ラヴェンナ(Ravenna世界遺産

ローマ支配化で大いに繁栄したが、395年にテオドシウス帝が死去すると、ローマは東西に
分れ、アルカディウス帝が東を、ホノリウス帝が西を統治した。
402年に、帝国の首都を
ミラノからラヴェンナに移し、当地は、西ローマ帝国の支配下になったが、
476年に東ゴート
(ゲルマン)の支配下に、540年に東ローマ(ビザンチン)帝国によって攻略され、東ローマ
帝国の政府所在地となった。

392年にキリスト教を国教として採用したテオドシウス帝の娘のガッラ・プラチ―ディア
(Galla Pracidia)
の霊廟がある。(プラキーディアと記述している書物があるが、イタリア語では
-ci-
は、「チ」と発音するようである。) 彼女は、ホノリウス帝の異母妹で、息子ヴァレン
ティニアヌス
IIIを西ローマの皇帝にするなど権力を振るいラヴェンナの礎を造った。
その後、
1509年まで、異民族やヴェネチアの支配下に置かれた。当地の名所のビザンチン
芸術
や、モザイク画は、
5-6世紀のものが多く、トスカーナ地方の、フィレンツェなどの
ルネサンス期の芸術とは、全く、趣を異にする

現在は、エミリア・ロマーニャ州ラヴェンナ県の県都で、人口、約15.5万人で、アドリア海
とは運河でつながっている。

画像をクリックすると大きくなります
Ra0-1 Ra0-2 Ra1 Ra2 Ra3
Ra4 Ra5 Ra6 Ra7 Ra8
Ra9
Ra10 Ra11 Ra12 Ra13
Ra14
Ra15
Ra16
Ra17
Ra18


◎写真説明

Ra0-1

入場券は、これから廻る5箇所の名所の共通券として販売する様式になっている。券に穴が空いているところは、訪問した場所を示す。この図は、ガッラ・プラチーディア霊廟の「よき羊飼いの図」である。

Ra0-2

上記の入場券に示してあるwww.ravennamosaict.itから取った地図を基に描いた地図。車で行ったので、中央駅には行っていない。サン・ヴィターレ教会から見る。地図に示した番号順に廻ったが、途中、ダンテの墓は、気づかず見逃してしまった。

Ra1

車で行ったので、中央駅近くからではなく、駐車場から近い国立博物館などのある場所から、見学を始めた。この建物で、共通券を購入し、国立博物館から見学したが、この博物館は、自分には、他の同類のものと同様に見え、特に興味は湧かなかった。

Ra2

国立博物館と同じ敷地にあるサン・ヴィターレ教会の外側。他の、教会と概観が大分違い、また中側とは違って大変地味である。547年にマクシミアヌ大司教によって献納された八角形をしたビザンチン様式の教会建築の傑作だそうである。サン・ヴィターレは、2世紀初めのローマの兵士で、ラヴェンナで殉教し、後に守護聖人になった。

Ra3

サン・ヴィターレ教会内陣のモザイク。正面上側のモザイクを撮ったが、後で調べると左側下側のものが、「皇帝ユスティニアスと侍臣たち」で、有名で、さらに写真、右側のほとんど写っていないものが、「テオドラ妃と侍女たち」として更に有名である。

Ra4

Ra3と同じ教会のもの。IEREMIAというのは、日本語では「エレミヤ」、「イルメヤ」と言われ、前7世紀のイスラエルの預言者で、旧約聖書の「エレミア書」はその予言集である。

Ra5

ガッラ・プラチ―ディアの霊廟。上記のサン・ヴィターレ教会と同じ敷地内にあり、この教会より古い5世紀の半ば(425-430)に建つ。路地を隔てたサンタ・クローチェ教会の聖ロレンツオを祭る礼拝堂として建てられたもので廟ではないという記述もある。予約が必要と書いてある説明書もあったが、予約せずに入れた。観光客もまばらであった。

Ra6

その内部のモザイク。

Ra7

上記霊廟を出て、1 kmぐらい離れたサンタポリナーレ・ヌオヴォ教会に向う途中、この町の主要な広場のポポロ広場を通る。

Ra8

サンタポリナーレ・ヌオヴォ教会。テオドリック王により490年頃にアリウス派の聖堂として建設され、540年に東ローマ帝国に再編入され、ユスティニアス1世は、聖マルティネス聖堂に改変した。11世紀に38 mの円筒形鐘楼が建設される。ポルティコ(柱廊式玄関)は、16世紀に建設され、第一次世界大戦中、砲撃で破壊され、後に再建された。

Ra9

Ra10

同教会内のモザイク。最上段はキリスト奇跡と受難の26場面が、その下の高窓の部分には旧約聖書の預言者と12使徒と推察される16人の聖人像があり、その下部には26人の殉教者の参列が描かれている。聖堂の装飾はよく残っているが、たびたび、高潮などの被害に遭ったので、16世紀には、床面が1.2 m以上上げられた。海岸から、直線で8 km弱離れているが、湿地に囲まれ、浸水することが、たびたびあった。

Ra11

上図の反対側の壁のモザイクで、3段目は、聖女の行列が描かれ、東方3賢人も、見られる。

Ra12

そこを出て、次の目的地のネオニアーノ洗礼堂に向う途中にすし屋があった。多分、ここは、日本人の経営ではないと思うが、欧米などの観光地には、すし屋が、多くなった。常連には「裏巻き寿司」などの意味が通じているのかと思う。

Ra13

上記の霊廟から700-800 m街を歩いたところにレオニアーノ洗礼堂がある。建立は5世紀最初であり、最初は浴場として使われたと伝えられているが、その後、洗礼堂に改築された。5世紀末に内部をモザイクで装飾させたネオーネ司教に因んで名づけられた。

Ra14

これは、5世紀半ばにビザンチン帝国内の聖堂の丸天井に描かれたモザイク画である。中央にイエス・キリスト、左側にヨハネ、右側はイエスの衣を持つ人がいる。ヨルダン川でキリストが洗礼をうけている図である。周囲には12使途がいる。ビザンチン美術では、平面的に空間が表現されたからイエスの下半身は、水中から眺めたように表現されているそうである。ルネサンス以後に描かれた洗礼図と比べて平面的である。

Ra15

Ra16

このモザイクは20世紀の初めに作り直されたもので、アラビア風のアカンサスの葉模様と旧約聖書の予言者たちが描かれている。

Ra17

今回の旅行で、海を一度も見ていないので、ラヴェンナのホテルに滞在中に、アドリア海の海岸を上記とは別の日に、ボローニャの帰りに立ち寄る。午後6時半を過ぎていたので、海水浴場には、すでに、多くの人はいなかった。

Ra18

この海水浴場は、ダンテ・ビーチといわれる。ダンテは、政争に巻き込まれてフィレンツェを40歳の頃追われ、放浪の末、ラヴェンナの領主に迎えられ、当地で「神曲」を書いた。それで、町にはダンテの廟堂があるが、うっかり見過ごしてしまった。