●ランブイエ城(Chateau de Rambouillet)

ランプイエは、パリの南西約50 kmにあり、シャルトルを訪問した後、同日に訪問した。
ここの城は、
1374年に建設が始まり、現在の敷地は約200ヘクタールである。他の城と違い、
国の所有物で、フランス大統領が管轄している。見学中に、女性の説明員に、サルコジ大統領も、
しばしば来られるのかと聞いたら、彼は、ベルサイユが好きで、ここが嫌いらしく、
1
度も来たことが
ないと言っていた。

ここで、1975年に当事のジュスカール・デスタン大統領が、第一回サミットを開いた。当時、日本が、
先進
6ヶ国(G6: 米、英、独、仏、伊、日; 76年にカナダが加わりG7になる)に選ばれたのに驚き
1971815日まで、1 $=360
円であったし、その頃、円はヨーロッパ通貨に直接交換も
出来なかったし、当時は、まだ、日本は「成り上がり国」であった)、また、この城の名前を初めて知り、
以来、いつかは行ってみたいと思っていた。

  ランブイエの森には、獲物が多かったので、狩の宿として城がつくられ、多くの国王が、ここを訪れ、
ルネサンス期の
16世紀には、フランソワ1(1515-47)が、ここで亡くなった。1783年にルイ16世の
個人所有物となった。王妃マリー・アントワネットは、ここを訪問し、「こんな、ゴシックのヒキガエル
の館(
crapaudiereに、どうして住むことができましょうか!」と言ったとされる。ルイ16世は、
彼女が気に入るように、王妃の館(
Laiterie de la Reine
)を建てる様に密かに命じた。

ナポレオン1世は、ここを愛し、セント・へレナ島に流される前日もここに泊まった(1815)

  車を、1つの入口近くに留めて、中に入るが(Ra1入城と書いてある付近)、広大なので、どこに、
主な城があるのかよく分からず、2度ほど、人に聞いて、ようやくたどり着く。

見学は、案内人付きで、最終回の5時からというので、入口のライブラリーで、絵はがきを購入したり
して
20分ぐらい待つ。入場料は、後で見に行く場所も含めて7 Euroだった。見学者は、他には、中年の
フランス人女性
1
人しかいなかった。説明はフランス語なので、よくは分からなかったが、中は、
ヴェルサイユなどに見られるものと似たものだった。ナポレオンの鉛の浴槽が有名で、遠方からだが、
よく見えた。説明人は銅製と言っていたが、銅なら青く錆びているが、鉛色だった。2階は、ホテルの
ような鍵の掛かった部屋が並んでいて、ここに、サミットのときは、主要参加者が泊まったと言っていた。
日本からは、三木武夫首相が参加した。田中角栄首相が金銭スキャンダルで失脚し、椎名裁定で、一番、
金銭的に問題が少ない三木氏が選ばれていた。しかし、この時のサミット以来、国力の一番低い日本の
総理は写真撮影などで、中曽根総理以外は、いつも隅の位置が、定位置であった。

ここを見学後、次の「マリーアントワネットの館(la Laiterie de la Reine)」まで、1 kmぐらい
歩いていくように言われ、渡された
Ra0
に従って行く。一緒に見学した夫人は、そこには参加しなかった
ので我々だけになった。そこでは、電話で連絡を受けた老婦人が迎えてくれて、更に、次の別の場所まで
連れて行き、説明を受けた。

見学後、家内を付近に待たせて、7時に、車が城内に入れなくなるというので2 kmぐらい必死で
歩いて城外においてあった車を取ってきた。

なお、ランブイエは、城しか訪問しなかったが、この町には、「ランボリトラン」という4000点に
及ぶミニアチュアの汽車を有する博物館もあるそうである。

 

画像をクリックすると大きくなります
Ra0 Ra1 Ra2 Ra3 Ra4
Ra5 Ra6 Ra7 Ra8 Ra9
Ra10 Ra11 Ra12 Ra13 Ra14
Ra15 Ra16 Ra17 Ra18 Ra19
Ra20 Ra21 Ra22

写真説明

Ra0

もらった城内案内図(アントワネットの館への道)に、後で書き込んだもの。活字体は、どの国でも同じだが、筆記体は、国々で特徴がある。例えば、ここにある“CHAUMIERE”のMは、フランス人独特の書き方で、慣れないと日本人には、解読が難しい。

Ra1

Ra2

Ra3

城の庭に入ってから(無料)、城に近づくまでの景色。自分がどこの位置にいるのか、目当ての城がどこにあるのか分からず、聞く人も、これらの写真で分かるように少なく、城の位置が分かるまで、10分以上かかる。

Ra4

この建物が見えてきたので、ここが、目当ての城かと思ったが、これではなかった。結局この城は、何に使われているのか聞き漏らした。

Ra5

城の正面からの眺めに相当(Ra11)。

Ra6

Ra7

目当ての城の近くの池の前に1対の大理石の彫刻がある。向って右のRa6は、男同士であり、不思議に思い、後でネットで調べた。2つは、同じ作者の作品かと思ったが、Ra6は、1865年のJulien-Edouard Connyという人の「兄弟愛(La charite fraternelle)」というもので、作者も有名ではなく、結局、何を描こうとしているのか分からなかった。Ra7は、Jean Escoula1989年の作で、「プロクリ()の死(La Mort de Procris)」で、ギリシャ神話に基づいたもので、こちらの方は有名らしい。このギリシャ神話も、中身が2−3通りあるらしいが、Procrisとその夫Cephalusは、お互い、相手を疑い、あるとき、隠れてつけていた(その経緯は単純ではないが略す)妻Procisを狩人の夫Cephalusが誤って殺してしまった場面らしい。自分の想像では、この場所が王の狩場だったので、Escoulaが、前にあった「兄弟愛」の対として、また狩場に縁のあるこのギリシャ神話の題材から、この彫刻を制作したものと思う。両作品とも、11月から3月までは、寒さで大理石が傷まないように保護カバーをかけるので見られないそうである。この付近でも、冬期は、そんなに寒いのかと思う。

Ra8

ランブイエ城の門。

Ra9

ランブイエ城。歴史的サミットの舞台になったにしては、意外に地味で小さく見える。

Ra10

ナポレオン1世の鉛のバスタブの部屋。実際には椅子なしで、入口から小さい鉛のタブが見える。写真が撮れないので、絵はがきの図。

Ra11

見学中に窓から見えるRa6-7の彫像。

Ra12

Laterieというのは、17,18世紀に流行した宮殿庭園内にある貴婦人(この場合はマリー・アントワネット)が憩うための農家風の建物をいう。案内の年配のご婦人が待っていてくれた。午後68分であった。英語で説明してくれる。

Ra13

館の正面。

Ra14

この部屋の、セーヴル陶器などの飾り物は、フランス革命(1789)の際、すべて略奪されたそうである。テーブル上の本には、以前にあった品物の図がある。

Ra15

扉を開けたところにある美しい彫像。ポスター(Ra8)の図柄にもなっている。ルイ16世が、マリー・アントワネットのために、1787年にPierre Julienに作らせた「ヤギといるニンフのアマルテ(la nymph Amalthee avec une chevre)」。

Ra16

更に、少し離れた「貝ガラの館(Chaumiere aux Coquillages)」(場所はRa0参照)まで案内してくれる。地味なので、気づかれずに、革命時に略奪に遭わなかったらしい。

Ra17

貝ガラの装飾。(ネットから借用)。これは、蛙の模様であろうか。マリー・アントワネットは、ランブイエを、「蛙の館」と言って嫌っていたそうなので、ここから名づけたのであろうか。

Ra18

部屋の湿気を取るために壁につけてある牛の骨との説明がある。効果があるらしい。

Ra19

城内では、乗馬をしている人もいる。中に乗馬クラブがあるのだろうか。

Ra20

車を取りに行く際、外部の道路から見えた宮殿。

Ra21

Ra20を近くに寄って見える風景であるが、実際には、行っていない。絵はがきの図。

Ra22

街の車を留めた付近には、日本料理店があった。