて、
何とか大河内山荘に着いた。大河内山荘庭園は、小倉山の南面の斜面にあり、回遊式借景庭園とのこと。
木々の間を散策、上にでると、保津川対岸の大悲閣(千光寺)が見える。いくつかの東屋があり、京都市内や
比叡山を望むことができる。ひと回りしたところで、抹茶とお菓子の接待を受け、一休みする。時代劇の名優、
大河内伝次郎が昭和6年(34才)から、64才(逝去)まで、こつこつと造りあげた素晴らしい庭園である。
大河内山荘から、野宮神社までの小道は、見事な竹林の道であった。多くの外国人観光客で賑わっていた。
【野宮神社】は、縁結び、子宝安産、学問の神様として、人気の神社であった。
天龍寺では、入り口に紅葉は終わり頃と言う意味の、表示がしてあった。親切なことと思って、入らなかったが、
今考えてみると混雑防止の為であったかもしれない。
タクシーで、【東映太秦映画村】に行き、いくつものアトラクションを楽しむことができた。
帰る日は、嵐山に行き、渡月橋を渡り、法輪寺まで足をのばした。いつ行っても京都の散策は楽しいものである。


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