●ポール・マルリー(Port Marly

ポール・マルリーには、「モンテ・クリスト伯」、「三銃士」、「鉄仮面」の作者のアレクサンドル
・デュマ
()(1802.7.24-1870.12.5)の屋敷がある。デュマの私生児も、小説「椿姫」などを書いたので、
父は
Alexandre Dumas pere(父), 息子は、Alexandre Dumas fils(息子)と言って区別する。
(以下、デュマと言えば、デュマ
()
のことである。)

前年(2010)にマルセーユの沖にある「モンテ・クリスト伯」あるいは「岩窟王」の舞台になった
「イフ島」を訪問していて、デュマには、親しみがあったのと、宿泊するホテルから比較的近かった
ので、他の場所の帰りに
2度立ち寄った。2
度行ったのは、最初は、遅くて建物が閉まっていたから
である。

丘の上の、デュマの広大な庭園の森の中に、「イフ城(Chateau d’If)」と「モンテ・クリスト城」
と自ら名づけた2つの建物があり、前者は外側から眺められ、後者は中に入って見学できる。

デュマ()の父は、白人()と黒人()の混血であり、デュマは、勇猛さから、「黒い悪魔」と
あだ名された。デュマの父親の、その黒人の母親は、奴隷で、農家の切り盛りをしていたので
du+mas(農家))デュマと呼ばれ、それで、父親が、デュマを名乗っていた。デュマはモンテ
・クリスト伯と三銃士の成功で、大金持ちになり、豪華な館を建て「モンテ・クリスト城」と名づけた。
そして、パリから来る客で、毎日、お祭り騒ぎで、邸内には
3匹の馬、14匹の犬、サル、キジ、
コンドルまで飼っていた。料理も得意で「カンガルーのステーキ」や、「料理大辞典」という料理本も
書いている。女性にも男性にも手が早く、系図には、妻以外に
5人の女性がいる。浪費家のあまり贅沢
と劇場経営の失敗で、館の完成後
2年後の1848年には破綻して、館は売られ、家具は売却され、
動物は動物園に行き、デュマは債権者に追われる身となった。その後いろいろな人の手に渡ったが、
1970
年に「デュマの友の会」ができ、近隣の団体により購入され、修復され、今日、モンテ・クリスト城
は、一般公開されている。

2002年、生誕200周年を記念して、パリのパンテオンに祀られた。作家としては、ヴォルテール、
ルソー、ユゴー、ゾラ、マルローに続いて
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人目であった。

当地には、シスレーの「ポール・マルリーの洪水」に描かれている家があることは知っていたが、
見に行かなかった。


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写真説明

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セーヌ川の畔に車を留め、人や車の通らない道を上っていくと、この門に出る。奥に見えるのが、モンテクリスト城であるが、ここが入口でなく、書いてあるように、見学者の入口は、右手に1 kmも上がって行かねばならない。着いたのは、6時半で、見学時間は終わっていたが、この門は、押したら開いたので、無人の庭を勝手に見させてもらう。

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イフ城から見た、モンテクリスト城で、翌日、再訪して、中を見学することになる。

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イフ城。翌日も、見学は外からだけであり、小さいが、趣はモンテクリスト城よりある。デュマが、すぐ横にあるモンテクリスト城の喧噪を逃れて過ごす「離れ」であった。入口には、彼の作品名が、書かれてあり、また、犬の彫像も見える。

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庭などの見学者の入場口にある駐車場。モンテクリスト城に近い門(Pm1)を入口にしなくて、遠い場所を入口にしているのは、駐車場のスペースのためもあろう。

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庭の中にある入場口。実質モンテクリスト城内の見学口。周りの景色とは、調和しない仮設小屋。

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モンテクリスト城内の見学で見た、デュマの彫像(シャピュ(H.Chapu)作)。中の説明では、デュマは、代筆者がいたと書いてあった。随分、大胆に認めているのに驚く。
室内部の写真は、例えば

http://blogs.yahoo.co.jp/m_miyoko94/40551801.html

http://www.museesdefrance.org/museum/serialize/montalembert.htmlで見られる。

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近くの歩道橋から見た自動車道。A13は有料道路で、ヴェルサイユまで、約5 kmN13は、国道。

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車を駐車した付近のセーヌ川。左が下流。パリ市内を流れてきたためか、よどみには、多くのごみが浮いていて、残念であった。