●フィレンツェ(Firenze)世界遺産
今回の旅行で一番期待した行き先は、やはりFirenzeで、その郊外の10 km弱離れた場所
(Olmo)に7泊し、Firenzeの街には、正味4日間通った。町への行き方は、フィエーゾレ
(Fiesole)の近くに、駐車できる格好の場所を見つけ、そこからバス(7番)で、終点の
町の中心のサン・マルコ広場に出て、そこから歩いて町を廻った。ホテルから、町までは、
30分程度で行けた。ミケランジェロ広場とカッシーニの朝市には、駐車場があるので、車で
行った。この町には、見るべきところが、多くあり、短期間に見切れないが、時間にも限り
があるので、行く前に、行く場所の予定立てて行ったが、予定の7−8割程度しか見られな
かった。主な訪問先について、以下に、各場所ごとに示す。今回、トスカーナ地方などを
約2週間かけて廻ったが、フィレンツェの見所は、その他の見所に匹敵するくらい多くあった。
治安も、ローマやナポリなどに比べて格段に良いように感じた。
フィレンツェについては、多くの案内書があるので、説明するまでもないが、ここで、
必見の場所としては、(1)ドゥオーモ、(2)ウフィツィ美術館、(3)アカデミア
美術館 と旅行前に考え、両美術館の入場券は、webで申し込んだ。このうち、アカデミアは、期待はずれであった。実際、アカデミアで、一番価値のあるものは、ミケランジェロ作
「ダヴィデ」であるが、館内は、撮影禁止のため、写真を撮ることはできないが、
シニョーレ広場に、よくできたコピーがあるので、それを撮影することができる。
市内の地図は、持参の案内書などに出ているので必要ないと思ったが、念のために、
12,500分の1の地図を空港で購入した。一回、市内で、迷って中心部から外れてしまった
ときと、カッシーネの露店市場を探す際などに役立った。
フィレンツェの案内書としては、別途、参考書の欄に掲げた「地球の歩き方・フィレンツェ
とトスカーナ」で、ほぼ十分であったが、現地でも、0F2に示す案内書を購入した。現地では、
あまり活用できなかったが、帰国してから見て、もっと活用すべきであったと思った。
◎写真説明
0F1
|
フィレンツェの観光案内地図。訪問した場所を中心に示す。ここに振った番号は任意であるが、その番号に合わせて、写真のファイルに番号付けした。(全ての番号に写真用ファイルがあるわけではない。)
|
0F2
|
現地で購入したフィレンツェの簡易案内書の表・裏表紙。いろいろな言語のものがある中で、日本語版もある。表紙の大きさ:19.0 cm × 11.7 cm、重量:220 g、120 p、5.5 Euro。
|
0F3
|
0F2の案内書の目次に示された見所。実際には、この情報を、必ずしも生かしきれなかったが、眺めのよい場所を示してあるのが、特に役立つ。
|
フィレンツェは、メディチ家のトスカーナ大公としての支配下で、繁栄したので、
7代に渡るメディチ家の大公の在位期間などを示す。
トスカーナ大公としてのメディチ家 (www.weblio.jp/ontology/トスカーナ大公_1 参照)
名前
|
生存
|
在位期間
|
主な出来事、業績
|
コジモ1世
|
1519-1574
|
1569-1574
|
初代トスカーナ大公、フィレンツェの整備、ルネサンスの文化開花(ウフィツィ美術館、ヴァザーリの回廊)。
|
フランチェスコ1世
|
1541-1587
|
1574-1587
|
妻存命中から愛人ジョヴァンナを側に置き、妻急死後、愛人と結婚。多くのスキャンダルを起こし、大公の威信低下。
|
フェルディナンド1世
|
1549-1609
|
1587-1609
|
フランス王アンリ2世の孫娘を妃に迎え、姪をフランス王アンリ4世に嫁がせ、フランスとの結びつきを強めスペインから外交的自立を高める。
経済を活性化し、文芸・芸術を振興。
|
コジモ2世
|
1590-1621
|
1609-1621
|
温厚、教養豊かで、ガリレオのパトロンになる。文化芸術を振興するが、病弱で君主の資質に欠乏、商工業が停滞し、公国は徐々に衰退。
|
フェルディナンド2世
|
1610-1670
|
1621-1670
|
温和で、友好的であるが君主としては、あまり有能ではなく、貧富の差が拡大、科学アカデミーを組織、ピッティ宮の改装、美術・工芸品の収集。
|
コジモ3世
|
1642-1723
|
1670-1723
|
キリスト教信仰に力を入れ、反ユダヤ的な政策や、異端の取り締まりを強化したが、政治にはあまり興味を示さない。在位53年の長きにわたり、公国の力は衰え、2度の飢饉に見舞われる。
|
ジャン・ガストーネ
|
1671-1737
|
1723-1737
|
酒びたりの生活、財政や経済は好転せず、1729年後自堕落な生活に戻り、ピッティ宮に引きこもり大半をベッドで過ごした。後継者無しで亡くなる。
|
ジャン・ガストーネ(Gian Gastone de Medici)が1737年に死去すると、ガストーネには世継ぎが
いなかったので、メディチ家によるフィレンツェの統治は終わった。ジャン・ガストーネの姉アンナ
・マリーア・ルイーザ(Anna
Maria Luisa: 1667-1743)がメディチ家最後の当主となる。彼女は、
メディチ家所蔵美術作品を、まとめてフィレンツェ市に寄付したので、今日に至るまで、その文化財が、
分散せずに当市に残ることになった。
|