その4
コルシカ写真館
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■ホテル

月日

(2009)

泊数

場所

ホテル名

値段(1泊)

備考

5.28()

Port Pollo

Les Eucalyptus

75 Euro(朝食無)

(1)

5.29()-30()

Ajaccio

Hotel Fesch

13400(100 Euro)

(2)

5.31()-6.3()

4

Aleria

L’Empereur

60 Euro

(3)

6.4()-6()

3

Corte

Hotel du Nord

91 Euro

(4)

6.7()-9()

3

Zonza

Hameau de Cavanello

67 Euro

(5)

6.10()-11()

2

Port Pollo

Les Eucalyptus

71 Euro(朝食無)

(1)


コルシカのホテルは、アジャクシオなどを除いて、予約に際して、中間の会社が入らず、直接ホテルに申し込みが
でき、大体は、2日以内に誠実に返事をくれた。
ホテルは、7−8月は大変混雑していて、値段も高いので、この季節を選んで旅行した。予約はネットで4月
上旬に始めたが、1晩だけ、満員のところがあったが、あとは問題なく予約できた。総じて、どこも、大変親切に、
迅速に対応してくれ、問題はなかった。普通は、申し込みと同時に全額引き落とされるが、ここは、Ajaccioの
ホテル以外は、予約金もとらないところも多かった。田舎の良さなのであろう。メールはフランス語で、申し込んだ
ので、英語でも通じるかどうかは分からない。予約して行ったととはいえ、泊まった全てのホテルで、パスポートの
提示を求められたことや、紙に、氏名、住所、年齢などの記入を求められることは全くなかった。コルシカ島の
治安の良いこと、他人を信用する風習が残っていることを示しているのであろう。連泊したときは、滞在中の
掃除、タオル交換は不必要と申し出て、喜ばれたと思う。
(1)Ajaccioの空港に近い郊外としてこの地を選んだ。ホテルは、バルコニーがあり、海の眺めもよく、庭にも
花が咲き乱れていた。ここで、最初2日間泊まるべく申し込んだら、2日目はセミナーか何かで、すでに満員で
あった。帰国時も、ここに2日間泊まった。主人(?)は、メールの往復の段階から大変親切であった。朝食は
8 Euroプラスすればよいが、取らなかった。(ho1の正面のバルコニーのある建物。)
(2)上記ホテルが満員なので、GTAのホテルを申し込む。場所は繁華街の中心にあり、その意味では、
観光に便利で、フロントのおばさんが感じが悪い以外は良かったが、駐車場が近くになく、10分以上、
荷物を運ばねばならなかった。また一旦出たら、再度、空いているところを見つけるのは困難なので丸1日間
は、車で外出できなかった。(ho2のHOTELと書いた5階建ての建物。)
(3)南北を結ぶ平坦な国道に面しているので、北端から南端までの基点と成るので、この地を選んだ。
レストランも評判が良いらしく、毎晩、団体を含めて多くの人がレストランだけに来ていた。田舎のホテルという
感じで、従業員も親切で、居心地のよいところだった。幹線道路に面しているが夜は車も通らず静かであった。
(ho3、21時半ごろに幹線道路から撮ったもの。)部屋の外にはブーゲンビリアが咲き乱れていたし、プールも
あった(et11)。
(4)山岳地方や、Calviなどの北西の観光地に行くために申し込んだが、町の中心道路に面していて、
しかも、鉄道もあるので人が多く、もう少し、田舎に泊まるべきだったと思った。(ho4のHOTEL du NORDの
字の見えるところ。)
(5) 農場を経営する傍ら、B&Bを経営している。山の中の人里離れた場所のムードは大変良かった。
屋外で、山と農場を見ながら、朝食をのんびり取るムードは最高であった。余ったパンを馬にやると喜んで食べた。
このB&Bは、予約金も取らなかったが、現金のみの支払いなので、遠くのポルト・ベッキオまで現金を下ろしに
行かねばならないと思ったが、3 kmほどの所にある郵便局のATMでcitibankのカードで現金化できることを
教えてもらう。手数料も取られず、機械の操作も難しいハワイより、ずっと簡単であった。B&Bは、ご主人1人で
面倒をみてくれたが大変親切な方であった。部屋に冷蔵庫が付いていたのはここだけだった。写真(ho5)は、
B&Bの部屋の窓からの風景で、下に小さなプールがあり、農場の先に、森林、遠方に、バベーラの峰が見える。



■車
Hertzのアジャクシオ空港で、プジョー(308?:1.4Lクラス)の5ドアハッチバック、マニュアル車(po3)を借り、
同じ場所で返却した。車は、15日間で丸1日乗らない日があって、計1567.3 km走った。燃料は軽油(gazole)
仕様車である。軽油は、1.04-1.08 Euro/Lで、燃費は、15-16 km/Lであった。ガソリンスタンドの写真(et17)
は、アジャクシオの中心からやや離れたナポレオン通りのもので、どこもセルフサービスである。車の申し込みは
協和海外旅行社を通じて、Hertzで申し込む。(税・保険などを含めて802.55 Euro-->10,9374円であった。)
 航空運賃は、成田―パリ経由―アジャクシオ往復が、168,000円であった。


■列車
列車は1880年代から1890年代にかけて建設されたそうで、12ある橋の1つは、エッフェルが設計したそうで、
風景のよい鉄道としては世界中でも最上位に属するそうである。アジャクシオとバスチアを結び、途中
ポント・レッチアとカルビを結んでいる。バスチアとポルト・ベッキオを結ぶ線は、1943年にドイツの爆撃で廃止に
追い込まれた。
列車には一度も乗ってなく、また走っているところを見たこともないが、興味があったので、駅(アジャクシオ(tr1-3)、
コルト(tr4-5)、イル・ルース(tr6))には立ち寄ってみた。


■食べ物・草花など
フランス領であり、かってはイタリアであったので、この両文化の影響で、大変美味しい。人々は肉料理を好む
ようだが、自分は、原則、海産物しか食べないから、料理全体を批評するする資格はない。ニースは比較的
近く、サラダニソワ―ズ(salade nicoise)(et3)はどこでも食べられる。季節が早いためか、牡蠣や、一番好きな
生の「fruit de mer」(海のフルーツ:貝や、えび、かになどの盛り合わせ)ではなく、熱を通したもので、生のもの
以外は初めてであった(et4)。好物のビューロー(Bulot;バイ貝)(et5)は、何故か日本では食べたことがない。
この写真のムール貝(et6)の量は、少ない方で、フランスでは鍋1杯ぐらいの量がでてくる。左奥の2つの筒は、
塩、胡椒入れで、ボタンを押すと電気で皿を照らしながら、これらが出てくる。野外で夕食を食べることが多い
フランスでは電気が点くのは役立つのであろう。名称(Moulin sel et poivre electrique)まで聞いて販売して
いる店を教えてもらったが、時間が無くて購入できなかった。日本でも販売していることを帰国後知る。海辺の
レストランで夕食や昼食を取ることもあったが、例えば、ポルトポーロのレストランでの夕食などは、良い眺めだった
(et7)。
レストランの値段は、Euroが130円台と一時より、大分安くなったので、日本と同じくらいであろう。
縁の無い高級料理店は、ほとんど無いように思った。
ビールは地元産のものが2種類あり(Pietra(et8)とSerena(et9)美味い。歩いて行けないところ(Zonza)では、
勿論アルコールは取らなかった。ワインは、地元産のものが多くあるが、ビンで購入したCap Corseを宿で飲んだ
以外は、レストランでは取らなかった。フランスでは邪道であり、1人で、レストランに入るのも邪道なのだが、
ルールを知らない日本人ということで許してもらう。
どこへ行っても、スーパーでは、日本に無い果物を試すのが好きなので、今回は、ローズ・バナナ(Banane rose)
を買ってみた(et10)。買って、2日ほど経って、端を切って食べたら、まるで竹のようで、これは、煮て食べるものか
と思い失敗したと思った。高価なので捨てるのももったいないと思い1週間近く置いて試したら、密度が高くねっとり
として、普通のバナナとは比較にならないほど美味しかった。昔のバナナの味を思い出した。後で、ネットで調べた
が、ほとんど出ていないので、産地はどこなのかも分からない。
花は、いっぱいあるが、アレリアのホテルの、窓辺のブーゲンビリアが見事であった(et11)。野草の花に関しては、
一番目立つのは、赤いひなげしで、5月の終わりではあったが、与謝野晶子の「ああ皐月 フランスの野は
火の色す、君もコクリコ 我もコクリコ」を思い出させてくれる(ボニファシオ)(et12)。フランスでも、ひなげしは、
雑草なのだが、日本の薄ピンク色と違って真っ赤なのが美しい。ひなげしよりも、むしろ多く海岸に咲いている
黄色い花の群生があるが名前が分からない(et13)。ランタナもいっぱい咲いているが日本のよりも色が鮮やか
である(この2つの花は、バスティアの砂州)(et14)。地中海のあちこちで、9月に実を食べたことのあるウチワ
サボテンの花を初めて見る(et15)。
旅行に行く際には、湯沸かし器と、魔法瓶を持っていき(et16)、朝、ティーバッグを中に垂らして持参する。
夕方まで熱く保てる。


■簡単な歴史
第一次ポエニ戦争のBC259年に、ここにいたイオニア人はローマに征服される。AC476年にバンダル族に
征服される。その後ビザンティン帝国とランゴバルド王国の1部となり、850-1034年の間、ムーア人に占拠
される。11世紀に教皇庁(ピサ)の支配となる。ピサのライバルのジェノヴァは1132年に、一部を分割させ、
1312年には全支配権を得る。18世紀に入ると、ジェノヴァに対する反乱が次々に起こる。リーダーとして、
ガッフォーリやパスカル・パオリ(co1の銅像の人)が登場する。パオリは、1739年から、1755年まで、ナポリに
父と亡命する。しかし、帰国時に、パオリが国を挙げて歓迎されたわけではなく、激しい権力闘争が行われる。
当時の首府は山中のコルトであった。    1768年に、ジェノヴァは、コルシカ統治に手に焼いてフランスに
事実上売り渡した。それで、パオリは、フランスに戦線布告する。実に、ナポレオンはその翌年1769年に
アジャクシオに生まれる。生まれる1年前にフランスになったばかりの祖国に対して、ナポレオンがどう思っていた
かは、まだ、調べていない。結局パオリは、フランス軍との戦いに敗れてイギリスに亡命する。それで、フランス
革命とナポレオン戦争の間に、どさくさに紛れて2度にわたってイギリス領となった。地図(map2)の端にあるのは、
「ムーア人の頭」と呼ばれるコルシカの独立運動に使用された旗でその起源や意味については諸説あるが、
正確には答えられないと、田之倉の本に書いてある。第2次世界大戦中はドイツ・イタリアに占領されたが、
1943年に解放される。1958年にはアルジェリアのフランス系植民者(コロン)の暴動を支持する右翼反乱分子
に占拠される。その解決のためド・ゴールが首相、次いで大統領として政権に復帰した。コルシカの自治を
求める運動は70年代に活発化し、82年にコルシカ地域議会の設置を認めた。現在は、独立を求める声は、
非常に少ないとどこかで読んだ。歴史に関しては、文献(3)、(5)、(6)に、詳しいことが出ている。


おわりに
コルシカは、海・山、そして多少の川、湖まで備えている。また鉄道さえある。そして場所柄、古代からの
文明と歴史を持っている。逆に言えば、侵略と戦争の連続であったことが、鷹巣村や見張り塔の多さにも
表れ、住民の暮らしは平穏ではなかったことが分かる。そして、18世紀からは、ジェノヴァからの独立戦争と、
それにも拘らず、フランスに売られてしまい、その経緯からして、ナポレオンの出生地でもあるに拘らず、
フランス本国からは、軽蔑され、大きな戦争には駆り出され、楽園と思って多数が移住したサイゴンからは、
結局追い出されることになる。立派な墓や、戦争犠牲者の碑があちこちにあるのもこのことの表れなのであろうか。
現在でも、農業と観光にしか主要な産業はないようであるが、人々は素朴で親切であり、1,2の大都市を
除いて、治安も大変良いようである。住民の数より多い、主にフランスからの観光客は、そういう歴史を知って
いるのかどうか知らないが、のんびり楽しんでいる。住民・観光客を含めて、ほとんど白人ばかりで、旅行中目に
した他民族は日本人2人、黒人2人のみであった。気づいてみると異様で、こういう経験は、先年行ったケベック
以来であり、フランス語の影響もあるのであろうか。
 家内が怪我で、自分1人の旅行で、不便であった。現地滞在16日間であちこち見ることができたが、
見残した所も多い。7,8月は大変混雑するそうで、5月の終わりから6月初旬はベストシーズンであった。