4 プロヴァンス地方
プロヴァンス写真館

●(201)サン・トロぺ:St-Tropez
フランス一のスノッブな所

 以前(1994)にも6月に来たことがあるが、街に入る道(東側)は、車の大渋滞であった。
今回は、反対側(西側)から入り、まず、パンプローヌ海岸(Pampelonne)に行った。
このビーチは、サン・トロペのビーチの中で、全長5 kmと一番大きいが、
街からは4 kmぐらい離れていて、有料駐車場が完備している。まだ、シーズン(7−8月)より
前なので、ビーチは、比較的空いている。このビーチは広いので、商売になるのか、
黒人の物売りの人が、20 分ぐらいの間隔で、
帽子、装身具、飲み物などを売りにくる(St1)。半島の上には、後で行くことになる灯台が
見える。このビーチは40年前(1970)に、フランス初のトップレス(モノキニ)水着が現れ、
話題になったそうであるが、今は、ヨーロッパでは、年齢にあまり関係ない普通の水着の
1つとなっていて50-70歳代の方でも、見かける。むしろ、南仏海岸では、その率は、
女性の1−2割ぐらいで少なく、ビキニ*)が一番普通である。北欧など、日光を必要
とする国からの観光客も、多いと思うが、どの人がフランス人か、外人かは区別がつかない。
この海岸は、ニースなどと違って、足元も砂地が多く、家族ずれも多く、のんびりしている(St2)。
我々は、2時間近く水着で、のんびり日光浴したが、水温が、日本人には低すぎて、水には、
足しか浸かれなかった。
 次に、この海岸から見える灯台の見える半島に行く。一本道かと思ったが意外に複雑で、
結局GPSの世話になる。そこから、この海岸の全貌(St3)や湾(St4)が見渡せ、絶景である。
灯台も、門前まで、舗装された道があるが、中には入れない(St5)。付近には、車が数台
留っている程度である。
 次に街に行く。街には大きな建物内の駐車場が2つあり、その1つに駐車させる。シーズン
には、入りきらないのではないかと思う。港に面した通りに行き散歩する。まず、観光案内所に
行き、街の地図を購入する(1 Euro)。他の街で
は、大抵、無料であるが、観光客の多いところは、有料にした方が、無駄にする人が少なく、
よいと思う。案内所の前などに、あまり風景になじまない彫刻物が設置されている。
芸術作品は、人によって感じ方は違い、関係者に申し訳ないが、周りと調和しなく、
自分にとっては、劣悪に感じられた(St6)。ここだけでなく、いくつかある(St7)。モナコの項でも
述べたフェルナンド・ボテロの作品をけなすつもりはさらさらなく、サン・トロペの海岸通りには、
似合わないのではないかと思うだけである。前に来た時は、無かったと思う。
この漁村を、一躍有名にしたのは、1960年代に、当時の銀幕スターのブリジッド・バルドーが、
裸足で歩いたことに始まる。それで、観光案内所でも、街のお祭りのポスターに、今でも彼女の
写真を使っている(St8)。フランスでは今でもスターであるが、ほとんどの日本の若い人達は、
彼女を知らないかもしれない。海岸通りは人通りが多く(St9)、名物の絵画の展示販売も
行われている(St10)。街角では、静止人間銅像の大道芸も行われている(St11)。
今回の旅行では、この街の観光客密度が一番高かった。公園では、ペタングも
行われていた(St12)。特にプロヴァンスでは、このゲームに興じている光景にしばしば
出会うが、プレーヤーは中年以後の男性に決まっていて、まだ、女性がプレーしているのを
見たことがない。何故なのであろう。

*) ビキニの由来 

ビキニの由来は、ある程度知っていたが、「ロンプラ」(資料の項で説明)に説明が出ていた
ので、それに多少手を加えてここに記す。カンヌのファッションデザイナーのジャック・アイム
(Jacques Heim)と自動車エンジニアのルイ・レアール(Lous Reard)による1946年の創作である。
こういう水着は、何世紀もの間存在していた。(実際、シシリー島のカサーレの古代ローマの
別荘のモザイク画で自分は見た。)
しかし、これに、ビキニという名前を選んだのは、彼ら2人であった。すでに、1932年
にジャック・アイムは、2つに分れた水着を”atome(フランス語で原子)“と呼んでいた。bikiniは、
1946年の米国によるビキニ環礁における原爆実験の衝撃に因んで付けたものである。
サン・トロペの上記パンプロ―ナ海岸で、50年代のスターのブリジッド・バルドーが着て、
一気にヨーロッパで流行し始めた。ということは、ビキニも、モノキニも、サン・トロペから流行が
始まったということになる。



●(202)イエール:Hyeres
宿泊したが、観光しなかった町


 以前(1998)に、イエールの沖合にあるポルクロール島であった学会に出席したことがあり、
この地に立ち寄ったことがあり、今回、この地にホテルを1週間取った。しかし、結果的には、
ここを基点にあちこち回ったが、この地自体はほとんど全く観光しなかった。レストランに1回
入った(Hy1)。この季節には珍しく、1日中雨が降った日があり、あちこちで洪水になったことが、
テレビで伝えられていた。街に出てみたが、その日は、ほとんどの店は閉まっており、観光客も
全く姿を消していた。部屋のベランダから、外を撮った(Hy2)。
これはイエールのほぼ真北の直線距離で21 km(車で40分)のN97沿いのカルヌール(Carnoules)
という村の話であるが、サント・クロワ湖から、イエールに帰る折に、ここを通ったら、D13から、
N97に出る道の横に、思いもかけず、道に面して、機関車が展示してあるので、信号待ちの
時間に、車中から、慌てて写真を撮る(Hy3)。イエールのホテルで、雨の日にテレビを見ていたら、
イエール地方の観光の名所を10分間ぐらいで紹介を繰り返すチャネルがあり、その中で、この
機関車も紹介していたので、その画面の写真も撮る(Hy4)。それで、これが、この地方の
観光名所であることが確認された。帰国後、Carnoulesの項をウイキペディアで調べたら、
このことが出ていた。1862年に、この地に機関車が導入され、80台あったそうで、鉄道員も多く、
この地に住んでいたらしい。この過去を記念して、ここに<<4B9>>という機関車を展示してあると
書いてある。写真(Hy3)には、良く読むと、この番号が見える。何故、この地に汽車が導入された
かは、書いてなかった。


●(203)マルセーユ:Marseille
フランス第3の港町


 人口約83万人の港町である。この地には、1991年の冬に最初に来て、今回は4回目である。
家内は初めてなので、この街の一番の見どころのノートルダム・ド・ラ・バジリカ聖堂の近くの
道端に車を留めて、見に行く。この聖堂は見事である(Mr1,
 2)。この地方に名物のサントン人形の展示もあった。「サントン」とは小さな聖人を意味する。
普通20-30 cmで、プロヴァンス地方でクリスマスの秣桶に飾る。この写真にある
「Priere des familles(家族の祈り)」と題するキリスト、マリア、ヨゼフを表す人形(Mr3)は、
大きいが、サントン人形なのであろう。この聖堂は、高台に位置しているので、街の眺めが
素晴らしい(Mr4)。「岩窟王」の舞台であるイフ島もよく見える(Mr5)。この島に行くべく、
港まで、街をみながら、下り坂を歩いて行く。船着き場は、写真(Mr4)の多数の船の停泊して
いるコの字型の旧港の右端にある。船賃は、イフ島とフリウル島の2島巡りで、15 Euro/人で、
30分毎に出ている。我々は12時10分発の船に乗る。 船は満員であった。 船からは、
先ほど行った聖堂が見える(Mr6)。イフ島には、約20分で着く。この島の要塞は16世紀に
建てられ(Mr7, 8)、受刑者、ガレー船の漕ぎ手(トルコなどで調達したイスラム教徒の奴隷など)、
18世紀には、ペスト患者など不幸な人々が、収容されていた。なお、伝染病予防で隔離することを、
英語でquarantineというが、これは、フランス語の40(quarante)に由来する語で、40日間隔離して
様子を見たのであろう。アレクサンドル・デュマ(父)(1802-70)の「岩窟王(モンテ・クリスト伯)」は、
その映画の脱獄するシーンを中心に画像で写されている一方、この小説が世界のあちこちで
読まれているということをパネルで紹介されていたが、米国、トスカナ(トスカナ地方ということか)、
中国、キューバ、ドミニカが挙げられているが、こんなに知られている日本はない。我が国の
対外文化広報不足のためであろうか。この要塞からのマルセーユの景色も美しい(Mr9)。
最初から予定しなかったが、ついでに、フリウル島に行く。2つの島がつながっている。泳ぐに適した
ビーチや、ムールのレストランも、5−6軒ある。若い訪問者が多いが、どこから、何の目的で来て
いるかはよく分らない。そこから、マルセーユをバックにイフ島が目前に見える(Mr10)。帰りに
フェリー乗り場に行ったら、予定時刻より前に出港しているのが見える。他に間に合わなかった
1人が係員に抗議したが取り合ってくれない。遅れることはしばしばだが、時刻より早く出るのは、
フランスでは初めての経験であった。我々は、車で移動しているから、遅れても困らないが、
フランス人労働者は、その程度の時間感覚であることを覚悟しなければならない。45分待って
15時35発の船でマルセーユに戻る。港から、車の置いてある聖堂まで坂道を登って戻るのは、
大変だと思っていたら、港から、そこまで行くバスがあり大変助かる(1.5 Euro)。まだ、時間が
あったので、マルセーユの中心から約10 km離れたクロワセット岬(眺望地点のマークが
ミシュランの地図にある)を見に行く(Mr11)。この地方も石灰岩が多いことが分かる。曇っていた
ので、海の色は良くなかった。


●(204)カマルグ地方:Camargue
独特の雰囲気をもつ大湿原 


 ローヌ川が地中海に注ぐ前のアルルあたりで2つに分れていて、東側がグラン(大)ローヌ、
西側がプティ(小)ローヌと呼ばれ、その間にできたデルタ湿原地帯がカマルグ地方で、
面積は95 000ヘクタール(東京23区の約1.5倍)もあり、フランスでも独特な景色を有する地域である。
今回、初めての訪問なので、特に楽しみにしていた。 
サント・マリー・ド・ラ・メールから出発して、車で回れる一番内側のヴァカレス湖に近い道で、
サラン・ド・ジローまで、あちこち立ち寄りながら行き(約3時間30分)、帰りは、サント・マリー・ド
・ラ・メールまで、一番良い道(D36c-D36b-D37-D570)を通って帰った(約1時間30分)。
地図上(Mp4)、往きの通過点は黄色の印(●)で示した。 サント・マリー・ド・ラ・メールを出て
しばらく行くと、右手のわき道奥に、車が多く集まっているので、何かと思って入っていく。そこには、
多くの見物人が来ていて(Ca1, 2)、馬で、牛を追う訓練が行われていた(Ca3)。多分、技術を指導
しているプロのガルディアン(牧童:カー・ボーイ)と、乗馬体験をしている素人の集まりではないかと
想像する。この日は日曜(6月20日)なので、このような催しが行われ、見物者は、乗馬体験者の
家族や友人ではないかと思う。ここの馬は白馬であるという特色がある。「エグ・モルト」の項で
述べるが、馬は、生まれた時は、黒い。また別の体験者の馬の集団が、遠くに行くまで、しばらく
見てから、先に進む。遠くに、この地の名物のフラミンゴの集団が見える。望遠で写したので、
画像はややぼけている(Ca4)。ここに写っている1.5倍ぐらいの長さで1列に並んで、餌を採っている。
餌は、塩水湖にいる貝である。1列に並んでいるのは、もれなく餌を取るのに一番効率がよいことを
学習しているためと想像する。そこに、先ほど出発した馬の一団が、塩水湖((Malagry潟)の中を
近付いてくるが(Ca5)、フラミンゴはやや、遠くに避難したが、相変わらず、一列に並んで餌を
啄んでいる。馬とフラミンゴの足の位置から、この付近の湖の深さは、ごく浅いことが分る。
舗装していないこの道は、対向車や、追い抜いていく車もほとんどない。右手にレールが
見えてきたので(Ca6)、これは、塩など、生産物を運ぶためのものと想像したが、ミニトレインの
ものであることが後でわかる。景色は、特に良いということはないが、荒涼とした独特のものである。
しばらく行くとメジャーヌ(Mejanes)という開けた場所に出る。そこには、ミニトレインの発着所が
あった(Ca7)。最小人数8人で運行し、20分間の遊覧で、大人4 Euro、子供3 Euroと書いてあり、
切符売り(運転手兼務)も居たが、日曜にもかかわらず全く誰も来ないので、我々も乗れなかった。
これで営業が成り立つのかと心配になる。また、この場所には、闘牛場もあり、中に自由に入れる
(13:30頃)(Ca8)。ここの闘牛は牛を殺さないそうで、見物してもよいが、闘牛は、日曜の15時30分
からで、まだ、行われていなかった。また、同じ場所では、乗馬ができる場所があり、馬が20頭
ぐらい待機していて、客も待っているが、シエスタのためか、営業主がまだ現れてなかった(Ca9)
(13時40分)。費用は、1時間15 Euro、2時間28 Euro、半日41Euro、1日72 Euroと書いてある。
付き添いがいるものと思うが、はっきりは分らなかった。ポニーによる散歩は、15分で、4 Euroと
書いてあるから、これは、子供向けで、多分、全部に、付き添いがいるのであろう。  ヴァカレス湖
の北側に面するところの道端(Mp4のD37のPの印のあるところ)に高さ3 m程度の展望台が設けて
あり、そこから、辺りが見渡せる。ヴァカレス湖はよく見えないが、北側の湿原に、放牧された白馬が
見える(Ca10)。 更に進み、VilleneuveからD36bに入って南下すると、ヴァカレス湖の東側に面した
ラ・カペリエール(La Capeliere)というところに、インフォメーションがあり、そこで、近郊の製塩場所を
教えてもらう。これから行くサラン・ド・ジローの他に、少し離れたエグ・モルトを教えてもらい後日役立つ。
この日も、強風であったが、オオハクチョウが、一羽ほとんど動かず、浮かんでいた(Ca11)。
川の流れのように見えるが、風による波で、水の流れはないものと思われる。 サロン・ド・ジロー
から2 kmぐらい南に、製塩所があり、そこに、高く塩の山が積まれている(Ca12)。今まで見てきた
塩の山で、ニュージーランドで見たものより大きいので感心する。日曜なので、労働者の姿はない。
しかし、付近にある土産物店には、当地の名産の、塩、米、ソーセージ、ワイン(砂地のワイン)が
売られていた。当地の塩(塩の華)(Ca13)以外にもヒマラヤの岩塩も販売されていた。ヒマラヤの
岩塩は(Ca14)、当地産のものより、むしろ安価で、日本の伊那のグリーン・ファーム(マーケット)
でも販売されていたから、世界的に出回っているのかもしれない。さらに、赤い米と白い米が販売
されていて(Ca15)、ここは、フランス産の米の6割を生産する場所であるそうだが、米が生育して
いる場所は気付かなかった。集積された塩の山を見ると、もう少し安くても良いと思うが、意外に
高価である。あの積まれた山から、食塩にするには、更に手間が必要なのだろう。帰路、再度、
サロン・ド・ジローに立ち寄り、製塩工場の外から、日曜で人のいない中を写す(Ca16)。 
カマルグ地方は、今回線状にしか回っていなく、車で行けないところを歩いて見たら、更に
面白い所が見えるのだろう。鳥や動植物に興味があれば、一層面白い所である。
ナチュリスト・ビーチ(地図Mp4上:Plage naturiste)もあり、広義の自然主義者に、大変適した
地域であろう。なお、フランス語で、naturisteとnaturalisteは区別され、前者は、自然回帰論者、
ヌ―ディスト、後者は、自然科学者、自然主義者を意味する。英語も最後の”e”は無いが同様である。


●(205)サント・マリー・ド・ラ・メール:Stes-Maries-de-la-Mer
マグダラのマリア等の漂流地、カマルグ地区の入口


 当地は、紀元40年頃、イスラエルを追われたマグダラのマリアなどが、漂着した地として
知られている*)。彼女らを記念した教会の外観は要塞のようである(Mm1)。
入場料を払って、屋根まで登る(Mm2)。鐘楼は、20世紀の初頭に再興された。屋上からは、
近くの土産店(Mm3)や海(Mm4)などが見える。教会の地下に行くと、サラが祭ってある(Mm5)。
祭壇は石棺からなっていて、その上の箱にはサラのものと推定される骨が収められている。
Merci Ste Sara(聖サラに感謝)と書いた石板も見える。その右横には、黒肌の顔のサラの立像が
見える(Mm6)。ジプシーの信者が絶えず参拝しているらしく、多くのローソクの火が灯っている。
当地は、先に述べたようにカマルグ地方の入口の町でもある。

*) マグダラのマリアらの漂着 
ミシュランの案内書には、当地について、大略、次のように記述してある。紀元40年頃、聖母の
妹マリア・ヤコベ、12使徒ヤコブとヨハネの母マリア・サロメ、復活したラザロとその2人の姉妹
マルタとマグダラのマリア、マクシミヌス、ケドニウス、黒人の召使サラ(マリア・ヤコベと
マリア・サロメの召使)は、エルサレムのユダヤ人により流され、この地にたどり着く。
聖母に捧げる慎ましい小礼拝堂を建立した後で、このキリストの使徒たちは別れ別れになり、
マグダラのマリアはサント・ボームで悔悛の生活を続け、2人のマリアとサラは、このカマルグに
残った。カマルグに残った彼女たちが亡くなると、信者たちがその遺物を小礼拝堂に収めた。
黒人のサラは、ヨーロッパのジプシーたち(今はロマ人と呼ばれる)の守護聖人とされるよう
になった。年に2回、当地で巡礼の祭りが行われ、民族衣装を着たアルルの女たち、
ガルディアンのパレードや競馬、闘牛などが行われ、ヨーロッパ各地からジプシーが集まり、
大変な賑わいを呈する。



●(206)トローネ修道院:Abbaye de Thoronet
シトー派修道院3姉妹の長女

 12世紀に華美な修道会に反発して戒律、質素な生活を重んじてシトー会の修道院が人里
離れたところに作られるようになった。プロヴァンスには、シトー派3姉妹と呼ばれる修道院があり、
トローネのそれは、このうち最初にできたので、長女ということになっている。
修道院には、男性修道士しかいないが、清楚な感じから、姉妹と名付けられた。入場料は7 Euroで、
個人として自由に見られる。
あとの2つについては、「シルヴァカーヌ」、「セナンク」の項で述べる。これらの3つの場所の関係は、
地図(Mp5)に示した。この修道院は、1136年に、トローネ村のはずれに建てられた(Th1-6)。
シトー会士は職人の手を借りず、自分たちでひとつずつ石を積み上げて修道院を築いたという。
単純で、飾りのない様子は*)、確かに、禅の雰囲気と共通しているように感じられる。

*) シトー派修道院の雰囲気 
饗庭孝男著「フランス芸術紀行」(NHK出版)では、次のように雰囲気を良く描写している。
「土地の石が赤みを帯びているために、それを使った建物に光が反映して、内部はまぶしいばかりだ。
シトー会の建物はどこでもそうであるように、調和と均衡に満ちた構成と堅古で厚い石組である。
傾斜のある地形のため、回廊の一部に階段がついているが、全体として静かで重い緊張感を
持っている。」内部が「まぶしいばかり」という感じはしなかったが、非常に暗いということはなかった。



●(207)トゥールトゥール:Tourtour
フランスで最も美しい村のひとつ


 標高635 m、村民約500人、100 kmにも及ぶ眺めなど、「フランスで最も美しい村」のひとつに
選ばれているだけのことはある。
天国から下界を見ている気分になる「天空の村」という表現が、エアーフランスの宣伝誌に書いて
あった。街には、観光客も適度な数の観光客は来ていて、のんびり散策したり(To1)、お茶を
飲んでいる(To2)。上記の見晴らしの良いところには、何故か、虫の彫像が立っていて(To3)、
この写真の他にもう1つある。ここからは、サント・ヴィクトワール山も見えると書いてあるので、
写真(To4)の右にある三角の山がそれであろうか。地図上で、この山までの直線距離を測ったら
58 kmであったから、見えても不思議はない。村の小高い所には、教会があった(To5)。11世紀の
建設で、19世紀に修復され、絵になる雰囲気をもっているので、写真で紹介されているのをいくつか
見たことがある。


●(208)ヴィルクローズ:Villecroze
穴居人の洞窟のある場所


 ヴィルクローズはオプス(Aups)の東南約7kmにある。ここに、2階層の自然の洞窟があり、
16世紀には、領主が住居としたので、「穴居人の洞窟」と呼ばれた。観光案内書にあまり記載が
なく、同朋社の案内書の記述で知り、行ってみた。
洞窟の横には、滝があり(Vc1)、眺めも独特である。洞窟の下側は、公園となっていて、
草木が植わっている。そこに枇杷の木があり、学名が、「Eriobotrya Japonica」とあり、枇杷は
日本が原産なのを知る(Vc2)。2時までは、シエスタで、閉まっており、2時にリュックを背負った
案内係のおばさんが、どこからか現れて鍵を開け、切符を売ってから、その場所で、説明をフランス語
で10分近くする。入場者は、他に家族ずれで、6−7人いた。説明の後は、自由に回れる。どういう
理由か知らないが、写真撮影は禁止と言われたが、皆さん撮っているし、理由もはっきりしないので、
自分も撮る。中はある程度明るくて、ある種の生物に光が困るという訳もないから、撮影禁止の
理由も分らない。太い鍾乳石は下まで届いていて、しかもすっかり乾いていたので、相当の年月
かかっていることを知る(Vc3)。今まで、あちこちの洞窟に行ったが、鍾乳石が下まで届いて乾いて
いるのをあまり見たことがなかった。きれいな水が溜まっている所もある(Vc4)。写真(Vc1)が、
示すように、洞窟のすぐ横に滝が流れているから、水があっても不思議はない。この日は日曜日で、
下の公園の一角では、60人程度の昼食会が開かれていた(Vc5)。どういう組み合わせなのか
分らないが、同年輩のように見うけられるので、学校の同窓会かもしれない。わざわざ、頼んだのか、
スピーカーを用意して音楽を流している若者もあり、テーブルセンターなど、地元の特産品を販売して
いる野外の店も数件立ち並んでいた。観光客は、洞窟を見に来る10人強程度しかいないから、
この会のために、出店を依頼したのかと想像する。ちょっとしたお祭りという感じである。自分も、
プロヴァンス地方の土産物を買う。何とも、プロヴァンス的な長閑な「草上の昼食」風景であった。


●(209)クロワ湖:Lac de Sainte Croix
大きな人造湖


 フランスは、海、山、河、森、平原など自然に恵まれているが、不思議と大きな湖は少ない。
南フランスにも、大きな湖は、ほとんどなく、多分、南仏では、クロワ湖が、一番大きいと思われる
ので、行ってみる。湖の南端はオプスの北、10kmぐらいにある。
面積22 km2(琵琶湖:670 km2)とフランスの湖としては大きいが、これも、ダム建設による人工湖で
ある。湖底に沈んだ村もあるそうである。途中の道路から見る光景が、比較的広範囲
にみられる。真ん中には島がある(Lx1)。その島には、ヨットで行っている若者たちがいる(Lx2)。
水の温度は、低く、流石に泳いでいる人はいないが、水辺で日光浴している人はいる(Lx3)。
しかしながら、あたりは静まり返っていて、寂しささえ感じさせられた。この帰りに、風光明美な
ヴェルドン渓谷をまわりたかったが、道の入口まで行ったら、車が行き違えないほどの狭さだった
ので、先がどうなっているか分らなく、先で、泣きたい思いをするのもいやなのと、時間も遅かった
ので、行くのを止めて、帰路についた。


●(210)エクス・アン・プロヴァンス:Aix-en-Provence
セザンヌのアトリエ


 この町には以前(2003)に、学会の後、車で来たことがあるが、その時は、下調べなしで立ち寄り
駐車場も見つけられず、どこも見ずに退散した。今回は、セザンヌの家を見ることを一番の目的として、
その他の場所の訪問は特に予定しなかった。それで、セザンヌのアトリエをまず訪問する。
指定の駐車場、セザンヌの家を通り越して、ちょっと坂道を上って先まで行ったら人通りが少ない所に、
無料で車を停められる場所があり、そこから、歩いて坂を下って行ったが、指定の駐車場からと
同じくらいの距離だった。家は住宅街にあり、ルノワールのそれに比べて質素であり、入口は
普通の家と変わらなく(Ax1)、戸口も普通の家の大きさで(Ax2)、見物するような庭はほとんど無いに
等しい。案内所に書いてあったから、そう期待はしていなかった。アトリエは2階にあり、適当に人が
溜まると説明員が説明してくれる。
ここも撮影禁止なので、ここでは、購入したパンフレットからコピーしたものを示す(真中の縦の筋は、
ページのつなぎ目)(Ax3)。髑髏が3個置いてあるのにちょっと驚くが、ベルギーのポール・デルボー
のアトリエにもあったから、顔の輪郭を描くときの参考になるのであろう。説明が終わると、写真の
右手に見える引き出しの中にあるセザンヌの複製画をプリントしたものを撮り出して、見る人が多い。
この部屋だけで、他に特段見るものはない。そこで、一端屋外に出て家に沿って先に行くと、
ヴィデオで、セザンヌの絵を説明する部屋があり、そこで、十数人が映像を見ている。見学する
場所は、実質それだけだが、当地はTGVも止まり交通の便が良いこともあって日本人の個人で
来ている人が多い。多分、団体で、来て、ここで宿泊し、そこから個々に来られているのではないか
と思う。家の周りを一回りできる庭は、ほとんど誰も歩いていなく、特筆することもないが、芸術作品
なのか、セザンヌらしくないものが置いてあった(Ax4)。後で、案内書を見たら、アトリエの坂道を
上って行き老人ホームのすぐ横の公園からサント・ヴィクトワール山が正面に見えて、そこから
セザンヌは、この山の絵を何枚も描いたことを知る。車を停めていたすぐ近くだったのに、このことに
気づかず、見逃してしまった。 11時半頃、セザンヌの家を出て、ビベミュスの「石切り場」を見に
松林に囲まれた舗装していない道(D17)を、3 kmほど車で行く。石切り場は、早朝ガイドツアーで
入れる以外は閉まっているので、入口の写真だけを撮る(Ax5)。付近を散歩している人は、数人いた
が、寂しい場所である。「地球の歩き方」に女性の1人歩きは厳禁と書いてある。このD17は、
セザンヌの道とも呼ばれ、この道を更に7 kmほど先に行けば、サント・ヴィクトワール山の麓に
出られたことを後で知った。しかし、これ以上、エクス・アン・プロヴァンスは探訪することなく、
後にしてシルヴァカーヌに向かう。途中にコクリコの群生に出会う(資料編の6Fr1)。エクスという
のは、水の意味で、この町には、50に近い噴水があることを後日、NHKのテレビで見たが、
現地では、それも見なかった。この町は、2度も訪問しながら、ほとんど見ていないのに等しい。
この町は、泊って、ゆっくり散策するのに適しており、車で来る所ではない。 

●(211) シルヴァカーヌ修道院:Abbaye de Silvacane
シトー派の3姉妹のひとつ
 

 この修道院はシトー派3姉妹の3女に相当する。ここも、斜面に建てられていることが、
正面からの写真で分る(Si1)。3姉妹修道院のうち、一番小規模ではあるが、入場料は
どこも、7 Euroである。3姉妹のうち、現在、修道士が住んでいない唯一の修道院である。
内部の他の2つとの違いは、素人にはよく分らない(Si2)。写真(Si3)は、「セナンク」の項で
述べる「芸術新潮」によれば、修道士の集団の寝室で、硬い板か薄く敷いた麦藁だったそうで
ある。中央にあるのは、回廊へ降りる階段である。中庭は、修道士が住んでいないためか、
ほとんど手入れされていなく、それはそれで趣があると思う(Si4)。しかし、入口の広場に
立っている大きな彫像は、最近建てられた芸術作品であろうとは思うが、質素・簡素を旨と
するシトー派修道院の趣旨と雰囲気を壊すもので、まったくいただけない(Si5)。「セナンク」の
項で述べるベルナールが見たら、さぞ、怒り嘆くであろう。

●(212)ラコスト:Lacoste
サド侯爵の古城


 ラコストは、サド侯爵(1740-1814)の城のあるところである。40年以上前に、自分の留学を
控えて、留学とは、どういうものかを知りたくて、遠藤周作の「留学」3部作を読んだ。それぞれは
独立した割合短い作品であるが、遠藤自身の、戦後間もない時期の、日本からマルセーユ
まで、船で行った時代のフランス留学に基づいた話と思われる。その第3部(そこでは第三章
と名付けている)は、「爾も、また」という題名で、主人公のサド研究家の田中が、多くの留学生
同様、結局は、結核にかかって、思い半ばで、日本に帰らねばならないという、暗い物語である。
この3部作を読み、留学とは、こんなに精神的負担の大きく、大変なものかと、自分の留学前に
緊張させられた。この小説では、まず、主人公が、冬にパリからアヴィニョンに列車で行き、そこから、
バスで向かおうとするが、雪で、たどり着くことを保証しないタクシーを、何とか頼みこみ、行こうと
するが、近くで、もうこれ以上行けないというので、歩き始めたが、城は見えるが、引き返さねば
ならなくなり大変空しい思いをする。この小説は、衝撃的であった。そして、いつかは、このラコスト
という地を訪問したいと思うようになった。これが、プロヴァンスという地方に注目をした最初であった。
40年以上前のことである。そして、今回、ここにも行くことを計画した。城の麓には、簡単に着くことが
できた。城に登っていく道の入口を探すのに少し、迷った。折から、上から来る道から、サイクリング車
のグループの若者が下りてくる(Lc1)。ヘルメットを着けているが、上半身裸なので、転倒したら
どうなるのかと無謀さに驚く。この付近は、サイクリングコースになっていて、サイクリストも多いが、
坂道を登るのは大変だろうと思うが、ツール・ド・フランスの開催国だけはあると感心する。
この舗装した道も、城まで行けるとは、上に行くまで分らなかった。急な坂を登って10数分で、
上まで登ることができ、そこに古城があった。城は11世紀に建ったが、その後、改修が繰り返され、
サド侯爵が城主になったのは、1627年であり、42室あった。2001年にピエール・カルダンが購入した。
それで、カルダンのシャツにLacosteという文字が入っているのだろう。城は、確かに廃墟のような
様相を呈しているが、遠藤周作の小説*)に見るような、そして、サドが、凄惨の限りを尽くした場所
とは到底感じられない明るさがあった(Lc2)。このサド侯爵の像は、ピエール・カルダンによって
建てられたものと思われるが、サド侯爵が、自分の描いていたイメージとは全く違って若くて
端整なのに驚く。城は廃墟の様相を呈しているが、誰かが住んでいるらしく、部屋には電気が
ついているのが分る(Lc3)。頂上近くに鐘楼が残っていてコクリコも咲いている(Lc4)。遠くには、
ボニュー村(Bonnieux)が見える(Lc5)。ボニューを通って来たが、見る時間は無かった。サドの
城のある頂上には、数人程度の観光客がいるが、決して多くは無かった。ただ、中国人が、
個人的に数組来ていた。サドは中国でも有名なのであろう。この村は、住人約500人だそうであるが、
観光客相手の店は、数件しかない。カフェ・レストラン「サド」は繁盛している(Lc6)。カルダンは
音楽祭などを主催して、この地に若者の注目を集めようとしていると聞く。

*) 遠藤周作のラコスト 
「爾もまた」のラコストに関する部分の触りを記す。「ラコストの城が遠くに存在するのは俺自身の
せいだ。城が俺を寄せ付けぬのは俺のサドが本物ではないからだと田中は立ちどまって考えた。
粉雪をまじえた突風が顔と眼鏡にぶつかってくる。「どうするんですかい」運転手が下方から手を
口にあてて叫んでいる。帰ろうと田中は決心した。彼は丘と丘の上の白い城に背をむけてもうそれを
二度と見まいとするように懸命に戻っていった。」ちなみに、アヴィニョンからラコストまでは、
直線でも44 kmあり、大きな道は除雪してあっても、大変なことであろうし、多額のタクシー代や
チップも必要とするに違いない。そして、また翌年、3月には、雪の残る、この城まで上り着くことが
できた。「日本人でここまで来たのは自分だけだ。」こう満足するのもつかの間で、「田中は、城には
いるが、このとき喀血する。神をかいま見たものの運命を、暗示するように、血は白い雪を染める。
彼は自分がある確証を獲たのだと、血を見ながらぼんやり考える。」そして、爾もまた、成果を
上げられずに日本に帰らねばならなくなる。村松剛は、文末の解説の最後に、「主人公は、城に神
そのものの姿を見ているのである」と述べている。 また、この小説では、この城について、遠藤は、
主人公の田中を介して、この城を次のように解説もしている。「ラ・コストの城は、サドにとって彼の
巨大な夢をともかくもひそかに実現しえたただ一つの場所である。そして世間の非難や糾弾を蒙る
たびに侯爵は鼠のようにこのプロバンスの小さな城に逃げこんだ。ここでじっとして動かぬ限り、
ともかく、安全な期間が、短くはあったが、彼の生涯に幾度かあったのである。結婚後間もなく
女優のボウヴォワザン、近隣の貴族を招いて劇やバレーを楽しんだのは此処である。一七七六年に
彼がアルキュエイユ事件やマルセイユ事件につづいて起こしたトリレ事件もこの城で行われた筈だ。
(中略)それからまたヴィエンヌやリヨンの娘たちと遊蕩にふけったのもこの城である。城が破壊された
のは一七九〇年の九月である。仏蘭西革命の余波はこのラ・コストまで及び、九月十七日には
部落民はこぞって城に雪崩れこみ、家具や品物を略奪して去った。その通知を巴里で受け取った
彼はこう叫んだ。「もはや私の美しい思い出のラ・コストはない。絶望のきわみだ」」。なお、遠藤の小説
では、「ラ」を定冠詞として扱い、「ラ・コスト」と記述しているが、今は、どの案内書をみても「ラコスト」と
書いてある。



●(213)メネルブ:Menerbes
「プロヴァンスの12ケ月」で一躍有名になる


 人口1000人余りの小さい村であるが、ピーター・メイルの「プロヴァンスの12ケ月」で、有名になり、
イギリス、アメリカ、日本からの外国人観光客も多いらしく、入口の駐車場近くには、村は、
ヴィデオ・ウオッチングしているという無粋な警告がある(Me1)。そうしなければならないほど、
観光客が見にくるようになったということであろうか。ピーター・メイルの続編「南仏プロヴァンスの
木陰から」小梨直 訳(河出書房)も同様にユーモアに富んで面白い。村の教会(eglise St.Luc)は、
14世紀に建てられたゴシック様式のシンプルなものである(Me2)。人家は主に舟形をした高台にあり、
景色を見ながら、のんびりと談笑(午後7時10分)する2組の夫婦らしき人もおり、メネルブらしさが
感じられる(Me3)。観光客らしき人も、一時に比べれば今はかなり少ないようで、三々五々、散歩を
静かに楽しんでいるようであった(Me4、5)。村を写生している若い女性もいた(Me6)。ここは、
「フランスの最も美しい村」のひとつである。この条件を満たすには、歴史的あるいは記録に残る
最低2つの場所あるいは建造物を有することが必要であるが、この村のどれが該当物なのかは
良く分らなかった。しかしながら、全体的に静かな雰囲気は、良かった。ピーター・メイルの住んで
いた場所は、村はずれにあると聞いているが、観光客が押し掛けてはたまらないので、案内書類
には表示されていない。ピカソは、恋人のドラ・マール(Dora Maar)を伴って、この村に滞在したこと
がある*)。

*) ピカソとドラ・マールのメネルブ 
ピカソは1936年から45年まで、5番目の恋人として、写真家のドラ・マールと付き合っている。
ドラ・マールは、「ゲルニカ」の現場に写真家として、立ち会い、また、ピカソのこの絵の制作現場で、
やはり恋人のピカソとの子供までいたマリー・テレ―ズと取っ組み合いのけんかをしたことでも知られる。
そして、ピカソは、ドラ・マールと別れる際に、彼女に、メネルブにある屋敷を与えた。
このことを、自分は良く調べていなかったので、その屋敷を見ることができず、少し残念であった。
ここに、1937年(ピカソ55歳、ドラ・マール30歳)に描いた「ドラ・マールの肖像」を示す(Me7)。
有名な写真家マン・レイがドラ・マールを撮った写真が、ネットでも見られるが、大変美しい。
ピカソの描いた肖像画は、全く似ていない。個人的な意見であるが、肖像画は、写実で
なければ意味がないと思う。この時期のピカソに写実を期待するのは、無理なのだが。



●(214)ルシヨン:Roussillon
オークルの美しい、「フランスの最も美しい村」のひとつ


 ここの特色は黄土(オークル*);赤から黄色まで10数種類の色がある)を産することにあり、
それで壁などを造った家々がある(Ro1, 2)。写真(Ro2)で見える、一番高い塔がサン・ミシェル教会
である。オークルの産地が見学場所(入場料:2.5Euro)になっていたり(Ro3-5)、また絵具を販売
したりしている。割合高価であったように思う。このオークルのお陰で、他のプロヴァンスの村とは
違った大変明るい雰囲気を持つ村であり、観光客も多く、カフェなどで、談笑している。「フランスの
美しい村」のひとつである。オークルは、もともとは、海底の沈殿物で、通常は、採掘した土のうち
90%が砂で、オークルは10%しか採取できないが、ルシヨンの土は、60-70%がオークルである。なお、
この村は、フランスの地域区分に出てくる、ランゲドック・ルシヨン地方のルシヨンに属するわけでは
なくプロヴァンス地方に属する。

*) オークル 
後でミシュランを調べたら、オークルの産地巡り(全長49 km、所要約3時間30分のコースが
あるそうで、その中にリュストレイユのコロラド(ColoradoでRustrel)というところがあり、2つの
遊歩道を通って、オークル採取場が続く巨大なコロラドの景観が見られるそうである。
天然の展望台もあると書いてある。ル・シヨンが1星なのに対して、ここは2星になっている。
見逃して、大変残念なことをした。



●(215)ゴルド:Gordes
外観がすばらしい村


 ゴルドの丘に最初に人が住み始めたのは紀元前6000年頃と言われている。乾いた岩に
穴を掘って住んでいたらしい。ゴルドは、プロヴァンスの案内書などで、代表的村として、
その景観が、紹介されている。この村の景色が素晴らしいのは、その外観が一番であり(Gd1)、
次に、村から見た広々とした周りの風景(Gd2)であり、村自体はそれに比べれば、多少魅力の
少ないところと感じる。それでも、中心にある1525年に建てられた城の周りに、観光客は多く、
レストランや土産屋も多く(Gd3)、ギャラリーもある(Gd4)。城は、12世紀の要塞があった場所に
16世紀に建てられた。この村の標高は111m−635 mという高低差があり、それが景観をつくって
いて、「フランスの美しい村」のひとつに選ばれている。この村から2 km離れたところに石造りの20の
家の集落のあるボリー村*)というところがある。以前の案内書では、車を駐車場に置いて10分ぐらい
歩かねばならないと書いてあるが、行ってみたら、すぐ入口の前まで行けるようになっていたが、
対向車があると、行き違いできる所まで下がらねばならないほどの道であった。村は今は、博物館に
なっていて入場料(2.5 Euro)を必要とする。この古代住居は、石灰岩の厚板でできたドーム型をして
いて、壁の厚さは1.5 mもある(Gd5-7)。

*) ボリー村 
ミシュランの説明では、200年から500年経っているボリー(Bories)が20軒、復元されている。
大型のものは住居として使われ、それ以外は羊小屋など農業用建物であった。
3500年前からあるこの種の建造物は、リュブロン山とヴォークリューズ山地の斜面に、
その数3000あるという。多くは、鉄器時代から18世紀まで、あり、18世紀のものが作りが
一番しっかりし、いずれの時代も人が住んでいた。ボリーはその場所で入手される材料で作られた。
岩山からはがれた石灰岩の石盤や畑の除石などである。平均10 cmの厚さがある。壁は、厚さ
0.8-1.6 mあり、内外とも石積みはすばらしい規則正しさで、屋根の部分には、持込み積みの
「擬ボールト」という方法が使われている。



●(216)セナンク修道院:Abbaye de Senanque
シトー派3姉妹修道院中で一番大きい


 ゴルドからは、狭い一方通行の急な道を下って行ける。セナンクとゴルド間は、舗装した
2車線道路でも結ばれているが、大分迂回しているので、一方通行路よりは、距離は大分遠い。
セナンクからゴルドに車で戻るには、この道しかない。この修道院は、1148年の建設で、
シトー派3姉妹修道院*)の中では2女に相当するそうだが、大きさでは、3つの中で一番大きい。
入場料は、3つとも同じ(7 Euro)であるが、ここだけは、ガイドツアーで見学しなければならない。
ゴルドに近いこともあって日本人の団体旅行に人気があるようで、バス2台の団体が来て、
その方たちは、特別に日本語の案内で入って行った。我々は、一般のガイドツアーだったので、
フランス語の丁寧な説明で(パンフレットは日本語)、1時間以上のツアーであった。内部の撮影は
自由であった(Se1)。ここセナンクの修道院は、そこで育てられているラヴェンダーと建物との
組み合わせは絵になるので、プロヴァンスの案内書にはよく掲載されている。しかし、まだ、
2週間ぐらい季節が早すぎるようで(6月18日) 、ラヴェンダーはここでは、この地では、まだつぼみ
の状態だった(Se2-4)。ラヴェンダーのみならず、裏庭には、野菜などが植えられていてよく手入れ
されていた(Se5)。なお、この地の標高は370 mであるので、ラヴェンダーと称するものは、
ラヴァンダン(lavandin)であろう。ラヴェンダーとラヴァンダンの違いについては、「資料編」で述べる。
見学の前に時間があったので、裏に回って、内部の教会での洗礼式を後ろのドアから入り後ろから
見学した(Se6)。後に、内部見学でこの教会内にも案内されたが、その時は洗礼式も終り、前部の
入口から入ったので、最初は、先ほど洗礼式を見学した教会とは、気付かなかった。修道院を辞す
ときに、たまたま、修道士の住まい(Se4の奥に見える坂道の右奥にある)から出てくる高齢の会士を
遠くから拝顔した(Se7)。僧服は粗末な毛織物で、漂白も染色もしていないそうである。

*) シトー派3姉妹修道院 
「芸術新潮」の2002年8月号では、シトー派の3姉妹修道院が、詳しく紹介されている。
そこには、大略、次のようなことが述べられている。ブルゴニュー地方のクリニュー修道会の贅沢主義
とは別の道を求めて1098年に、シトー派は創設され、ベルナール(1090-1153)という傑物修道士に
よって広められ、12世紀末には500を超える修道院ができた。質素を旨とし、食事も1日に1度か2度、
わずかな量の雑穀の黒パンと味付け無しの茹野菜のみであった。ベルナールの主張は、タンパン
(扉口上部の半円または尖塔アーチで囲まれた部分)や柱頭に醜悪きわまりない怪物を彫るのは
馬鹿げた散財で、彫刻や壁画は、瞑想の妨げにしかならず、十字架ひとつあれば十分であるとする
ものであった。そして、シトー会士は、付近の岩山から石材を運び出すところから修道院の建設を全て、
自ら行った。そして、その石の積み方や、石の角の処理が、実に几帳面で、ブルゴーニュのクリニュー派
の職人まかせで作った修道院より、ずっと丁寧にできている。シトー会士は、夜8時に寝て、夜中の2時前
に起きた。寝床はかたい板か麦わらを薄く敷いたもので、着の身着のまま、靴も脱がずに大寝室に
枕を並べた。シトー会士で28歳を超えて生きるものは、稀であったというから、禅僧の修業以上に
厳しい生活を、年間通して行っていたことになる。



●(217)レ・ボー・ド・プロヴァンス:Les Baux-de-Provence
フランスで最も美しい村のひとつ・奇観の村


 街に入るには、下の道路上に駐車して(1日4Euro)、マージュ門から入り、坂道を登る。
村の海抜は52 m-310 mにわたっているというから、最低地から頂上には250 mぐらい登る
勘定になるが、我々は、頂上まで行かなかったので、この半分強登ったのだろうか。レ・ボーは、
プロヴァンスで最も知られた奇観を呈している。台地は、長さ900 m、幅200 mで、台地の上からも
独特の眺望が楽しめる(Ba1)。入って途中に由緒ありげな建物の廃墟があり、そこに、
“Post Tenebras Lux 1571”という文字が見える*)(Ba2)。1571はこの家の建てられた年号であろう。
アルミニウムは、当地で、発見されたボーキサイト(Bauxite)という鉱物から製造される**)。鉱物を
売店で販売しているので(Ba3)、記念に購入した。自分は、化学を専攻していたので、当地には、
特別な関心があり、これが2度目の訪問である。前に来た時は、何も聞かなかったので、この鉱物の
発見の場所などについて何か情報を得るために観光案内所に立ち寄って聞いた。こういうリクエスト
をする客はめったにいないらしく、窓口の女性は大変親切にも、いろいろ資料を探して、コピーしては、
これは、あまり適当でないといい、最後には、2階にまで上がって、資料を探し、フランス語の説明書を
数十ページにわたってコピーしてくれた。コピー機が旧式で、大変遅く、家内を、30分ぐらいも外に
待たせた。この間、他に案内所に来る客で時間のかかる人は、ほとんどいなかったが、もう1人の
男性が応対してくれていた。サン・ヴァンサン教会では、土曜日なので、結婚式が行われて終わる
ところだった(Ba4)。そこの広場から、下の地獄谷が見える(Ba5)。ここは、かって採石場であり、
今や、巨大な自然のスクリーンとして使われているとのことである。下に降りて近くでみることは
しなかった。街中を歩いていると、洒落た土産物屋があるので、思わず写真を撮る(Ba6)。帰国して
から「ロンプラ」を見ていたら、その1ページを割いて、プロヴァンスとコート・ダ・ジュールの最高の
場所として、当地が挙げられ、この店の右側部分の写真が、その代表として掲載されていて、
驚く。自分の、美的鑑賞眼もそう悪くないらしいことを知る。これは、写真の左側の店の
ショーウインド―の役割をしている。頂上の方向に登っていくと、城砦に入るには、有料に
なっていて(Ba7)、以前に見たことがあるので、先もやや急いでいたので、入場しなかったが、
入るべきであったと後で思う。なお、以前来た時は、無料で入れた。中世に栄えたボー一族は、
1426年に断絶し、プロヴァンス伯領に組み入れられ、1481年にフランス王国に併合される。
その後ボーの城はプロテスタントの牙城となる。上記のカルヴィン派の言葉は、その事情を
表している。そして、1623年にリシュリューによって破壊される。1642年にグリマルディ家
(モナコ領主)に譲渡され、ボー侯爵の名前は現在でも、モナコ大公家が受け継いでいる。
ただし、これは名誉上のもので、行政上はフランスに属する。この地が、グリマルディ家
(モナコ領主)と大変、関係深いとは知らなかった。

*) 旧約聖書:カルヴィン派の信奉する言葉 
ヨブ記17:12にある言葉の、ヘブライ語からのラテン語訳で、「光が闇に近付いている。」、
「闇の中で光が近いことを告げるだろう。」、あるいは「闇の向こうに光が。」などと訳されている。
宗教改革(16世紀)におけるカルヴィン派が好んで使った言葉だそうであるから、当地にも
宗教改革の波が来ていたことを示しているのであろう。上記のように、プロテスタントの牙城と
なったために破壊されることになる。なお、Luxという語は、現在、照度の単位として、
現在使われている。Nの表記が今とは違ってИとなっているのは、興味深い。

**) アルミニウムの製造 
アルミニウムの原料となるボーキサイトという酸化アルミニウム鉱物は、このボー(Baux)で
フランス人ピエール・ベルチエ(PierreBerthier)によって1821年(ミシュランには1822年と書いて
あるが、当地の看板では1821年とある)に発見されて、当地の名前に因みこの名前が付けられた。
Bauxという言葉は、プロヴァンス語の”baou”(岩質の尾根)に由来し、この地を外から見た姿を
現している。フランス語では、最後の「x」は発音しないが、この-x-が、英語の鉱物名になった時に、
発音されるようになる。「ボーキサイト(bauxite)」の名称は高校の全ての化学の教科書に記載がある。
ボーキサイトに氷晶石を混ぜて高温で溶かしたものを電気分解してアルミニウムを製造する方法は、
1886年に、ホール(米)とエル―(仏)が、独自に考え出し、その後、100年以上にわたって、今日でも
このホール・エルー法で合成されている。アルミニウムは、1855年のパリの万博で、出品され、ひと目
見ようと多くの人が詰めかけた。当時は、金よりも高価であった。写真(Ba3)のボーキサイトは赤い色
をしているが、これは、酸化鉄が混ざっているためで、酸化アルミニウムは、銀白色(アルミニウム製品
の表面は、通常酸化しているから、その色)である。



●(218)アルル:Arles

 シーザーがガリア遠征(フランス・ベルギー全土やオランダ、ドイツ、スイスの一部)の際、アルルは
船を建造して献上したので、シーザーに気に入られ、ローマの植民地として発展していった。闘技場、
劇場、共同浴場、水道、下水道など、ローマ都市の条件が全てそろった一大商業都市であった。
アルルは1度来たこともあり、家内に主要なところを見せるのが目的で、主要な場所の円形闘技場を
見る(Ar1, 2)。闘技場の観覧席は高い位置にあるので、そこからの眺めは良くローヌ川も見える(Ar3)。
入場券が込みなので、古代劇場(Ar4)も見るが、これは、外からも見られて、わざわざ入るほどの
ところではないが世界遺産の一部である。廃墟の状態で、今まで、見た世界遺産の中で、一番平凡に
感じる。取り残された2本の円柱は「2人の未亡人」と呼ばれている。闘技場は有名であるが、ニームの
それの方が、立派で保存状態も良かったように記憶する。次に、すぐ近くにあるレピュブリック広場に
出る(Ar5)。正面にあるのが、市庁舎で1673-75年の建造である。時計塔は、それより古く1543-53年
にかけて建造された。広場のオベリスクは、アルルのローヌ川対岸にある古代円形劇場から、17世紀に
ここに移されたものである。この右側に、サン・トロフィーム教会がある。聖トロフィームは、聖パウロの
従弟で、弟子であり、マリア・サロメらのサント・マリー・ド・ラ・メール上陸を出迎えたのは彼であったと
言われている。この教会は、入口の「最後の審判」のタンパンや、回廊が、見どころであることを後で
知ったが、下調べ不足で、それらは見逃し、聖母礼拝堂内の「キリストの埋葬」(16世紀)の写真(Ar6)
などを撮っただけであった。知人が、この町を訪問した際、ジプシー(今はロマ人と呼ばねばいけない
らしい)の子供たちに取り囲まれて、懐中を狙われたので、とっさに地面に寝転がって、足をばた
つかせて叫んで助けを求め、難を逃れたと聞いて以来、この町が、怖くなり、今回は、闘技場などを
見ただけだった。民族衣装を着た「アルルの女」は、当地の祭りで見たことはないが、プロヴァンス
地方で開かれた学会の余興で、民族ダンスを見たことがある。30年前のことなので、記憶が違って
いるかもしれないが、あるダンスの中で、全女性が、対面する男性の顔を、何回か、平手打ちする
ところがあって驚いた。アルルのダンスかどうかは、分らないがプロヴァンス地方のどこかのもので
あった。以前に場所がよくわからず行けなかったゴッホの跳ね橋は、今回はよく調べて、現地でGPS
に場所を入力できたので、アルルから南に3 kmの道を簡単に行けた。毎日、多くの観光客がバスで
来るようで、バスの駐車するスペースが十分にある。跳ね橋(Ar7)は、ゴッホの描いた場所からは、
1960年に、運河上に移動・復元しているそうであるが、保存しているのは有難い。行ったとき
(12時半ごろ)は数名の人が見物に来て写真を撮っていたが、常時、画面に人が入るほど多くはない。
橋の横に、ゴッホの描いた絵のコピーが掲示されているのは(Ar8)、比較するのに好都合である。
なお、ゴッホは、1888年2月22日から翌年5月8日に」サン・レミの精神療養院に入院するまでの
15ヶ月間のアルル滞在中約300枚も絵を描いたが、アルルには1つも残っていないそうである。
アルルから、12 kmほど離れたところに、アルフォンス・ド―デの「風車小屋便り」(Ar9)の舞台として
知られるフォンヴィエィユがある。前に1度行ったことがあるが、家内は、まだなので行ってみる(Ar10)。
駐車場が整備されて、バスも留れるようになっているので、団体客も多いのであろう。行ったときは、
午後3時ぐらいであったが、見学者は、ぽつぽつと来ている程度であった。


●(219)アヴィニョン:Avignon
14世紀に法王庁のあった世界遺産の町


 法王庁宮殿とサン・ベネゼ橋などと合わせてアヴィニョン歴史地区が世界遺産となっている。
前(1991、2003)にも来たことがあり、今回は、法王庁とサン・ベネゼ橋以外はあまり見なかった。
法王庁前の広場には、象が鼻で逆立ちしたような、像が立っている(Av1)。一時的のものかも
知れないが、作品自体、あまり感心しない。南フランスには、芸術家が多く住んでいるためか、
街の中などに、以前は見なかった新しい芸術作品が立っている(例:モナコ、サン・トロぺ、
シルバカーヌなど)。いずれも、回りの風景と調和せずグロテスクにさえ感じて良くない。7月上旬に
行われる演劇祭用のものなら分るが、これが、恒久的に置かれるなら、世界遺産を駄目にするもの
であると感じる。法王庁の内部見学は、入場料(60歳以上10 Euro)の中にオ―ディオホーン代も
含まれていて、日本語もあり有難い。各教皇についての説明は長いので、端折って聞いた。
写真撮影は許されたので、教皇の写真などを撮る(Av2)。法王庁からの外の景色も良い。
法王庁の1部(Av3)、ローヌ河の森に覆われたピオ島-バルトラス島(この2島はつながっていて
境はよく分らない)、その先のヴィルヌーヴ・ザヴィニョン(Av4)、サン・ヴェネゼ橋(Av5)が見える。
屋上にある軽食レストランで軽食を取る。 次に、日本でも有名な歌で知られた、サン・ベネゼ橋**)に
行く。ここは、前に2度来たことがあり、2回目は、ガイドホーン付きのオプションを選んで見学したが、
今回は、全員、ガイドホーン付きになっていて、その分、入場料に含まれている。日本語もあるので、
それを借りる。家内は初めての見学である。この日も、晴れているが風が強い。橋の麓から(Av6)、
橋の上(Av7)、橋の先端(Av8)、橋から川の上流(Av9)の写真を撮る。 法王庁の全景を見るために、
島に行きそこから写真を撮る(Av10)。また、同じ場所から橋を撮る(Av11)。 
対岸のヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニョンからのアヴィニョンの眺めもよいのだが、今回は行く時間が
なかったのはちょっと残念であった。

*) 教皇のバビロン捕囚 
高校の歴史の教科書では、1309年から1377年までの約70年間、7代にわたって法王が、
この地に法王庁が移ったことを「教皇のバビロン捕囚」と呼び、教皇(クレメンスV世)が、
無理やりここに囚われの身になったと教わったが、ここの説明では、ローマの治安が悪いので、
教皇が望んでこの地に移ったと言っていた。フランス側の見解を初めて知る。
Wikipediaで見ても、フランス語版は、他国語版よりずっと説明が長いのにもかかわらず、
「教皇のバビロン捕囚」に相当する語は出てこないのは、興味深い。ここに、7代にわたって
教皇が、在住したが、上記掲載の写真(Av2)では6人の写真しかない。当地4代目の
Clement VI(在位1342-52)がないのはなぜだろうか。昔の展示写真では、横に7人並べられて
いたが、展示の方法も変わったことが分る。左上から、Clement V, Jean XXII, Benoit XII, 
下段左からからInnocent VI, Urbain V, Gregoire XI(1370-78)である(教皇名はフランス語表記)。
当地最後のグレゴリーXI世は、シエナのカタリナ(女性で、後に列聖される)の勧めや、当時の
英仏100年戦争(1338-1453)で、ローマも反乱側に回る恐れがあったため、1377年にローマに
戻って、「教皇のバビロン捕囚」は終わったが、フランス側にも教皇が出て「教会の大分裂」の
時代を迎えた。

**) サン・ベネゼ橋
1177年に、若い羊飼いベネゼが、「ローヌ川に橋を架けよ」という神のお告げを聞いた。
最初は笑い者となったが、彼は、巨石を軽々と動かしてみせ、民衆が集まり、資金も集まった。
全長900 mの橋は、11年かかって完成することができた。
1234年から37年にかけて再建され、15世紀にも修復されたが、17世紀半ばにローヌ川の増水に
よって崩壊した。崩壊し、渡れないことによって、後世、観光の対象として都合がよくなったとも考え
られる。「アヴィニヨンの橋の上で、踊るよ、踊るよ。アヴィニヨンの橋の上で、皆、輪になって踊る。
(Sur le pont d’Avignon, l’on y danse, l’on y danse. Sur lepont d’Avignon, l’on y danse tous en rond.)」
という歌詞で知られた有名な民謡があるが、この橋の上には、多くの人が踊るスペースはなく、実際に
踊ったのは、上記の橋の下の島であった。一説によれば、「橋の下で(スルポン:sour le pont)」が
「橋の上で(シュルポン:sur le pont)」に間違ってなってしまったと言われている。



●(220)オランジュ:Orange
世界遺産のローマ時代の劇場


 世界遺産の古代劇場を見にいくためにオランジュに行ったら、大きな市(マルシェ)が開かれていた。
後で知ったが、木曜日は、当地でマルシェが開かれる曜日である。南フランスのある程度大きな
村(例えば、ゴルドは火曜、ルシヨンは木曜)では、週1度はマルシェが開かれている。着いたのは
11時に近いので、いつまで開いているのか分らないので、マルシェから先に見ることにする。
数えてみなかったが、100軒ぐらいは出ているような気がする。魚屋にビュロー(bulo)という
貝がある(Or1)。茹でたビュローは、コリコリした感じと味が好きで、フランスでは、何度も食べた
ことがある。日本ではない。日本語では、エゾバイというそうであるが、聞いたことがない。
甲イカは、7.5 Euro/kgと安いが、刺身にできる鮮度は怪しい。蛸は、9.5Euro/kg、ヒメジは、
19.5 Euro/kgとある。当地で生産されるいろいろな花も販売されている(Or2)。ヴァントウ山の
ラヴェンダー(Lavande)が1束3.50 Euroと書いてある(Or3)。この山はツール・ド・フランスの
コースとしてしばしば使われる。産地を書いてあるのは、高所のもので、より香りの強い本当の
ラヴェンダーであることを示したいのであろう(ラヴェンダーと低所のラヴァンダンの違いは、
「資料編」で述べる)。いろいろな、果物ジュースや、当地のお菓子が売っていて、お祭りのようで、
見ているだけでも楽しい(Or4)。レモンバーベナがある。フランス語では、Verveine(ヴェルヴェーヌ)
という(Or5)。ブルーバーべインと書いてあるサイトもあり、人によっても呼び方は多少違うようである。
この写真では、51.83 Euro/kg(約5500円/kg)という値段がついている。日本のあるネット販売では
1200円/50 gとあるから、日本では、4倍以上の値段である。お茶で飲めば、神経緊張、軽い鬱、不眠、
消化不良、ニキビなどに効くそうである。ローソクにその油を混ぜて、香りを楽しむ使い方もある。
他の店では、オリーヴ油、エルベ・ド・プロヴァンス(香草)、塩や、香草を砕く擦り容器なども
売っている(Or6)。どの店もプロヴァンスらしく、明るく色彩に富んでいるのが楽しい。勿論、
プロヴァンスの独特の模様のついた衣類、テーブルセンター、タオルなどを販売する店もたくさん
出ている。観光客や、近隣の人達で、溢れていた。30分ぐらいマルシェを見たり、買い物をした後、
古代劇場に入る(博物館込みで8Euro;11時36分入場とある)。ローマ皇帝アウグストゥスの時代
(BC27-25)に建てられたもので、保存の良さに驚く。あまりの大きさに、自分のカメラの一番ワイド
でも、全景を収めることができず、左右と真中に分けて撮る(Or7-9)。ここも、ガイドホーンが付いて
いて、日本語版もある。1万人収容できるそうで、観客を日差しや雨から守るために、布を張るための
支柱を渡す穴が多数、壁に設けられている。壁は砂岩を積み上げて造られ、長さ103 m、高さ37 mで、
壁の厚さは、1.8 mを超す。舞台の幕は、通常のものと違って降ろすことによって開かれるように
なっていた。中央の舞台3階に建つのは、ローマ皇帝アウグストゥスの像で、3.5 mある(Or10)。
この首の部分は、皇帝が変わるたびに付け替えられるようにはめ込み式になっているそうだが、
他の皇帝のものは、皆、破壊されて、1951年にこの皇帝像の複製が戻された。劇場の正面の
裏側(Or11)には、更に寺院、浴場、屋内競技場などの総合施設があったことが、1925-37年の
発掘調査で分っている。また、正面裏側には、当時舞台でしばしば行われた仮面を使った劇を
示す像が建っている(Or12)。これが、いつ頃建てられたのかは調べていない。次に、すぐ前に
ある博物館に行く。入場料は上記のものに含まれているが、ここを見に来ている人は少ない。
一階には、この劇場あるいは上記、総合施設にあったと思われるものが展示してある。ローマの
「真実の口」を思い出させる彫像がある(Or13)。また、ケンタウロス(半人半馬)のモザイク壁画も
ある(Or14)。残っている部分の色は大変鮮やかである。2階に行くと、ブラングィン(Sir Frank
William Brangwyn; 1867-1956)の絵が沢山あり、ここに彼の絵が沢山のあるのに驚く。
ブラングィンは松方コレクションの蒐集にアドヴァイスし、2010年の春には、西洋美術館で、
展覧会が開かれたし、漱石の「それから」*)にも出てくるイギリスの有名な画家なのに、
どうしてこの博物館と関係があるのか良く分からない(実際はベルギー生まれだが、
イギリスで主に活躍した)。ここには、アルビーと題する絵を示すが(Or15)、それは、
自分がアルビー行ったことがあり懐かしいからであり、深い理由はない。他にも彼の10点以上
の彼の作品があった。また、その横には、ベルロッシュ(1864-1944)の作品がかなりあった。
ベルロッシュは、お金持ちのために多くの絵を描く必要がなかったので、あまり有名ではない
という解説がどこかに出ていたが、ここに出ている主として裸婦画は、写実的で、大変上手い
と思った(Or16)。ベルロッシュは、ロートレックと丁度同じ歳で、ロートレックとはモデル(Lili)も
共有していた。それで、ロートレックや、ブラングィンとも親交が深く、ベルロッシュが自分の作品を
当博物館(あるいはOrange市)に寄贈した際に、持っていたブラングィンの作品も寄付したものと
思われる。ここには、ロートレックの作品は無かったと思う。オランジュでは、もう1つ凱旋門を
見なければならなかったが、次に行く、ファーブルの家のことが頭にあり、すっかり忘れて、
見なかったのは、残念だった。

*) 漱石の中のブラングィン 
「それから」(1909)の中で、主人公の代助が、三千代の来訪を落ち着かずに待ちながら
画集を広げているところに出てくる。ここでは「ブランギン」となっている。「やがて、ブランギン
の所へ来た。代助は平生から此装飾画畫家に多大の趣味を有ってゐた。(中略)それは何処か
の港の圖であった。背景に船と檣と帆を大きく描いて、其餘った所に際立って花やかな空の雲と、
蒼黒い水の色をあらはした前に、裸體の勞働者が四五人ゐた。(後略)」



●(221)セリニャン:Serignan-du-Comtat
ファーブルの住まい


 ファーブル(J.H.Fabre)の昆虫記は、小学校の教科書に出てきて、日本人なら、
ほとんどの人が知っていると思う。私も、ファーブルに対しては、平均的な日本人程度の
知識しか持っていなかったし、昆虫が好きというわけでもなく、むしろ嫌いである。ある時、
このファーブルが、その生まれたフランスでは、ほとんど知られていない(約10%のフランス人しか
知らない)ことを知り、また、彼が長く住んでいた家が、プロヴァンスにあることを知って、そこに
是非1度行ってみたい気になった。あるとき(2003)、アヴィニョンに行ったら、ファーブル通りと
いう表示の道があるので、観光案内所に寄って、ファーブルの家はどこにあるのかと受付の
20歳代の女性に聞いたら、本人はファーブルを知らず奥に引っ込んで上司に聞いてきて
教えてくれた。そこから、50 kmほど離れたオランジュの郊外のセリニャンにあることを知ったが、
その時は時間がなく行けなかった。今回購入した地球の歩き方(10-11年版)には、ファーブルの
家(晩年の36年間過ごした)の説明はある一方、たいていのことは、より詳しく書いてある「ロンプラ」
には、ファーブルの家の記述は全くない。ミシュランには、オランジュ周辺(8 km)の見所として7行ほど、
申し訳程度に出ているのみである。フランスのみならず、英米でも、知られていないことが分かる。
バスが停まれるほどの大きな駐車場には、ほとんど車も停まっておらず、そこから、案内標識に従って、
入る。これは、正門ではなく、ファーブルの家と後に、見学者用に増設した建物を結ぶ裏門であった。
一端、新建物に立ち寄って、裏門から入った。写真(Sg1)の道の奥の右手に、新建物、左手に、
ファーブルの家がある。写真(Sg2)の右手正面が、切符売り場で、そこで切符を購入した後、一端外へ
でて、左手の奥まったところから、2階に上がった1部屋だけが、彼が使っていた部屋で、展示室に
なっている。彼は、昆虫学者という認識しか持っていなかったので、部屋の正面はほとんど貝殻ばかり
であるのに驚く(Sg3)。これは、彼が、コルシカ島に勤務していた時に集めたものであろう。昆虫の標本は、
手前の机の上に並べてあるが、その量は、あまり多くなく、これが、どれくらい珍しいものかどうかは素人
には分らないが、これくらいの量の標本なら多くの素人昆虫採集家でも持っている気がする。
ファーブルは生きた昆虫の行動の観察を主にしていたから、標本を集めることは、ついでに行った
ことだろうと想像する。写真には写っていないが、この左側に机があって、その下側が、戸のない
1段の棚になっており、約20冊の、岩波文庫の「ファーブル昆虫記」が、無造作に並べてあった。
これが、何の本か全く説明がないので、日本人以外は、分らない。部屋には、案内人もいなければ、
説明書きもない。  庭は、約1haあるというので、100 m四方ぐらいあることになるが、この長閑な
場所にふさわしくない高い塀で完全に囲ってある。ファーブルが、外界の人に邪魔されることなく
自然観察に没頭できるようにしたためかと拝察する。庭の手入れを3人が行っており、スプリンクラー
も回っているが、広くて、一見したところ、自然のままにするが原則のようで、よく手入れされているよう
には見えない。それはそれで、趣があってよいと思う(Sg4, 5)。ほんの一部の部分には、蝶などの説明
のパネルが立っている(Sg6)。次に、最初入った別棟に行く。入口にいるべき人は、見えず、声を出して
呼ぶが、なかなか出てこない(Sg7)。この別棟は、見学者のために最近建てられたものと推察する。
本棟は、実質1部屋しか見学する場所がないし、展示物も多すぎるための建物であろう。旧棟と
対照的な、近代的な博物館で、いろいろ展示があり、映画も見せてくれる。ファーブルの家を訪問中
の約2時間の間に、他の訪問者は他に1名あったのみであった。我々が外に出てから、関西から
来てオートバイで回っているという青年が、ここを是非見たくて来たと正門から入って行った。
ファーブルは日本で有名だが、フランスではほとんど無名であることが実感される訪問であった。
町の入口には、ファーブルを記念して、2ヶ所ぐらいに、昆虫の像が立っていた(Sg8)。また、町の
中心には銅像が立っている(Sg9)。ファーブルの生家は、セリニャンとは大分離れた、ミョーに近い
サン・レオンにあり、今回の旅行でも、行こうと予定していたが、結局行けなかったのは残念であった。
帰国して、近くの図書館で、津田正夫著、奥本大三郎監修「ファーブル巡礼」新潮社(2007)(Sg10)を
借りて読んだ。ファーブルは1823年生まれで、1915年、92歳まで生き、先妻が亡くなった2年後、64歳で、
23歳の女性と再婚し、さらに1男2女をもうけている(先妻との間には3男4女がいた)。多くの面で、
大変非凡な人であることがよく分った。1910年(87歳)に「昆虫記」の発刊を記念した記念会の設立の
会を開いたが、丁度、同日、モナコの海洋博物館の開館式と重なり、多くのアカデミー会員はそちらに
行って寂しかったとのことである。この記念会の一同が、村(銅像(Sg9)のある場所)のカフェに行ったが、
ファーブルは家から2 kmのこの地に30年間行ったことがなかったそうである。それほど、自然の観察に
没頭していて、世俗のことには関心が無かったのであろう。「昆虫記」を最初に邦訳したのは、獄中の
大杉栄で、1922年に出版された。大杉がファーブルを知ったのは、キリスト教伝道者の賀川豊彦が
雑誌でファーブルを紹介しているのを見たのがきっかけだそうである。それにしても、ファーブルは何故、
フランスでは無名で、日本で有名なのであろう。なお、奥本大三郎先生(フランス文学者であり、千駄木
にあるファーブル昆虫館館長)による「ファーブル昆虫記」(集英社)全10巻20冊の翻訳が、2010年より
出版が始まっている。