ウルビーノ(Urbino)

ウルビーノを訪問するかどうかは、イタリアに行くまで、最終的には決めていなかった。
フィレンツェのウフィッツ美術館で、ウルビーノ公フェデリーコ夫妻の肖像や、ウルビーノ
のヴィーナスなどを見て、最終的に行きたい気持ちになった。ホテルを取ったラヴェンナ
からは、途中サン・マリノを訪問し、往復
307 km走行したから、片道150 km弱の距離があろう。

この絵画はウルビーノ公爵グイドバルド2・デッラ・ローヴェレの依頼によって描かれた。
もともとはイタリアで、伝統的に結婚の贈り物として用いられる家具であるチェスト
(en:cassone) の装飾だったのかも知れない。背景に描かれているメイドは、ヴィーナスの衣服
を探してチェストを探っているようにも見える。この絵がこれほどまでに官能的
に描かれて
いるのは、公爵の年若い花嫁となったジュリア・ヴァラノへの「教育」を意図したものでは
ないかという推測もある。
1997年にこの絵画が何を 意味しているのかを考察した論文
Sex, Space, and Social History in Titian’s Venus of Urbino.」が、近代美術史家の
ローナ・ゴフィンによって発表された。

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◎写真説明

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フェデリーコ広場にある観光案内所で地図をもらう。午後4時であった。

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ドゥオーモ。最初11世紀に建てられ、16世紀に建て直され、18世紀に地震で倒れ、建て直された。

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リナシメント広場。町には、あまり多くの観光客は歩いていないように見えるが、観光ミニ・トレインが走っている。よく営業が成り立つものと驚く。右側の建物は、ドゥカーレ宮殿である。

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(Ur3)を反対側から撮ったものである。リナシメント広場の北側にあるオベリスクは18世紀の前半にローマから持ってこられた。遠方に(Ur2)のドゥオーモが見える。

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ドゥカーレ宮殿は、月曜で閉まっているので、前からの写真だけを撮る。

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ラファエロ(1483.4.6-1520.4.6)の生家に行くことにする。間違えて、そこを通りすぎて、急な坂道の頂上にあるラファエロの銅像まで来てしまう。この場所をローマ広場という。この先をちょっと行けば、大変景色のよい場所に行けたのだが、そのときは、知らずに、坂を引き返してしまったのは不覚であった。晴れていれば、その場所からは30 km離れたサンマリノまでも見えるのだそうだ。

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前図の銅像の下の左右にはそれぞれ、女性、男性の彫像がある。その左側の女性像が、この図である。

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全長150 mほどの坂は大変、急である。道の名前は、ラファエロ通りである。先方に見える塔はサン・フランチェスコ教会である。

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途中、ラファエロの生家のすぐ手前に、日本の100円ショップに当る99セントショップがあったので、中に入ってみる。いわゆる「1 Euroショップ」がヨーロッパにあるということは聞いていたが、実際に見たのは初めてである。割合、小さな店で、品数が少なく、特に面白い品物もなかった。フィレンツェの観光マグネットなどを購入する。

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坂の中ほどよりやや下側に、ラファエロの生家はあった。目立たないので、坂を上っていく際には気づかなかった。入り口の左側の看板には、”CASA NATALE DI RAFFAELLO(ラファエロの生家)“と書いてある。入場料3Euro/人。この写真から、分度器で坂の勾配を測ったら10°あった。この家は3階で、同時代のレオナルド・ダ・ヴィンチの生家に比べると大変立派である。

 2012年2月2日の朝日新聞(夕刊)に「ルネサンス巨匠、放蕩の果て」と題して、つぎのような紹介が出ている。「イタリアの画家ラファエロ(1483-1520)は、レオナルド・ダビンチ、ミケランジェロと並ぶルネサンスの三大巨匠だ。21歳でフィレンツエに移り、メディチ家の保護のもと聖母子像の傑作を生み出し、25歳で教皇ユリウス2世からバチカン宮殿の壁画を依頼された。既にミケランジェロがシスティナ礼拝堂の天井画「天地創造」の製作に入っており、教皇は2人の天才を競わせようとしたのだ。8歳年下のラファエロと同列に扱われたと思ったミケランジェロは大層怒ったという。だが2人の関係は必ずしも険悪ではなかった。後にラファエロが作品の報酬で依頼者と揉め、ミケランジェロに報酬額の判定を頼んだ。ミケランジェロは絵の登場人物一人ごとに大金を払うよう、依頼者に告げたという。宮殿「署名の間」の壁画の傑作「アテネの学堂」にはラファエロが尊敬してやまないダヴィンチとミケランジェロが、それぞれプラトンとヘラクレイトスのモデルとして描かれている。ラファエロの奔放な女性関係は若い頃から有名だった。愛人をアトリエに住まわせて情事を重ねつつ製作に励んだこともある。絵のモデルの多くは愛人だったという説もある。だが放蕩が過ぎ、突如高熱を発した。死期を悟り、愛人に正当な生活資金を与えて送り出し、財産は弟子と親戚で分配するよう遺言してあっけなく死んだ。」ここでいう愛人とは、以後に述べるマルゲリータのことであろう。

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写真撮影が禁止されているので、美術館内のみやげ物販売所付近で、ここにあるラファエロの主作品(全部コピーと思われる)の写真を撮る。中央の小さいものは、自画像である。

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写真(Ur11)にもある「ラ・フォルナリーナ」は、1518-1919にパン屋の娘マルゲリータ・ルーティを描いたものである。オリジナルは、ローマの国立美術館にあり、ここにあるのはコピーであるが、(Ur10)と比べれば分かるが、スカーフがより赤みを帯び、目つきも大分穏やかになっていて、雰囲気が大分違い、田舎の娘らしくなっている。この絵にまつわる話は、面白い。彼女は、1510年頃からのラファエロ(27歳)の恋人であったが、枢機卿の姪との結婚話があり、その姪の死で破談になったが、宮廷画家だったので、枢機卿への配慮からも、この女性とは結婚しなかった。しかし、この絵の女性の腕輪には、“RAPHAEL VLBINAS(ウルビーノのラファエロ;Vは、現在のU)と書き込まれており、左手の薬指には婚約指輪があったのが、消された跡がある。この絵はラファエロが大事にしていて最後まで自分の手元に置いていた。

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写真(Ur11)で、(Ur12)に相当する絵の左下にある絵で、「ラ・ヴェラータ」(ヴェールをかぶる夫人)と題する。(Ur12)より以前の1516年頃に描かれたもので、聖母マリアの像であるが、マルゲリータを描いたものと言われている。フィレンツェのピッティ美術館にオリジナルがあり、ラファエロの代表作の1つとされる。上の絵(Ur12)の女性と耳の形が違うから、別人であるという説もあるが、同一とみるのが自然であろう。

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キリストと共にいる聖母(Madonna con il Bambino)97×67 cm2(1498)は、オリジナルがここの生家にある。家内が気に入って、絵はがきを購入したものから、コピーしたものである。製作年から勘定すると、ラファエロが15歳のときの作品で、後に描く、数々の聖母と、多少画風が違うのが興味深い。ウイキペデアのラファエロのイタリア語版には、最初の方にこの絵があるが、英・仏・日版には載っていない。

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当地の一番の見所は、ドゥカーレ宮殿であるようだが、下調べ不足で、そこの休館の月曜に来てしまった。代わりに、みやげ物店の店頭にあるマグネットの写真を撮る。ほとんどが、ドゥカーレ宮殿に関するものであったが、ウフィッツ美術館にあったウルビーノ公爵夫妻のものもあった。ウルビーノのヴィーナスとラファイエロに関するものは無かった。

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ラファエロ通りの坂を降りきったところに、共和国広場というこの町の中心ではあるが、小さな広場があり、そこに市庁舎がある。

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ちょうどそこで、小さな、静かなデモが行われようとしていた。イタリア語が分からないので、何のデモかよく分からずに見ていたら、その中にいたご婦人が近づいてきて、これは、原発反対のデモで、貴方がたは、福島事故を起こした国の人間だと分かったから、このことが、特に、理解できるだろうと言ってきたから、よく分かると答えた。迂闊にも、この時は知らずに後で知ったが、612日(日)から13日(月)にかけて、イタリアでは、原発の可否について国民投票が行われ、13日午後から、開票が始まったそうなので、このデモの行われていた時間(1740分頃)には、もう投票は終了していたはずである。投票中には、デモは許されないのであろう。帰国後、asahi.comを見たら次のような記事がでていた。

『原発再開の是非を問うイタリアの国民投票は(6月)14日朝までに開票がすべて終了し、原発反対派の票が9割以上を占めて圧勝した。東京電力福島第一原発事故後に欧州で広がる反原発世論の強さが示された。イタリア内務省によると、在外投票分も含めて開票が全て終わり、原発凍結賛成票が94.05%を占めた。凍結反対票は5.95%。投票率は54.79%に達した。原発再開を模索していたベルルスコーニ首相は13日夜、「政府と議会は結果を歓迎する義務がある。高い投票率は、自分たちの未来に関する決断に参加した いというイタリア国民の意思の表れで、無視できない」とする声明を発表。「国民投票は複雑な問題を扱うには適さないと信じてはいるが、それでも国民の意思 は明らかになった」とし、原発の新設や再稼働を当面断念する意向を表明した。』

投票率が、低いのは、賛成派の首相が投票のボイコットを呼びかけたせいもあるのだろう。首相がボイコットを呼びかけれ国民投票というのも珍しい。それにしても、イタリアの歴史的投票を現地にいながら知らなかった不明に恥じ入った。

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この日は、事実上、我々のイタリア観光最後の日なので、名物のジェラートを、広場の近く店に入って食べる。店の中でも食べられるようになっていた。流石に種類も豊富で、美味しかった。