アッシジ(Assisi世界遺産

12世紀に聖フランチェスコ1181/82-1226)の生まれた町として知られる。スバズィオ
山の中腹に位置している。人口は、約
25 000人で、聖フランチェスコ聖堂で有名である。
1997
926日、夜中の233分に地震が起こり、上部聖堂にいた報道関係者30名を含む
被害調査に当っていた人のうち、修道士
2名と文化庁の技師2名が、1142分の余震で下敷き
になり死亡した。天井のフレスコ画は、
5000 m2 のうち200 m2が崩れ落ち、30万個の破片と
なり、そのうちつなぎ合わせられたのは
20万個ほどで、修復に9年間の歳月を要した。
修復できなかった部分は、そのまま、隣接する博物館に保存されているそうであるようやく、
この部分の公開ができたのが、
200645日であった。(ウイキペディアによる)。

アッシジ生まれの聖フランチェスコがいなかったら、ダンテも、ジョットも、
もしかしたら、ルネサンスもなかったかもしれない。」とある本の中で述べている。
フランチェスコは、裕福な、毛織物の卸問屋の家庭に生まれ、あるときまでは、町のチンピラ
だったといわれる。
1202年に、ペルージャとの戦いに敗れ、捕虜になり、釈放後に熱病に
かかり、初めて、神の声を聞いた。以後、遊び仲間の誘いも拒んで、サン・ダミアーノ聖堂
にこもって祈り続けていると、眼前の十字架像から「私の家を建て直しなさい」というご託宣
を聞く。これを聞いて、その目的のために、父親の留守中に家までも売り払う(
1207年)。

 なお、米国のサン・フランシスコは、彼の名前に由来する。

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◎写真説明

As0

アッシジの略図。As1で正面にサン・ルフィーノ聖堂のドームが見えるから、赤矢印の方向から、市街に近づいた。

As1

アッシジに近づくと、麦畑の向こうに写真のような町が現れる(1327分)。ピエンツァのホテルからモンテプルチャーノを通ってGPS任せで来た。ほとんど車は通っていなかったから、主要な道路ではないだろう。街と周りの畑とが、はっきり分かれているのが、面白いが、トスカーナの都市は、こういうところが多い。

一番高いところに見えるのが、大要塞(ロッカ・マッジョーレ)、左端が、サン・フランチェスコ聖堂、道の行き先方向に見えるドーム(クーポラ)と塔は、サン・ルフィーノ大聖堂、その右に、横に細長く見える建物がサンタ・キアーラ教会である。大要塞は、ローマ時代に造られ、その後、自由都市として独立した際に壊され、14世紀半ばに立て直されたもので、教皇庁の代官が常駐したことは後で知ったが、結局この場所には行かなかった。

As2

As3

サン・フランチェスコ大聖堂は、向って左にある、細長い建物であった。

As4

サン・フランチェスコ大聖堂。建設は、死後2年後の1228年から1239年までかかる。下部聖堂はロマネスク・ゴシック様式、上部は、ゴシック様式。

As5

下部大聖堂。

As6

遺品展示室の入口の聖フランチェスコ。チマブエの作品の一部のコピー。日本語の表示もあるところをみると、日本人の訪問者も多いのであろう。

As7-1

上部大聖堂の腰壁部分に、ジョット聖フランチェスコの生涯の主な出来事を28枚のフレスコ画に描いたものが掲げられてある。高いところにあり、色も薄く、予め調べていかなければ、見逃してしまうくらいであった。壁画の大きさは、縦:2.7 m、横:2.3 m(入口の2面のみは2 m)である。当聖堂で、最高の見ものとされている。「聖フランチェスコの生涯」の28枚の最初の絵は、「精薄者から尊敬を受ける聖フランチェスコ」という題で、「町の広場を歩く聖人の前に、脳の弱い人が聖人の未来の偉大さを暗示するかのように、自分の服を敷きました。これは高貴な人に対する仕方で、聖人がどんな人からも尊敬されることを示します。」と当地で購入した日本語の案内書に説明されている。ちょっと面白いのは、As7-1As7-2とも同じ絵を示しているが、色調も違うし、7-1では、ミルバ神殿の上側に黒い影があるのに、7-2では消されている。7-17-2は、それぞれ震災前、震災後の修復されたものなのであろうか。7-1に見られる黒幕のようなものは、誰かがいたずらして描いていたものを、それを修復した際に、元にあったものに戻したことが考えられるがよく分からない。これらの壁画については、石鍋真澄 著「アッシジの聖堂壁画よ、よみがえれ」小学館(2000.6.1)などが参考になった。

As7-2

As8

サン・ルフィーノ大聖堂11世紀の古い聖堂の上に1228年に新たに建てられたロマネスク様式の建物で、ウンブリア州の最高傑作の1つである。左側の鐘楼は、以前の教会のもので、この教会よりも、100年前に建てられている。入口の両側には教会を守る獅子がいる。アッシジは、フランチェスカが有名であり、イタリアの守護聖人であるが、意外なことに、アッシジの守護聖人は、聖ルフィーノであり、アッシジの最初の司教と言われ、238年に殉教したと言われる。聖フランチェスコも、聖キアーラもここで洗礼を受けた。

As9

地下には、以前の教会の跡などが見える。

As10

聖ジョルジョ礼拝堂にあるキリスト像で、12世紀の後半の作である。フランチェスコが、聖ダミアーノ聖堂にこもって祈りを続けていた頃、このキリストが「フランチェスコよ、私の家を建て直しなさい」という声を聞いたという像で、元は、聖ダミアーノ聖堂にあったものである。この磔刑図のようにキリストが苦しんでいない場面を「勝利のキリスト」といい、苦しんでいるのを「受難のキリスト」といい、このような「勝利のキリスト」は少ないそうである。

As11

サンタ・キアーラ広場からの(南南西方向の)ウンブリアの田園の眺めがよい。5 km先のサンタ・マリア・デリ・アンジェリカ教会も見える。

As12

同じ場所から西北西の市街をみたもの。右の塔は、ミネルヴァ神殿横のポポロの塔(ポポロはイタリア語で「民衆」)、その左のドームと塔は、ヌオーヴァ教会、左端の塔はサンタ・マリア・マッジョーレ教会である。

As13

アッシジの名門貴族の娘のキアーラは、フランチェスコの熱心な信者となり、勧められて女子修道会を始め、サン・ダミアーノ修道院で活動を始める。1253年に他界すると彼女のために1257-65年にこの教会が建設された。クラリッセ女子修道会を創立し、サン・ダミアーノ修道院で活動を始めた。キアーラが1253年に亡くなると、キアーラを祭る聖キアーラ教会1265年に完成した。

As14

キアーラは、サン・ダミアーノ修道院の小さな庭で、聖フランチェスコが好きだったバラを大切に育てながら、彼の来訪を待っていた。フランチェスコの死の翌日、弟子達は、師の遺言を守り、亡骸をサン・ダミアーノへ運んだ。上記、聖フランチェスカの生涯の第23図には、フランチェスコに別れを告げるキアーラが描かれている。聖職ゆえに、結ばれなかったキアーラの気持ちは、格好の話になるのであろう。キアーラのミュージカルの広告が、聖キアーラ教会の前の広場にあった。英語の説明も書いてあるから、きっと、多くの外国の信者が、この街を訪問しているに違いない。Dioとあるのは、キリスト教の神、主を意味する。

As15

サンタ・マリア・デリ・アンジェリカ教会は、旧市街から約5 km離れたところにある。(As11)の中央に小さくみえるクーポラが、相当する。鉄道駅は、この近くにある。

As16

ファサード上部には、金色に輝くマリア像がある。

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中に入ると教会の中心のキューポラの真下に当るところにポルツィウンコラ(Porziuncola: “small portion of land” を意味する)というフランチェスコの小さな礼拝堂がある。フランチェスコが布教を始めて間も無く譲り受け、後に、この礼拝堂を保護するために、このサンタ・マリア・デリ・アンジェリカ教会を建設した(17世紀後半)。この礼拝堂の外観と内部のよりはっきりした写真は、案内書から取った(As17-1, As17-2)。

As17-1

As17-2

As18-1

ここには、近づいても逃げない白いハトがいた。上記As7-1で述べた「聖フランチェスコの生涯」の15番目に、As18-2に示すような、「小鳥に説教する」がある。この絵の説明として、「べバニャという所へ赴く時のこと、聖人は小鳥たちに説教をし始め、小鳥たちは喜びに羽を広げ、聖人の服をついばみました。同行した会員たちは、この事実を目のあたりにしました」とあることを意識して、ここでハトを飼っているのだろう。

As18-2

As19

気づかずに、ここの庭には出なかったが、ここには、棘のないバラがあるという。聖フランシスコが家庭を持ちたいと誘惑に駆られた時、苦行のために裸で、バラの繁みに入ったら、バラは棘を失い、バラの葉には、血を連想させる赤い斑が現れたといわれている。

As20

聖フランチェスコの像もあった。