5 ラングドック・ルシヨン地方
ラングドック・ルション写真館

●(301)エグ・モルト:Aigues-Mortes
城壁内の旧市街と大製塩所


 町の名前は、プロヴァンス語で「死んだ水」を意味する。この城壁に囲まれた町は、
1300年ごろに造られた。往時には運河が栄え、ボーケール(Beaucaire;後に述べる
サン・ロマン修道院が属する町)の採石場から城壁を造る石材が運搬された。1248年に
町の創設者ルイ9世の第6次十字軍はここから出発した。町の城壁が破られたのは
百年戦争(1338-1453)のとき1度だけである。ローヌ河に沈泥がたまるようになってから町
は衰退した。なお、当地は、小ローヌ川の西側にあるが、広い意味のカマルグ地方に属する
と扱う案内書もある。
旧市街は完全に城壁(全長1634 m、10の門、6つの塔)に囲まれている。港側が広い駐車場に
なっているので、そこに停めて、港側の主要門のマリーヌ門(Am1)から入る。後で撮ったが、
港側は、草原になっていて(Am2)、マリーヌ門は、この右手の方の門である。城壁を回るには、
城内に入って、コンスタンス塔の近くまで行って入場券を買わねばならない。コンスタンス塔から
は、周りの風景が見渡せる。真下には、ローヌ河の運河が見える(Am3)。更に西側には、
運河の別の支流を越えて遠方に、次に述べるグランド・モットのマンション群が立ち並んでいるの
が見える(Am4)。直線距離で12 km弱である。
城壁を右回りに回ると、これから見る製塩工場が見える(Am5)。後ろを振り返るとコンスタンス塔
も見える(Am6)。空には、海鳥が多く飛んでいる。街は、わずかな部分を除いて、人影も見えず
静まり返っている。コンスタンス門から一番遠いレーヌ門の上から写真を撮る(Am7)。途中、
ガリオン門付近で、動画による説明があるので、そこに立ち寄って少し見る。一回りして、
コンスタンス門の近くで、下に降りて、ここで、唯一賑やかな通り(Am8)に面したレストランで
食事をする。城壁一周1634mあると書いてあるので、少し疲れた。
街の唯一のにぎやかなサン・ルイ広場には、上記ルイ9世(1214-70;在位1226-70; 後に、
サン・ルイ(聖ルイ)と呼ばれるようになった)の像が建っている(Am9)。台座の下に船を
かたどったものが付いているが、十字軍の遠征を表している*)。
製塩工場(Salin du Midi(Am10))の見学時間は2時半からなので、それに間に合うように行く。
この工場を見たいと思ってその5日前にも行ったが、すでに時間が遅く、本日、朝に出直して来たが、
午前の見学はすでに満員になっていたので、午後2時半からの見学を予約し、待つ間に、城の見学を
してきた。見学はミニトレイン(Am11)に1時間強にわたるもので、人気があるらしく、金曜なのに、
すぐ満員になり、予約してから、待つ人が多いようである。ミニトレインは、もう1台空いているのが
あるから、2台用意すれば良いのにと思う。こういう気の利かなさは、外国ではよくあることである。
説明はフランス語のみなので、細かいことはほとんど分らなかったが、大体は、見て想像できる。
塩田が赤いのは(Am12)、そこにあるバクテリアや、藻のせいらしい。以前にもシシリー島などの製塩田
が赤味を帯びていたが、これほどではなかった。先ほど見てきた城の全景が遠くに見える(Am13)。
フラミンゴが、カマルグでより、より近くに見える。数が少ないためか、カマルグのように一列に並んで
能率のよい餌の取り方をしてはいない(Am14)。フラミンゴが赤いのは、この赤いバクテリアや
藻を食べているためと聞いたことがある。塩が山のように積んであり、空の青、塩の白、塩田の
赤の組み合わせは、フランス国旗と同じだと思う(Am15)。塩の粉を落として山を作っているところ
もある(Am16)。塩の山の大きさは、カマルグのより大きい気がする(Am17)。いずれにせよ、
塩田の広さに驚く。エグ・モルトの塩田の広さは、1万haであり、東京ドームの広さ(46755
m2)の単位でいえば、およそ2100個分である。カマルグのサラン・ド・ジローのものは、それより
少し広く、1万1000 ha(約2300個分)だそうであるが、サラン・ド・ジローでは、ミニ・ トレインが無く、
遠方から見るだけだったので全貌が分からなかった。
見学の途中に、見学のミニトレインに合わせてだけ開く土産物店に寄る。すでに、カマルグで塩など
を購入していたので、ここでは、購入しなかった。昼食を取ったレストランで撮った当工場生産の
塩の(容器の)写真を示す(Am18)。名称は、塩の花(Fleur de Sel)という。この蓋に書いてあるのは、
最後に容器につめた人の名前だそうである。
カマルグでは、馬の親子に巡り合えなかったが、ここのミニトレインから、馬の親子が見えた(Am19)。
毛の色からは、全く親子に見えないが、白馬も6歳ぐらいまでは、毛が黒いそうで、不思議である。

*) 聖ルイ 
この銅像の主、サン・ルイは、帰国して調べて、世界史で出てくる第6次(1248-54)、第7次(1270)
十字軍の首謀者であることを知る。しかし、向かった先がそれぞれ、エジプト、チュニスを目標にして
いて、目的が打算的に変貌してきていた。なお、1219-21に行われたものを第5次と勘定する人もいて、
そうすると、以後1つずつ勘定がずれる。いずれにせよ、このルイ9世王の1270年のものが最後の
十字軍になる。これほど有名な王の像が、ここに、ひっそりと建っている。高潔で敬虔な人格から、
理想のキリスト教王と評価されている。死後、カトリック教会より列聖され、Saintが称され、サン・ルイ
と呼ばれるようになった。米国の都市セントルイスは、後年、この王に因んで名づけられた。
パリのセーヌ川に浮かぶサン・ルイ島もこの王から名前が取られている。



●(302)グランド・モット:La Grande-Motte
アパート群の林立する斬新な海辺のリゾート


 グランド・モットは新しい海辺のリゾートとして注目されているところで、宿泊ホテルからも
比較的近いので見に行く。ここの見どころは、独特のデザインを持ったアパート群である。
ここの写真(Gm1-7)に示す以外にも総計15余りのアパートが建っている。前述した12 km
離れているエグ・モルトからも遠景が見える(Am4)。全部に名前が付いて いるのかどうか
分らないが、特徴的なものには、名前がついている(例えば、Gm1は「太陽の寺院」、Gm6は
「大ピラミッド」)。この「大ピラミッド」は、1974年の建立で、15階あり、この地域では一番高い。
街には、カジノまである(Gm8)。海岸は砂浜になっていて泳ぎやすそうである(Gm9)。
家族で来るならば、ニースなどのコート・ダジュールよりも、この辺の方が、より快適と思われる。
ラングドック・ルシヨン地方の方が、人も少なく、物価も安く、のんびりできる。アパートは、
定住者やホテルばかりのものではなく、モンペリエやニームなど住民の別荘にもなっているの
であろう。
たまたま、昔購入していた「世界の旅 全15巻」(中央公論社)の「第1巻 フランス」は、1970年6月に、
すなわち、40年前に発行されているが、それに、グランド・モットは「未来の太陽都市」であるといって
紹介されていて、そこには、このような建物2棟だけが、海辺に建っている(Gm10)。周りは、人家は
いくつかあるが、森や畑の広々とした平地となっている。したがって、このような建物が建ち始めた
のは、1960年代の後半で、それ以後、開発されてきたものと思われる。1968年の人口が56人なのが、
1975年には2165人と急に増え、2007年には8246人となっている。海の様相も変わっていて、
写真(Gm9)で見られる海の中の石の防波堤は人工のものらしいから、遊泳に都合よいように変えた
ものと思われる。


●(303)カップ・ダグド:Cap d’Agde
海岸の一大リゾート地


 アグドは、昔、ギリシャ人が植民し、ギリシャ神話の女神Agathaに由来する名前である。
人口は20,000人である。以前にアグドで泊ったことがあるが、今回は、海岸のリゾート地、
カップ・アグッドに1週間滞在した。カップとは、岬のことであり、アグドとカップ・ダグドは6 km
離れていて、1時間に1本ほどのバスが運行しているが、まず、車でなけれ
ば、不便なリゾートである。イエールでは、海岸に1週間滞在しながら、1日も付近を
見に行かなかったが、当地では、折角、観光地に来ているのに、宿泊だけに使って見ないのも
もったいないので、1日、休養を兼ねて、カップ・アグッドの街や、海岸を散策した。家内は、
午後の半日はホテルで休養を取っていた。地図(Mp6)に示すように、街をちょっと歩くにも、
1-2 km歩かねばならないほど大
きく、大半の人は、他に行かずに、ここだけで長期間、滞在しているようである。
街には、オランジュよりわずかに小規模なマルシェ(市場)が立ち並んでいた。この日は水曜で
あったが、マルシェが水曜だけのものか、毎日開かれるのかは、確認していない。漢方薬に
相当するものを販売している店があり、乾燥した蛇がラベンダーの上に重ねてある。客からの
効用を感謝する手紙と思われるものが、宣伝のために置いてあるが、触るなと書いてある(Ag1)。
アーティチョーク(アルティショとフランス人は発音)は、大学の食堂でよく出てきたが、正直いって
美味しいものではないが、フランス人には人気がある。茹でたものを、1枚ずつはがして、中のみ
の部分を食べる。値段がどれほどするものか知らなかったので、8本で2 Euro(約220円)であること
を知る(Ag2)。いろいろな 種類のオリーヴやオリーヴ油が販売されている(Ag3)。ムール貝は、
1 kg、3 Euroで、カキは、5 Euroと安いが、日光が一部当たっている無神経さは、文字通り、
いただけな い(Ag4) *)。果物を販売している中国人らしき女性2人がいる(Ag5)。中国人女性と
日本人女性は、足の形を見れば分るという説がある。中国人はすらっとしているが、日本人は畳に
座る習慣があるので、中ほどが膨れているそうである。畳に座る機会が少なくなった若い世代に
成り立つのかどうかは、あまり気をつけて見てないので分らない。小さいさくらんぼは、1 kg当たり
3 Euroで、郊外 の出店で販売していたのと(7Et1)同じ値段で安い。
海岸に行く道には、両脇に店が沢山立ち並ぶ(Ag6)。国名(England)を尻に書いたショートパンツを
履いているご婦人がいて驚く。国の侮辱にならないのだろうか。その脇を歩いている男性のT-シャツに
“Abercrombie N.Y.”と書いてあるが、これは、調べて、Abercrombie&Fitch(ニューヨーク本店)の、
通称「アバクロ」ブランドであることを知る。ヨーロッパはどこでもそうだが、タトゥーが流行りで、
ここにも店がある(Ag7)。店に大きくURL(tawara.com)が出ているので、帰国後検索したら、
この店が実際出ていた。砂浜の海岸は14 kmにわたって続くそうで、空いている場所は、大変
空いている。ここにグラン・コンク(Grand Conque)海岸の写真(Ag8)を示す。ヨーロッパでも、
多くの人は、ある程度は混んでいるところが好きなようである。
地図(Mp6)では、わずかに切れているが、地図の下側の切れたすぐ先は、岬の先端になっていて、
写真(Ag9)のように、灯台が2つある。付近では、釣りをしている人が、10人程度はいたが
、魚が釣れたところは、15分ぐらいで、1度も見なかった。意外に釣れないのに、釣り人は我慢強い。
午後からは、家内は、ホテルで休養するというので、1人で、また別の海岸に行って海に浸かろうと、
ロックーイユ海岸(La Roquille)に行ってみる。海岸で日光浴をしていたら、すぐ
隣に東洋人の若者が、その彼女と来て日光浴を始める(Ag10)。多分中国人と思うが、体格がよい。
ここでは、東洋人は、珍しい。フランスに定住しているのであろう。
この海岸で、海水に浸かろうと思って、腰まで浸かったが、自分には冷た過ぎて、それ以上入れず、
結局、今回の旅行では、海に首まで浸かることはできなかった。周りを見ても泳いでいる人は、
ほとんどいない。
カップ・ダグドは、フランスのみならず、ヨーロッパ全体で、ナチュリストのキャンプ地として有名らしい。
折角、この地に来たので、どんなところか、見てみたいが、中に入るのははばかれるので、
ロックーイユ海岸の東端近くに行ってみる。遠くに彼ら専用の5階建ての宿泊施設が見える(Ag11)。
小さな川を隔てて、こちら側から中には入れないが、砂山に上ると、向こう側の海岸が見渡せる。
適度に遠く、先方の失礼にもならない程度のぼけた望遠写真しか撮れなくてかえって良かった(Ag12)。
他の海岸と比べて、大変混雑していて、また、泳いでいる人はほとんどいなく、皆さん立っていて、
座っている人がいないのが不思議であった。子供は入場できないらしく、見当たらない。衣服を
着けている人も小数いる。ネットで見ると、真夏の最盛期には40,000人の人口にもなる、世界一の
ナチュリストの、そこだけで生活できる全て完備した村だそうである。ここには40,000人も住めないと
思ったが、39 haのキャンピン グ場も隣接しているそうで可能かもしれない。

*) ムール貝とカキ
 ここには、ムール貝については 左から”Moules Pleine Mer 2.5 Euro le kg”,
“Moules Pleine Mer 3 Euro le kg”と書いてある。Pleine Mer とは、沖と外洋という意味があるので、
もしかすると大西洋産かと思い、フランス人の友達に帰国後問い合わせた。その結果、これは、
地中海の沖合で(約4 km)、250mの長さに、浮と27 mの深さにコン
クリートを沈め、水深7mに設置した網状の袋の中で養殖するそうである。入江などの淡水に
近いものより味が良いので、Pleine Merと強調しているのではないかとのことである。値段の違い
は、大きさの違いによる。次に写真のその右から、”Huitre de Bourzigues 5 Euro
le kg”、”4.5 Euro le kg, No2”、次に見えないが”4 Euro le kg, No3”と書いてある。Moules
(複数でもムールと発音)が複数で、Huitre(ユイートル;カキ)が単数なのは、食する個数を考えた
習慣なのだろう。ブルジーグ(Bourzigues)というのは、Agdeのすぐ東隣の町セート(Sete)の海に
面した湖のカキ養殖所のある地名で、この店の上の看板にも書いてある。残念ながら、ここに
行かなかったので、そこの塩分はどのくらいか分らないが、海水と淡水の間であろう。



●(304)サン・ロマン修道院:Abbaye de St Roman
岩の中の修道院廃墟


 ボーケール(人口14000)*)の町の郊外にセント・ロマン修道院という岩をくり抜いた
修道院が5-15世紀にあり、それが、後になって発見される。岩の中の修道院というのは、
どんな所か見たくて訪問した(Ro1)。写真にある”Troglodytique”というのは、「穴居人の」
という意味である。完全に、周りの人家からは隔離されている。駐車場から、徒歩で、
10分以上坂道を上ったところにあり、訪問者も他に2組ほどである。岩の中にくり抜かれて
いるが、他で見た修道院よりは、中はむしろ明るい(Ro2-4)。勿論、他の修道院、例えば、
シトー派の3姉妹と比べれば、原始的で、小さいが、中はむしろ明るい。屋上にも出られて、
そこには、雨水を貯める工夫もされている(Ro5)。そして、この前方の山の上には、岩が
露出していて、眺望もよさそうであるが、そこまで行く体力がないので、あきらめる
(山の名前は、エギューイユ山(Le Mont Aiguille;針の山という)。岩には人手が加えられた
跡が、はっきり見えるから、ここから、岩が切り取られたか、あるいは中に、穴でも作られている
のかも知れない。ハイキングに人気があるらしく、若者たちが何組か、登る準備をしていた。
頂上には石のテーブルとベンチが見える。当修道院の屋上からは、大きく曲がるローヌ川も
見えてなかなか良い眺めである(Ro6)。左側に見える川は、ポン・デュ・ガールを通ってくる
ガルドン川である。すなわち、ここで、ガルドン川(手前)がローヌ川に合流している(Ro7)。
この場所から、アヴィニョンの法王庁の建物も、天気が良ければ見えると書いてあるが、
望遠鏡で見ても探せなかった。この写真(Ro6)より右手の北東約16 kmのところ(ローヌ川の上流)
に位置しているが、地図を車に置いてき
て、探す方向を間違って分らなかったようである。当地は、その眺めだけでも価値があると思うが、
あまり有名でないらしく、観光客は少ない。
ここの入場券に、近くにあるMas des Tourelles(ローマ時代のワインの作り方を説明し、
試飲もさせてくれるらしい)の入場券も含まれていて、是非、行くように勧められたので、
車で行った。道の入口には看板(Ro8)があり、すぐわかり駐車場に止めたが、その場所が
分らず、周りに誰もいないので聞くこともできず、1軒の、多分農家に入り、戸が開いており、
声をかけたが、1階に誰もいないので、2階に上がったら、ご主人と娘さんがテレビを見ていて、
お互い少し驚いたが、親切にもフランス語で教えてくれた。アメリカなら射殺されかねないと思い、
後で、大変まずいことをしたと思った。2時にならなければ開かないとのことで、運転中で、
試飲もできないので、待たずに、次の予定地のポン・デュ・ガールに行った。

*) ボーケ―ル(Beaucaire) 
ボー(beau)はフランス語で、「美しい」の意で、ケールは、石材を意味するから、
当地で取れる石材に因んで付けられたのであろう。ここから切り出された石材は、
ローヌ川を通ってエグ・モルトに運ばれ、各地に建築用材として運ばれた。エジプトの
「カイロ」はフランス語で、Le Caire というから、これも、ミラミッドの石から きた名称なので
あろうか。「呆ける」と覚えれば、地名は、覚えやすい。



●(305)Nimes:ニーム
ローマ時代の遺跡の町


 ニーム*)は以前に1度きたことがあるので、その時見落とした場所を中心に見た。
メゾン・カレーは、まだ見ていなかったので、見に行ったが、工事中で(Ni1)、
その代わりかどうか分らないが、3次元の映像で、22分間、ニームなどの歴史を解説する
ことが30分毎に行われていたので、それを見る。この建物(奥行26 m、幅15
 m、高さ17 m)は、ローマ皇帝アウグストゥスの息子アグリッパによってAD 5年に建てられた。
その向かい側に、カレ・ダールという1993年に完成したガラス張りの図書館と現代美術の美術館
を兼ねたたてものがあり、それを見に入る(Ni2)。入場料はいらない。展示物は特に面白くは
なかった(Ni3)。
次に、50 km離れたユゼスから、ポン・デュ・ガールを通った水の、古代集水場跡を見に行く(Ni4)。
ここに見える穴から鉛管を通して町に水を供給していたという。ポン・デュ・ガールなどに比べて
意外に規模が小さいと思う。住宅街にあり、よく、今まで、その跡を残せたと思う。途中フォンテーヌ
庭園からの水の流れを帰り道に見たが(Ni5)、400 m離れた庭園は見に行かなかった。川 の両岸の
散策を楽しんでいる観光客もいる。
当市の一番の見どころの古代闘技場は、前に見たので、今回は、車で前を通っただけであった(Ni6)。
アルルの闘技場より立派であるという印象を持っている。

*) デニムの話(「ロンプラ」の概略)
18世紀に、ニームの中流階級のプロテスタントは、役人や他のいろいろな職に着くのを禁じられ、
商売や製造者に転じた。その結果の1つとして、サージとして知られる綾織りを造りだした。
青く染めたサージはジェノヴァの漁師の制服になった。1894年、カリフォルニアのゴールドラッシュの間、
バイエルンからの移民のユダヤ人Levi Strauss(1829-1902)が、 ズボンを造ったが、他の生地はよくなく、
結局、ニームからこのサージを輸入して作って成功した。ニームからのサージなので、デニム(denim)と
いう名前を付けた。フランス語で、de Nimes のdeは、「から」輸入したと いう意味である。


●(306)ポン・デュ・ガール:Pont du Gard
世界遺産のローマ時代の橋


 名称は、「ガール地方の橋」という意味である。ここには、2003年に1度来たことがあるが、
家内は初めてなので、訪問した。車1台につき15 Euroの駐車料が、入場料も兼ねている
システムに変 わっていた(Po1)。車で来なければ無料になるということだが、自転車で来るのも
大変であるから、それぐらいの恩典を与えてもよいだろう。
高さ48年、全長275 mで、ユゼスからニームまで約50 kmにわたって上水道を通すのに際して、
途中のガルドン川を渡すために、AD1世紀の中ごろに建設された。1985年に世界遺産に
登録されたそうであるが、これぞ、世界遺産という感じがする。
2003年に来た時は、橋の第3層はすでに渡ることが禁止になっていたが、第2層は、渡ることが
できた。しかし、今回は、1層のみしか渡れなくなっていた。ガイド付きで、第3層も渡れるような
ことが書いてある案内書もあるが、どうすれば、申し込めるかはよく分らない。入口は左岸にあり、
左岸から初めて橋が見える地点から写真を撮る(Po2)。本当に、芸術的にも美しい橋である。
橋の上から下流を撮る(Po3)。前回来たのも6月の下旬であったが、その時は、水が今回より
少なく、気温、水温も高く、川で水遊びをしていた人が多くいたが今回は、水温が低いらしく、
誰も水の中に入っていない。右岸下から橋を撮ったり(Po4)、第3層の上水道の出口側(右岸)の
写真を撮る(Po5)。また、外国の友人達へのクリスマスカードの写真として、持参した三脚を使って、
右岸上流側から我々自身を撮った(Po6)。橋の上は、多くの人が歩いているが、橋から離れると人
の数は少ない。前回は、ほぼ1日居て、博物館も見たので、今回は、2時間ぐらいの滞在で引きあげた。