ボッティチェリ作「ヴィーナス誕生」(184.5×285.5 cm2)(1484年頃)は、おそらく、当美術館で最も有名なものであろう。高校の歴史の教科書などに載っていたルネッサンスを代表する絵を現実に見られるのは不思議な気持ちがした。同時代の詩人アンジェロ・ポリツィアーノがホメロスからヒントを得て書いた「Stanze:アフロディーテ賛歌」からインスピレーションを得てこの絵を描いたという説がある。例えば、都留文科大学の電子紀要に木名瀬 紀子氏が、詩とこの絵画との関係を述べられている。なお、stanzaはイタリア語で、詩の行の一定の数をいうらしいので、それと関係ある語なのだろう。
http://www.tsuru.ac.jp/~library/kiyo/openpdf/057029.pdf
そのStanzeの99の同氏の訳を紹介すると、
「嵐の荒れ狂うエーゲ海の中、テティヌの膝の中へと
その生殖の茎が迎え入れられ
運命のおもむくまま異なる方へと向きを変えながら
白き泡に包まれて波間を彷徨するが見える
そして中から優雅で歓喜溢れた身振りでもって誕生したのは
人間らしき面差しを持たぬ一人の若き娘
好色なゼフェロスたちによって岸辺へと吹き寄せられ
一枚の貝ガラに乗り方向を変えつつ散策している
天はこの光景を楽しむかにみえる」
この後、100節と101節が続くが、略す。いずれにせよ、この詩とこの絵には密接な関係があることが分かる。この女性の表情が、明るくなく、いまひとつはっきりしないのが、以前から不思議だと思っていたが、この詩で「人間らしい面差しを持たぬ」と既定されていたことを知り、それほどひどくはないと思うが、ある程度、納得がいった。
たまたま、戦後約5年後(1950)に出版された兒島喜久雄、安井曾太郎、矢崎美盛編集「少年美術館1」(岩波書店;当時220円)を、中学1年生ぐらいの筆者がお年玉としてもらって、長らく忘れていたものが出てきた。そこには、17枚の名画の紹介があり、そのうち2枚がカラーで、この絵は白黒で掲載されている。その中に、以下のような解説が書いてある。まだ、食料も十分には行渡らない時代に、こんな立派な本を出す岩波書店は流石と思うし、当時は、まだ、漢字も、旧漢字を使っていたし、教育の水準が、今よりずっと高かったことが分って驚いた。また、少年・少女としないのは、当時でも、女性の地位が、やや低かったことが伺われる。当然、その時代に、これらの名画を、一生のうちに実際見られるなどとは、考えてもいなかったろう。原文のまま、ここに再掲させていただく。
「さざ波の打ちよせる岸邊に、大きな帆立貝の上に長い黄金(こがね)の髪をそよ風になびかせて裸體の女神が軽やかに立っています。右の方から花模様もある美しい服をきた人が、これも花の模様のあるきれいな眞赤なマントをきせかけるように差し出しています。左には翼のある男女が女神に息を吹きかけています。どこからともなく美しい花が降って来ます。空は青く晴れ、海も緑色に澄んでいます。これはギリシア神話にある愛と美の女神ヴィーナス(ギリシア語ではアフロディテ)の誕生の盾ナす。ヴィーナスは海のあわから生まれ、西風(ゼフィール)に送られ、イスキアの海岸に流れつき、そこで季節の女神のホライに迎えられたといわれています。サンドロ ボティチェルリの本當の名はアレッサンドロ フィリペーピといい、ボティチェルリというのは肥っていた兄さんにつけられた樽(たる)という意味のあだなで、兄さんを「大樽」弟を「小樽」とよんだのです。ボティチェルリはフラ フィリッポ リッピという人の弟子ですが、キリスト教のか、歴史畫ばかりだった當時としては、もっとも早くギリシア神話を畫にした人です。このヴィーナスの形はそのころボティチェルリの保護者であったメディチ家にあった名高い古代の彫刻「メディチのヴィーナス」のかたちをそのままうつした」ものですが、顔つきも身體の線もすっかりボティチェルリのものになっています。あごやひじの尖っているところ、髪の毛、身體のまわりの 線、着物のしわでも、指先でも、くっきりした線でかかれているのがこの時代の特色で、またとくにボティチェルリの特徴でもあるのです。後に出てくるラファエルロやコルレッジオの盾ニ比べてみるといっそうその特色がわかると同時に、盾フかき方のうつりかわりがよくわかるでしょう。ルネサンスの盾ヘその以前の中世のと比べて、人間性が強調され?―何の束縛(そくばく)もうけない人間そのものの姿、?ち何も着ないおおらかな裸體がえがかれるようになりました。裸體畫は決して、恥ずかしいものでなく、もちろん、いやしいものでもありません。それどころか一番美しいものの一つなのです。この盾ヘ油盾ナはなくテンペラ盾ナす。その頃、テンペラはおもに木の板にかいたのですが、これは布にかかれてあります。テンペラはおもに木の板にかいたのですが、これは布にかかれてあります。テンペラは暑をねるのに、油盾フように油を使わずに、卵の白味やアラビアゴムでねったものです。」
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