3 コート・ダ・ジュール地方など
●(101)マントン:Menton
イタリア国境に近い洒脱な海岸リゾート
人口は約3万人で、イタリア国境に近い、海岸に面したリゾート地として知られ、以前から、
行ってみたい場所であった。”menton”は、イタリア語のmento「顎」からきていて、フランス語
でも「顎」を意味するが、地名と顎は、関係あるのかどうか分からない。 旧港の一般駐車場は、満員で、その先の有料駐車場と思われる入口に行ってバーの前で
駐車券の取り方が分からず困っていたら、近くで見ていた人が、親切にも鍵で開けてくれた。
これは、この港にヨットなどを停泊している人の専用駐車場であることを、その時初めて
知ったが、親切に甘えて入れさせてもらった。また、出るときは、出ていく車があったので、
その後ろについて出させてもらった。 そこの港からの旧市街を見上げたところは、サンミッシェル教会が見え、よく写真やポスター
になっている風景である(Mt1)。コクトー美術館が、2時まで閉まっているので、まず、旧港
付近の町を見る。毎日開かれているのかどうか不明だが(訪問した日は、日曜)、マーケットが
開かれている。中には、骨董品を売っている店が数軒あり、使えないタイプライターやカメラ
なども売っている(Mt2)。値段が付いてないので分らないが、こんなものを買う人がいるのか
といぶかる。日本なら、処分する側がお金を払わねばならないと思う。レストランに入ったら
生ガキがあるので、食する。フランスでは、Rの付かない月でも、生ガキはレストランで出る。 ジャン・コクトー(Jean
Cocteau)美術館は、彼自身が、当時廃墟のようになっていた要塞(Mt3)
を選んで、美術館にしたとのことである。その要塞の横の碑には、
「私は、あなた方と共にいる(Je reste avec vous.)」 (1889-1965)と書いてある
;彫刻者:Arlette Somazzi(Mt4)。入口の壁は、コクトーの描いた絵が彫られている(Mt5)。
中は、残念なことに撮影禁止になっているので、写真は撮れず、購入したパンフレットの
中の写真を掲げる(Mt6)。彼の多才ぶりを示している(画家、作家、映画人、演劇人など)。 近くの海岸は、日曜日ということもあって、若い海水浴客で賑わっていて(Mt7)、
「太陽の散歩道」に繋がる海岸通りには、ミニ・トレインも走っている(Mt8)。 市庁舎とコクトーの壁画のある結婚の間は、日曜のため休みで入れなかった。
日本語の解説も座って聞くことができるそうである。また、日本人でも、ここで結婚式を
挙げられるとも書いてあるが、1週間に1日、1組しか受け付けられないそうなので、
どれくらい待つかは分らない。「地球の歩き方」には、世界一素敵な結婚式場と書いてある。
なお、フランスでは、市庁舎に結婚届けを出し、そこで、結婚式を挙げるのが、普通のようである。
●(102)モナコ:Monaco
小さな独立公国・観光国
モナコは初めギリシャ、後にローマの植民地となり、1309年にフランソワ・グリマルディによって
ジェノヴァから買い取られた。そして、世界最古の君主国として今も残っている。後に述べる
アンティーブやカーニュ・シュル・メールにもグリマルディ城があるし、レ・ボーもグリマルディ家と
関係が深いから、グリマルディ家は、この辺一帯に勢力を持っていた一族であることを知る。
レニエ3世公とハリウッドのスター女優グレース・ケリー(1929-82)が1956年に結婚したことは、
今の若い人は知らないらしい。そして、王妃は1982年に自動車事故で亡くなった。 1991年の1月に来て以来2度目であるが、家内は初めてである。今回は車で来たので、駐車場を
心配したが、ニース側から街に入ると、現在の駐車場の空きの台数が、5−6か所だったと思うが、
道路上に、全ての駐車場について表示してあり、気が利いていると思った。一番手前の駐車場に
停めて、まず、衛兵の交代を見るべく王宮に行く。衛兵の交替は、モスクワ、ロンドン、アテネ、台中
などで見たが、皆、衛兵勤務中は、人形かと見まがうほど、1時間あるいは2時間身動きしないが、
ここモナコは例外で、衛兵は、動き回っているから、衛兵の交替といっても、緊張したり襟を正して
みるようなものではなく、ほとんど観光目的で、衛兵も見物客も気楽である。写真(Mo1)は、普段の
王宮前の様子を示している。小さくて、分りにくいが、入口の上にある剣を振りかざす2人の修道士の
紋章は、グリマルディ家の紋章である(Mo2)。この建物は16世紀から17世紀のものであるが、塔は、
1215年建立のジェノヴァ式である。正午に衛兵の交替の儀式があるので、その前から、観光客が
大勢集まる(Mo3)。正午に、太陽の影が、丁度建物と直角になっているから、建物が、真南を向いて
いることが分かった(Mo4)。憲法に警備はフランスの警察官が担当すると明記されているそうなので、
この衛兵もフランス人なのだろう。住んでいる人も、モナコ国籍の人は、20%で、あとは外国人との
ことである。
王宮のすぐ西側には、フォンヴィエイユ港があって、ボートやヨットが停泊している(Mo5)。
建物も綺麗で、流石に大金持ちの滞在する所という感じがする。ところが、その先の港の
入口には、およそ周りの風景と調和しない像が建っている(Mo6)。以前来た時は無かった
がいつできたのだろうか。
ヨーロッパ一の水族館を見る(Mo7-8)。この中にも、芸術家の趣味悪な展示物があり、
そのために、水槽のある階以外は撮影が禁止されている。水族館に、わざわざ芸術作品を
見に来る人もいないので、まったく余計なお世話である。以前に来た時に、静岡県などの
うなぎ弁当の表紙のコレクションが並べてあり、
日本では、こんなにうなぎを食べるとの表示があって、それが面白く、再度見たかったが
無くなっていた。
新幹線の普及で、うなぎ弁当自体が、あまり売れなくなったせいかとちょっと残念に思った。
フォンヴィエイユ地区にあるグレース公妃を記念したバラ園を見に行く。途中の公園に妙な
銅像があるので、写真に撮って、帰国後、調べたら、日本でも割合お馴染みのコロンビア出身
のフェルナンド・ボテロ(Fernando Botero;1932−)の作 品で、“Woman smaking
a cigarette(1987)”
(Mo9)であることが分かる。
それならば、港にあった妙な像(Mo6)も彼の作品かもしれないと思うが、調べても分らなかった。
また、後に、サン・トロペの街中で見る彫像も、ボテロの作品だということが分かった。ボテロは、
モナコ(1992)でも、サン・トロペ(2004)でも、そして日本(1981,1986,1995)でも展覧会を開いている。 グレース公妃バラ公園には、150種類、4000本のバラがあるそうである(Mo10,
11)。
この公園の設立に協力してくれた人々の名前が出ていたが、ケリー・グラント(泥棒成金で共演)
夫人など、アメリカ人も多い。
カジノなどのある東地区には、以前行ったことがあり、まだ見ていない日本庭園は見たかったが、
車は西地区の駐車場に留めてあるので、往復歩くのも大変なので、諦めることにする。
GPSを車中に置いてきたので、駐車場に帰るのに、多少迷う。この町は高低の差があるところが
多いので、ところどころに無料のエレベーターが設置されている。
●(103)エズ:Eze
日本人が立ち寄る鷲の巣村
マントンの帰りに、たまたまエズの駐車場の前に出る。ここは、以前に来たことがあるので、
寄るつもりは全くなかったが、来てしまったのに、見ないこともないと思ってこの鷲巣村*)に
立ち寄る。ここは、香水の産地としても知られ、フラゴナルの店があるが(Ez1)、その原料となる
植物の畑はまだ見たことがない。多分、駐車場より下の村にあるものと推察するが今回も、
確認しなかった。駐車場から上に登っていくと、一番高いところは、熱帯庭園があるが、
入場料が割合高いので(5 Eur)、
半分ぐらいの人は、この先に行かない。 しかし、ここから先に登らないと下の景色が見えないので、今回も登ってみることにする。
夕方であったせいもあり(午後7時)、ほとんど他に入場している人はいなかった(Ez2)。
上からの眺めは、多少の霧のために最上のものではなかった(Ez3)。
*) 鷲の巣村
この地方一帯は古来サラセンなど東方の異民族の襲撃にあってきた。
外敵の侵入を監視できるように高台に村を造り、堅牢な城砦を築いてきた。鷲の巣村は、
フランス語では、Nids d’aiglesと言い、「鷲の巣」 を意味していて、特に、村という語は付けない。
英語の案内書には、この語に相当する語は出ていない。
ウイキペディア(フランス語)によれば、その代表は、ドイツのオーストリアとの国境に近い
ベリヒテスガーテン(Berichtesgaden)にあるヒットラーの隠れ別荘であると書いてあり、
そこなら、自分も観光でミュンヘンから行ったことがある。
日本語では、鷹の巣村とも呼ばれる。菊間潤吾監修「フランスの美しい村」新潮社では、
フランスの観光地としての鷲の巣村は、3つのタイプに分類されている。第一は、
レストラン・ショップなどの施設が整っていて、道路状態が良く、観光バスで行けるところで、
例として、エズ、グルドン、ガッサン、ビオットが挙げられている。
多分、サン・ポール・ド・ヴァンスもこの範疇に入るのだろう。これを、ここでは、入門編と
呼んでいる。第二は、地元の人々やフランス国内からの人しか訪れない村で、
トゥレット・シュル・ルー、ラマトゥエル、リュセラムが挙げられている。これらが、中級編である。
第三は、全く観光地化されていない中世の風情が昔のまま保たれている村々で、村の中には
お店も案内板もない。村道は、自転車も通れない階段も多い。
ニースの山中にあるペイヨン(Peillon)がその典型として挙げられている。これが上級編である。
グルドン、トゥレット・シュル・メールなどには行ったが、ペイヨンには行けなかった。
●(104)サン・ジャン・カップ・フェラ:St-Jean-Cap-Ferrat
大富豪の素晴らしい庭園
当地には、ヴィラ・エフルシ・ド・ロトシルトという英国流にいえば大富豪のロスチャイルド家
の男爵夫人により建てられた館がある。この館と庭は、一般公開されていて(入場料:10
Euro)、
館内には多数の絵画や 美術品があるが、見学者には、その庭の素晴らしが、より魅力的である。
フランス(Cp3-5)、スペイン、
フローレンス(Cp6)、プロヴァンス、日本(Cp7)と国名などの付く庭園、エキゾティク庭園(Cp8)、
バラ庭園(Cp9)がある。喫茶室もあり、結婚式も挙げられるらしい。展望のよいところが10ケ所
以上を指定してあり、西側に、ヴィルフランシュ・シュル・メールの入江(Cp10)、東側には
ボーリュ・シュル・メールの蟻の湾が見える。
交通の便が悪いためか、あるいは、夕方であったためか、訪問客が比較的少なく、広々とした庭園は、
天国を感じさせるほどの素晴らしさである。配られたパンフレットで、庭園の配置などを示す(Cp11)。
イタリア王国の成立をフランスに承認してもらうため、1860年にフランスに割譲したというから、
2010年は、丁度、割譲150周年に当たる。当時のイタリア統一の士ガルバルディの生誕の地でも
あり、激怒したそうだが、当然であろう。それを祝っては、イタリア人に余計な刺激を与えるだけなの
で、そんなことは、ニースのどこにも書いてなかった。昔、このあたりは全部ローマ帝国のものだった
から、いつかの段階で、フランスに渡ったことは明らかなのだが、割合、最近だとは、知らなかった。
イタリア語では、Nizzaという。 1982年に、学会の帰りに立ち寄り、イギリス人の散歩道(Promenades des
Anglais)という名称の
海岸通りのWest Endホテルに3泊したのが、この地に来た最初である。その洗練された
雰囲気に地上の楽園と感じた。まだ、日本人は、ここには、余り来ていなかった時代である。 今回は、いつも遅くて朝から見ていなかった花市から見た(午前10時ごろ)(Nc1)。そんなに花が
売れるわけもないので、他のものも売っている(Nc2)。マーケットを上半身裸で歩いている男性が
いたが、店員が、ムッシューと呼びかけ、ここは、裸で歩いてはいけないと注意している。言われた
男性も、ちょっとびっくりしたようで、さして言い返しもせず、立ち去って行った。人に迷惑を
かけなければ原則、何でも自由なはずのフランスで、海岸にごく近いところで、上半身裸を
注意されたのには、見ていた自分もびっくりする。以前からそうなのか、分らないが、意外で
あった。帰りに、4時半ごろ、近くにまた立ち寄ったら、カフェは、客が少なく、従業員は、暇を
持て余していた(Nc3)。有名な海岸通りは、プロムナード・デ・ザングレ(Promenade
des Anglais:
イギリス人の散歩道)という名前がついている。1830年に在住のイギリス人の出資金で造られた
から、この名前がついたが、当時は、まだ、フランスの領土ではなかった。この東端は、アメリカ
海岸(Quai des Etas-Unis)という道に、連続的に繋がっているが、その先の方は今まで、あまり
行ったことがなく、今回は、その付近に駐車したので、展望台の下あたりから、遊歩道を眺めて
みる(Nc4)。アメリカ海岸側には、ビーチで日光浴をしている人は、ほとんどいない。折角、ニース
に来たからには、人の多い所で、日光浴をしたいというのが、共通した心理なのだろうか。なお、
花市は、この道を1本入った平行する道にある。
遊歩道の中心近くは、いつものように多くの人が、歩いていたり、ベンチで腰かけていたり
している(Nc5)。海側を向いたベンチと、歩く人を見る側の両向きにベンチはある。昔、来た時は、
ベンチは全部海岸向きで、有料のベンチと無料のベンチがあって、その区別があまり明らかで
なかった。有料のところに座っていると、巡回する集金人に請求されて、払う人と、それならと腰を
上げる人がいて、面白かったが、今は、どのベンチも無料のようである。
ビーチは、11時頃(6月10 日)であったが、風が強く、水温も低いらしく、泳い
でいる人は
1人もいない(Nc6)。
写真(Nc5)の中央遠方に見えるピンクのドームをもった建物は、当地のみならずフランス全土
で有名なネグレスコ・ホテルであるが、今回、ここでお茶を飲むために、日本からわざわざスーツ、
ネクタイと革靴を持参してきた。しかし、行ってみたら、本年1月から、この6月末まで、
改装工事(Nc7)のため休館と書いてあり、わざわざ持参したスーツなどは無駄になる。
家内も同様である。なお、右隣のホテルは、1982年に学会の帰りに、
主催者に取ってもらい、ニースに初めて来たときに泊ったWest Endホテルである。その時は、
初めて来たので、ネグレスコ・ホテルの何たるかも知らず、ただ、この遊歩道などを見て、
その雰囲気の素晴らしさに感心していた。次に、まだ行ったことのないマチス美術館に車で行く。
分りにくいところで、GPSが役立つ。2008年から、ニースの市立博物館の入場料は無料になった
のは有難いが、ここも撮影禁止であった(Nc8)。
シャガール美術館は何回か来たことがあるが、また行く。ここは、国立なので有料だが
写真撮影は自由である。自分の名前Isaoは、スペルが似ていることから、留学先で、
間違ってIsacと呼ばれることがあったので、旧約聖書のイサクの話にはそれ以来関心がある。
すなわち、イサクの父、アブラハムが神に信仰の深さを試され、神の命令に従って息子イサクを
生贄に捧げようとする絵を撮る(Nc9)。シャガールの絵は、旧約聖書などをよく読んでないと、
何を描いているのか分らず難しい。この博物館には、底の浅い小さなプールがあり、それを
隔てて、座りながら絵を見る部屋があったが、今回は、そういう場所は無くなっていた。観客が、
これだけ多いと、それは無理なので、取りはらったのなら残念である。一般に博物館などは、
入場者が多くなるにつれて、撮影禁止などの規則が増えて、見る環境が悪くなってくるのは、
残念である。日本における、海外(主にヨーロッパ)の絵画展などは、すでにその極みに達して
いるので、日本での展覧会は見ずになるべく現地(ヨーロッパ)で見ることにしてきたが、
だんだん、海外でも規制が厳しくなってきている。絵画はゆったりとした気分で、見たいだけ長く
見ていたいものである。ニースは、南フランスの日本からの団体旅行のコースに必ず入っていて、
シャガール美術館にも大抵立ち寄るようなので、日本からの団体のご婦人方で盛況である(Nc10)。
すぐ移動するから、これが、邪魔だという気持ちは無く、美術館側が、昔の自由を堅持してもらいたい
だけである。また、元の海岸に戻って、アメリカ海岸通りの上にある展望台に昇る。家内は
エレベーター(往復1.2 Euro)で、自分は階段で登り、海岸通りを眺め、写真を撮る(午後4時20分
頃)(Nc11)。高さは92 mとのことである。上は、意外と広い公園があり、そこで、日光浴をしている人も
かなりいる。
しかし、この日は風が大変強く、ときどき、強風で、埃が舞い上がり、目を開けていられないほど
である(Nc12)。ミストラルは、冬に吹くものと思っていたが、今回の滞在では、計4日間ほど、
風が強い日があった。ここに、登ってから20分ぐらい経ってから、公園の管理人と思われる若い男性が
来て、危険だから即刻、下に退去せよと言って回っている。上は広い広場だし、エレベーターは地中を
運行しているから、風の影響を受けず、不通にもならず、階段も吹き飛ばされるような構造になって
いないので、どうして、この自由な、全て自己責任で社会が回っている国で、規制をするのか、
よく分らなかった。フランスも何か事故が起こると管理責任を訴える社会になってきているのかも
知れないと感じる。しようがないので、エレベーターで降りて帰宅の途につく。
高台にある城を見に行けなかった。
●(106)カーニュ・シュル・メール:Cagnes-sur-Mer
ルノアールのアトリエ
ルノワール(1841-1919)のアトリエ(Cg1)のある場所は、この町のレ・コレット(Les
Colettes)という地域にある。アトリエのある建物の入口には、ルノワールがこの家に住んだ
年などの記載がある(Cg2)*)。ルノアールのアトリエは、写真撮影禁止なので、購入した
絵はがき(Cg3)をコピーするが、実際には、キャンバスの絵が違っていたり(実際には裸婦画)、
石膏ではなく、モデルの座る椅子がベッドの左側にあり、アトリエの雰囲気は、この絵はがきでは
十分には表されていない。1905年、64歳のときリューマチの悪化で、温暖な当地に移ってきた。
この家を建てて住み始めたのは、1908年である。その病のために車いすが使われている。
アトリエは1階にあるが、その裏側は、植木が多く植わっていて、その真中にある裸婦像も、
木で隠れていて、写真を撮る角度は、この写真(Cg4)の1点しかないように思われた。
この裏側の建物の1階が、アトリエである。
当敷地は、古いオリーヴの木があって、それを伐採されるという話を聞いて、ルノワールが購入し、
アトリエを造った。それで、その庭は、絵を描きたい人達に、無料で開放されているので、ただ、
絵を描くために来ている人もかなりいる(Cg5)。庭の一角には、元、馬小屋で、現在は、土産物店に
使っている建物があるが、そこをルノワールが描いた絵(の複製)が、その場所に置いてある(Cg6)。
庭で絵を描いている人の中には、人物が居ないのに、そのバックとなる光景をここで描いている
ご婦人もいる(Cg7)。この庭の雰囲気をバックに描きたかったのであろう。
どこから来られているのか知らないが、その道具の多さにも、感心する。 庭からは、グリマルディ城
が良く見える(Cg8)。次に、この城を見に行く。グリマルディ城は、オ・ド・カーニュ(Haut
de Cagnes;
オは高いことを意味する)という文字通り高台にあり、ルノワールの庭からもよく見えたが(Cg8)、
かなり距離はあり、歩ける距離ではない。この城の近くの上り坂は、この付近に住んでいた
シャイム・スーティンの「カーニュの上り坂」の題材となった(Cg9)。このグリマルディ城は美術館
になっているが、ここも、中の写真撮影は禁止されている。 2階の天井画にジョヴァンニ・カルローヌ
の1620年作の「ファエトンの墜落」(ギリシャ神話)があるが、19世紀にこの城を占領した兵士達は、
射撃の練習に使ったそうである。その割には、弾の穴はあまり見えなかった。
ここで一番興味深かったのは、3階にあるシュジ―・ソリド―ル(1900-83)の部屋の展示であった。
この女性は、ナイトクラブを開き、歌手などをする一方、多くの画家に自分を描いてもらうことを願い、
226人の画家に肖像画を描いてもらった(この人数は、書物によって多少違い、美術館でもらった
パンフレットには書いてない)。世界で一番多くの画家に描いてもらったモデルと言われている。
モデルになる条件は、その絵を自分の店に飾ることだけであったという。そのうち、50点近くを市に
寄贈して、53点が一部屋に展示してある。写真撮影が許されないので、美術館の提供している
ネットから得た画像を示す(Cg10)。出入り口の上側に掛っているのが藤田嗣治によりもの、
一番右端の上側のほとんどハレーション出見えない絵はコクトーによるものである。
この写真には写っていないが、この部屋にあるレンピッカ(女性)の描いたものの(1933)、
いわれは興味深い(Cg11)。シュジ―・ソリドールとレンピッカは同性愛関係にあり、ソリドールが
絵を描いて欲しい頼んだら、裸になることを条件に引き受けたそうである。なお、レンピッカの
絵画展は2010年に渋谷の文化村でも行われた。この絵はレンピッカにとっても、最高の作品と
言われる。 屋上に昇ると周囲がよく見え、先ほど訪れたルノワールの家の庭がよく見える(Cg12)。
その城から出てきたら、道に「ル・カニャール」の標識がでている。これは、この地にある有名な
高級ホテル兼レストランで、藤田嗣治も泊ったことがあり、「フジタの部屋」もあるということを、
以前テレビで見たことがあったので、行ってみようと、車で細い道に入って行った。車1台が
やっと通れる小路を入っていくと、すぐのところに、左手に上がっていく行き止まりの印のある路が
あったが、うっかり、通り過ぎてしまった。そこが、多分、このホテルの入口と思って、戻ろうと
思ったが、全く、Uターンするスペースはない。それで、仕方なく向かいから対向車が来ないこと
を願いつつ徐行して行くと、ある家の前で、小型トラックを止めて工事をしていた。どうしようかと
思ったが、すぐ車を動かしてくれた。先方の車の方向が、こちら向きでなくてよかった。
両側は、家屋であったが、不思議に道を歩いている人はいなかった。こういう小路を
数百メートル走って(Cg13)ようやく、道幅の広い道に出た。この写真は、助手席から家内が
撮ったものである。この道は一方通行だったのかは、調べなかった。使っているGPSでは、
一方通行は、示されないようである。後で、ネットで、高級ホテルの「ル・カニャール」の評判を
見たら、タクシーも入れない道の狭さばかりでなく、料金の値上げ、バスタブの栓の不具合など
に文句が出ていた。
*) ルノワールの家についての表示
家の入口に貼ってあるプレートにはフランス語で、次のように書かれていた。
「オーギュスト・ルノワール(1841-1919)は、1907年に、コレット地区に、この家を建て、
その冬から、1919年12月3日の死去まで、この家に住んだ。
その夏は、彼の妻、アリーヌ・シャリゴ(Aline Charigot)(1859-1915)の生まれた場所の
エソワィエ(Essoyes)の彼の家に滞在した。この掲示板は、1969年12月3日にトロワイェ(Troyes)
とエソワィエの協賛で設置された。」なお、ルノワールの描いた、妻の肖像画は良く知られている。
エソワィエは、パリの南東、約180 kmにあり、トロワイェは、その県庁所在地である。
●(107)ビオット:Biot
レジェ美術館
地名はフランス語で、Biot と書くから、普通なら、ビオと発音するが、書物にはビオットと
書いてある。ビオットにレジェ美術館を見に行く。大きく、広々としていて、写真撮影も可で、
大変気持のよい美術館であり、外側のデザインからもすぐレジェ美術館
だと分る(Bi1)。今回訪問した、約10の美術館では一番雰囲気のよい美術館であった。
フェルナンド・レジェ(Fernand Leger: 1881-1955)の未亡人が建てたそうである。
絵を見ると作者がすぐわかる独自の画風を確立していて流石である。日本でもファンが多いのか、
展覧会が開かれている。日本に、この名前のレストランもあるが、それは、フランス語の
「軽い(leger:レジェ)」から来ていて、画家とは関係ないらしい。美術館には、幼稚園生か、
小学1年生ぐらいの子供たちが先生に連れられて見に来ていた(Bi2, 3)。大人しく見ているのに
感心するが、何を説明し、子供たちが何を学び取っているのか興味深い。キュビスムに属する絵で、
ピカソに比べれば、過度に抽象的ではないが、細部には、何を描いているのか考えさせるところも
ある(Bi4)。これらの作品はレジェ家の寄付によるそうであるが、例えば、写真(Bi5)の絵は、ここに
展示されていたものであり、ほとんど似た絵で、色の配置が違うものが、あるフランス語のテキストに
出ている(Bi6)ので、展示されているのは、コピーなのだろうかとも想像する。展示されているものが、
コピーだと思う理由は、比較してみれば分るが、ここでは(Bi5)大分省略されて描かれている。
本家・本元の美術館に略されたコピーがあることも初めて知る。庭も広々としていて陶磁器の作品が
置いてあったり、カフェもあってランチが食べられる(Bi7)。
●(108)アンティーブ:Antibes
ピカソ美術館とペイネ美術館と城砦
アンティーブは、宿泊したジュアン・レ・パンに隣接しており、ホテルからピカソ美術館までは、
1.5 kmぐらいで、車で行き駐車場を探すより面倒が少ないので、歩いて行った。
ピカソ美術館は、グリマルディ城(An1)(フランス国旗のある建物)の中にあり、以前に来たことが
あるが、休館日の月曜で入れなかった。今回は期待してきたが、撮影は禁止で、ピカソの作品も
余りたいしたことなく、他の人の作品で、数の少なさを補っている感じがした。カーニュの城の名前と
同じであるが、これは、17世紀にこの地方で勢力のあったグリマルディ家の城砦であったためである。
因みに、モナコの王家もグリマルディー家である。城の上に出ると撮影は可能であり、ピカソの当地の
作品では一番有名な「アンティーブの夜釣り」(1946)という絵のコピーが掲げてある(An2)。ここには、
彫像も数体並んでいるが、ピカソのものではなく、作者名を記録するのを忘れてしまった(An3)。
ここからの、海の色や、右手のアンティーブ半島の眺めは素晴らしい。ピカソは1946年9月から、
2ヶ月間、この城に、愛人フランソワ・ジローとともに滞在し、23枚の絵を描き、制作した作品の大半は
市に永久貸与した。城の横や、小道では、関西から、絵を描きながら美術館などを巡っている団体の
ご婦人方が、写生をしている(An4, 5)。素晴らしいご趣味と思う。このご婦人方とは、偶然、何か所で、
お会いした。ピカソ美術館で、共通の入場券が購入できるので、500 mぐらい離れた街の中心に近い
ペイネ(1908-1999)美術館を見に行く。なお、ペイネ美術館は、ブラサック・レ・ミンヌ(Brassac-les-Mines:
ペイネの母の生まれた地; Vichyの南約50 km)や日本の軽井沢、美作市作東町にもある。
フランス以外にある美術館は日本だけなので、日本には彼の絵のファンが多いということであろう。
入口の外側右手にある絵は(An6)、
写真(An1)とほぼ同じところを描いている。中には、デッサンだけでなく、ポスターなどもある。ここも、
写真撮影禁止なので、ネットから評判のよい作品の「恋人たち(Les Amoureux)」を示す(An7)。
この美術館に、エミール・ゾラが「ドレフュス事件(1894)」に際してオロール紙に掲載された
「我、弾劾す(J’accuse.)」という記事の拡大図が壁一面に掲げられていた。ペイネの生まれる前の
事件に関するもので、ペイネとこの事件が、どういう関係にあるのか分らないが、ペイネがユダヤ人で
あるということであろうか。息子の妻がペイネのファンなので、スーツケースに入る程度のポスターの
絵を土産に買う。入場者は、ピカソ美術館に比べて大分少ない。
ピカソ美術館の近くに戻ると、そこにはプロヴァンス市場という市場があり(An8)、午前中は市場で、
午後は何軒かの食堂の座席になり、その向かい側に料理場やカウンターなどがある。以前に来た時は、
この食堂の1つで、ムールとフレンチポテトを食べたが、その時は、午後遅くに来たので、午前中は
市場であることは気付かなかった。
今回は、その一角を借りて、結婚式の披露宴(あるいは2次会立食パーティ?)が行われていた(An9)。
また別の日に、街からは、港を挟んで少し離れている要塞を見学に行った。ここは、案内制を取っていて、
我々以外に1人しか入場者がいなく、その人が譲歩してくれて、仏語から英語の説明に変えてくれた。
大学生ぐらいのお嬢さんで、アルバイトなのかもしれない(An10)。この地は、476年まで500年間
ローマ帝国の支配下にあったが、その後は、いろいろな民族が攻め込んで、安定状態にはなかった。
15世紀の終わりごろまでには、フランスのルイXI世の支配になり、その後も、イタリアから何度か
攻められ、フランス側の最前線の要塞であったとのことである。1860年にニースが、フランス領になり、
最前線の役目は終わった。西側には、港を挟んで、ピカソ美術館になっているグリマルディ城が見え
(An11)、東側には、ビルヌーヴ・ルーベ(Villeneuve-Loubet)のビーチまで見渡せる(An12)。
この写真の右端にかすかに2棟の大きな建物が見えるが、それは、近くで見ると、ピラミッド状の建物で、
ビーチに面した高級別荘マンションになっている(An13)。この写真の建物の反対側がビーチである。
アンティーブ一帯は、ニースとカンヌの間にあり、しかもこれらの都市よりは、大分静かで落ち着いて
いるので、人気が高い。
●(109)サンポール・ド・ヴァンス:St-Paul-de-Vence
日本人に人気のある芸術の鷲の巣村
1994年にヴァンスに滞在したときここは、立ち寄った。当時に比べて観光客が大分多くなったと
感じる。ここには、芸術家も多く住んでいて、彫像なども多い(Sv1)。ここに暮したヴェルデ(Andre
Verdet(1913-2004))の作品も街かどにある(Sv2)。この作品は彼の代表作であることを、後で知る。
チャペル(Chapelle des penitentsblancs;の入口が開いていて中を見ると、2,3人入っていて、
正面の壁に絵が描かれているので写真を撮る(Sv3)。そこを中座していた番人の中年のご婦人が
来て、ここは入場券が必要で、チャペルの向かい側で購入する様に教えてくれたが、もう見て
しまったので、そのまま失礼する。後で調べたら、ベルギーの画家フォロン(Jean-Michel Folon
(1934-2005))の作品であることが分かった。シャガールもこの地で亡くなっている。
要するに芸術に溢れる鷲巣村である。あちこちに水の出ているところがある(Sv4, 5)。
<<Eau potable>>と書いてあるのは、飲料可能水という意味である。ニース空港から近いので、
観光客が多いが、人通りの少ない所もある(Sv6)。日本人の観光客が多いためか、大きな
すし店のビルがあった(Sv7)。次に、1 kmぐらい離れたマーグ財団美術館(La
Fondation Maeght)を
初めて見に行く。徒歩だと15分ぐらい坂を上がらねばならないので、車で行く。
静かな松林の中にあり、駐車場もあり、街とは全く違った雰囲気にあり、来訪者も少ない。
画商エメ・マーグが1964年に開いた民間の美術館である。入場料は高い(14 Euro)が、
カメラ使用料(5 Euro)を余分に払うと、バッチをくれ、それを付けていると撮影が可能であるのは
有難い。前庭にはいろいろな彫刻がある。この美術館のパンフレットなどでよく見る彫刻(Sv8)は、
カルダー作である。ミロの作品も多く、屋外にミロの迷路と題した一角がある(Sv9)。作品としての
球状の鏡が置いてある部屋もある(Sv10)。シャガールの「人生:La vie」(Sv11)や、レジェの
「田舎の遠足:Lapartie de campagne」(Sv12)もある。案内書にはジャコメッティの彫像数体がおいて
あるはずの中庭の空間に何もないので、監視員に聞いたら今は無いという。どこかに貸し出されて
いるのであろうか残念であった。
入場者はまばらで、落ち着いて観賞できる。ネットで、他の訪問者の感想を見ると、入場料が高い
けど、良いというのが、共通のようである。しかも、入場料は、年々値上がりしている。今回、
訪問した美術館の中では、ここと、ビオットのレジェ美術館が一番気に入った。
●(110)ヴァンス:Vence
マチスの教会
マチスの教会(正式には、Chapelle du Rosaire)のことを聞いて、当地のホテルで、家内と4泊して、
ここを訪問したり、コート・ダ・ジュールを回ったのは1994年の6月であった。当時も、マチスの
描いた壁画などのある肝心の教会内は、撮影は禁止であった。さらに、そこで入場券を販売していた
老婆は、教会で務める人とは思えないほど意地の悪い人であった。我々だけの印象ではないようで、
ある時、この教会のことが話題になった折に、ある方が、その老婆の意地の悪さに言及されたので、
皆さん同じ印象を持っていることが分かった。
今回は、家内が疲れてホテルで休養していたいというので、自分だけ新しい所に行くのも
悪いので、ここを再訪した。この教会が開く前に行ったら、あたりは静かな住宅街で、前に持った
印象とは全く異なった。写真(Vc1)の青い屋根の建物が教会で、青は地中海を表しているそうで
ある。10時に開く前には、バス2台の日本人グループが到着し、自分は一番に来ていたので、
一番に入場し、礼拝室の一番前に座れ、団体の人と一緒に日本語での説明を聞ける恩恵に浴した。
礼拝堂内は撮影禁止なので、成書から取った(Vc2)。教会は、バス1台分の人ぐらいしか
座れないので、日本人への説明は2回に分けて行われた。15分程度の説明後廊下に出て、
土産売り場を通り、外に出るという、極めてシンプルな見学である。土産売り場から
は、中庭を通してヴァンスの街に一部が、遠方に見える(Vc3)。また、その廊下には、
マチスの病気の時に助けてくれた修道女との写真がある(Vc4)。このことに感謝して、
このチャペルの壁に絵を描くことを決意したそうである。アンティーブやルノワールの庭で写生
されていた小グループの方たちも来ておられた。ここでの土産売り場での買い物は、ほとんど
日本人であった(Vc5)。この教会は、特に日本人に人気がある。
多分、ニース?サン・ポール・バンス?グラース?カンヌなど人気の地を回る多くの団体旅行の途中に
位置していることもあろう。ニース空港から13 km程度である。
●(111)トゥーレット・シュル・ルー:Tourretes-sur-Loup
鷲の巣村
ヴァンスからグラースに行く道の途中に鷲の巣村が左手に見える。
それが、この村であり、何回か村の家並みはみたが、中に入るのは初めてである。
今回ルー渓谷から、ヴァンスを通って、ホテルに帰る途中に立ち寄った。鷲の巣村の
サン・ポール・ヴァンスから10 kmほどの距離にあるが、外国からの観光客はほとんどいないらしい。
写真の橋(To1)は、村の見晴らし台から見たが、ヴァンスとグラースをつなぐ道がそこを通って
いると思う。この街の家並みも風情がある(To2)。ここにも、道端に給水口がある(To3)。
ここにも、芸術家が多く暮らしていて、高原の芸術・工芸センターとも言われるだけあって
土産店も洒落ている(To4)。シーズン前で、観光客は少ないが、案内所は完備していた。
●(112)グルドン:Gourdon
崖上の城砦、フランスの最も美しい村のひとつ
グラースから山側に10 kmほど上るとグルドンの城が見えてくる(Go1)。
途中の山には名前の分らない黄色の花がいっぱい咲いている。城の内部の見学(5
Euro)は、
説明付きであるが、そのあと、庭の観賞は各自で自由に行える(Go2, 3)。城は8-10世紀に、
サラセン軍の侵略に備えて建てられ、幾多の戦いの場になったが、城のお陰で、他民族の
支配から逃れてきた。庭は、ベルサイユ宮殿を設計したアンドレ・ル・ノートルによって設計された。
ここは、標高760 mだそうだが、下を見ると、険しい崖の中に上ってきた道が見える(Go4)。
下から見ると城だけしかない所のように見えたが、観光客相手の店などは、いろいろ意匠を
凝らしていて,洒落ている(Go5)。香水を抽出する昔風の小さな工場もある(Go6)。
その隣には、グルドンのアート・ガラス製品という看板があり、その隣には、養蜂家の蜂蜜という
文字が壁に書かれている。そして、さらに上に山が見え、先ほど見た黄色の花の群生も見える。
グラースより観光客がずっと少ないだけ、のんびりした雰囲気があり、景色も良い。やはり、
「フランスの最も美しい村」のひとつである。
●(113)ルー渓谷:Gorges du Loup
静かな渓谷
グルドンから3 kmほど上るとルー渓谷の見どころのルー滝(Saut du Loup)に出る。
滝を見に入るには、入場料を必要とする(Sl1)。最初にあるのが、大なべ滝(Lagrande marmite)(Sl2)
で、見て分るように浸食でできた。橋があり反対側に渡れる(Sl3)。そして、そこからは、お嬢さん(達)
の滝(Desmoiselles)(Sl4)が見える。この水は、石灰分を多く含むので、下の植物を石灰化している。
そして、光の加減で、左側の滝には、虹が出ていた(Sl5)。ここを出て、写真(Sl1)の左に見える
休憩所でお茶とケーキを食べる。他に客もいなく、渓谷と緑に囲まれて気持がよい。ここを離れて
しばらく行くとクルム(Courmes)の滝が道に面してある(Sl6)。
この帰りに、上述のトゥーレット・シュル・ルーに立ち寄った。
|