II. ハワイの思い出


(II-1)過去のハワイ旅行
 過去にハワイには4回行っており、今回は5度目である。過去4回で行った主な場所は以下のとおりである。全部覚えていたわけではなく、写真から判断した。
1回目:1987年10月17日―25日
オアフ島:パンチ・ボウル、アラモアナ・ショッピングセンター(ここは、以後の訪問でも毎回行っている)、ワイキキ・ビーチ、ハワイ大学購買部、ハナウマ・ベイ

ハワイ島:オアフ島からの日帰りツアー参加(ヒロ空港、ヒロ魚市場、レインボー滝、ボルケーノ・センター、アカツカ・オーキッドガーデン、マウナロア・マカデミアンナッツ工場)
 1987年に日米共同の電気化学会が、ホノルルで初めて開かれ、それに参加するために、研究室の学生なども連れてハワイに約1週間行った。自分の専攻する化学の分野では、すでに、1979年4月1日―6日に日本化学会創立100周年記念事業の一環として、日米の合同化学会がハワイのワイキキ(ヒルトン・ハワイアン・ビレッジ・ホテル)で開かれ、全体の参加者8300人のうち、日本からは、約3700人(同伴家族などを含めて)も参加した。他の学会は知らないが、恐らく米国の学会との共同主催の最初のものではないであろうか。日本化学会(現在、会員数約3万2千人で日本有数の学会)では、その1年以上前から、その学会開催のための特別委員会が設置され、その長には、私の恩師(斎藤信房先生)がなられていたので、私は、出席する義理があったが、自分の専門とするマイナーな分野の参加者が、米国を含めてほとんど皆無であることが予想されたので、失礼してしまった。国内にいると、日本の化学が世界でどの程度認められているのか分かりにくいが、例えば、ノーベル化学賞にしても、最初の受賞(福井謙一先生)は1981年のことである。この化学会のハワイでの日米共同国際会議の開催の成功がきっかけで、その後、この種の会議が、他の学会でも、ハワイのこのホテルで、開かれるようになり、今日では、まったく日常的に行われるようになった。それには、勿論、飛行機代の日本人の給料に対する比の年々の低下の影響が一番大きな要素になっていると思う。
 1987年当時、台湾の中華航空は、中国が同じ飛行場を使用することを嫌うことから、羽田空港を使用している唯一の国際線航空会社であり、台北―東京―ホノルルーロスアンジェルスの路線に就航しており、しかも、関連会社が、学会会場のヒルトン・ハワイアン・ビレッジ・ホテルの真向かいにそれよりは、ずっと安いDynastyホテルを経営していたので、この飛行機とこのホテルを利用して、学生さん2人と一緒に行き、宿泊部屋も共にした。今、調べると、このホテルは無くなっている。因みに、当時は成田空港に行くには、リムジンバス以外の鉄道は京成電鉄しかなく、空港駅で降りて、更に空港ターミナルにはバスに乗らねばならなく、今より不便で、評判の悪い空港であった。

 学会に出席したので、オアフ島では、あまり観光はしなかった。オアフ島のバスは、どこまで行っても、たしか$1だったので、アラモアナのバスターミナルから、北端のヒルトン・タートル・ベイ・ホテル(ここで、少し停車する)を経由して一回りするバスに乗って、降りずに観光した。この滞在期間中に、世界的な事件となる「ブラック・マンデー」(10月19日(月))が起こった(ニューヨーク証券取引所で平均株価が508ドルも下がる(22.6%)という史上最大の大暴落)。また、国内では、中曽根裁定の最終段階であったので、これらの出来事とペアーで後々まで、この旅行の記憶が残る(1987年10月31日に自由民主党総裁の中曽根康弘が竹下登幹事長、安倍晋太郎総務会長、宮沢喜一大蔵大臣の3人から竹下幹事長を次期総裁に指名した)。
 観光の見地からは、ハワイ島の日帰りツアーが一番面白かった。モリシゲさんという何事にも意欲的な2世の人が、実に丁寧に、我々3人を案内してくれた。ヒロ空港から、ボルケーノ・センターを見ることが主なコースであるが、大きなクレーターを見たときと、溶岩流が海に流れ込む風景の印象は今でも忘れられない。別れるときに、3人分お礼としてチップ$10を渡したら、チェックインした我々に追いかけてきて、自分の製作した音楽カセットをプレゼントしてくれた。

2回目:1993年5月15 日―5月26日
オアフ島:ハナウマ・ベイ、ハワイ大学、タートル・ベイ・リゾート、サンセット・ビーチ
ハワイ島:オアフ島からの日帰りツアー参加(ヒロ空港、ヒロ魚市場、レインボー滝、ボルケーノ・センター、アカツカ・オーキッド・ガーデン、マウナロア・マカデミアン・ナッツ工場)
マウイ島:オアフ島からの日帰りツアー参加(ハレアカラ国立公園、サトウキビ列車、カアナパリ
 ワイキキで行われた第2回日米電気化学会参加が目的であったので、自分はあまり観光はしなかった。出発前日の14日は、夕方、都心で中学時代の恩師の偲ぶ会に出てから、田園都市線すずかけ台にある大学に帰り、学生の発表練習を聞き、深夜から、自分の発表の準備や雑用を片付けて仕事が終わったのが、朝5時ごろで、それから、1時間かけて家に帰って寝る。飛行機は、前回と同じく、中華航空で、羽田から夕方の出発で、午後に家を出たが、家内も同伴だったので、学会発表以外の準備は家内に任せた。翌朝、ホノルルに着いても、現地では15日で、この日は結婚記念日で、生涯、結婚記念日を2日に渡って迎えたのは、この日だけなので、特段、何も祝わなかったが、記憶に残ることになった。ホノルルに早朝着くが、ホテル側は、その日の朝までの客のチェックアウトの後に掃除をする必要があるので、早朝に着く日本からの客はチェックインを待ってもらわねばならない。そこで、到着客をまとめてバスで市内の見物(ヌウアヌ・パリ展望台、カメハメハ大王像など)に連れて行き、昼食は、そのために用意しているホールで取り、滞在中の注意やオプショナルツアーの説明をしてから、個々のホテルに客を届けるシステムを取っている。最初に来たときは、そのことに気づかず、随分サービスがよいものと感心した。その昼食時には、同じ学会出席のために熊本から出てこられた谷口功先生ご夫妻にお会いする。自分は、朝5時まで仕事をしたと言ったら、谷口先生は、朝7時まで仕事をされていたと言われ、家内は、上には上がいることを認識する。どこの空港を経由されてこられたか知らないが、熊本から来られたのだから、ほとんど寝る暇もなく、ハワイに来られたことになる。今年(2009年)の4月から、谷口先生は、熊本大の学長になられる。その新聞に出た辞令は、それから16年を経て、家内が先に見つけるほど、先生の勤勉を存じ上げることは影響力があった。

3回目:2000年3月13日―3月21日
ハワイ島:コナ・コーヒー店(UCC)、プウホヌア・オ・ホナウナウ国立歴史公園、マーク・トウェイン・スクエア  
オアフ島:ハナウマ・ベイ、マカプウ・ビーチ・パーク、潮吹き穴、真珠湾、ドール・プランテーション、クアロア・ビーチ・パーク、
この回からは、純然とした観光旅行で、直行便でハワイ島に先に行くことにし、また両島で車を借りることを始める。当時流行のミノキシジルという育毛剤が、日本の相当品より10以上安いので(5%溶液が3本で約5000円)、購入したが、結局、自分にはミノキシジルは効かないらしいことが分かった。女性用というのも発売されていたが、家内には効かなかった。真珠湾は、自分にとっては、ハワイで最も重要な場所であったが、予想される米国人の冷たい視線を恐れ、時の経過を待っていたが、初めて行ってみた。戦後55年経過しても、やはり米国人にとっては、ハワイで是非行くべき場所らしく、午後から行ったので、アリゾナ号へ行くフェリーは、すでに満員で、そこへは次回に行くことにして、アリゾナ・メモリアル・センターを厳粛な気持ちで、見学した。人間魚雷(特殊潜航艇)が陳列されていて、特攻隊のようなものは、終戦間際になって始まったのかと思っていたが、すでに開戦時からあったことを知り、当事者やご家族のことを思うとやりきれない気持ちになる。特殊潜航艇は5隻発射されたが、1隻は航行不能となって、乗員は捕虜となったというから、ここに陳列されているのは、それであろう。他の4隻は戻ってこなかった。
当時勤務していた上智大学のハワイに留学していた学生さんと、ホノルルのシーフードレストランで3人で食事をした。

4回目:2004年1月26日―2月8日
ハワイ島:マウナ・ケア観天ツアー参加、マウナ・ロア炭酸ガス観測所、コナ・コーヒー製造所巡り
オアフ島:ハナウマ・ベイ、ダイヤモンド・ヘッド登頂、真珠湾(アリゾナ記念館、戦艦ミズーリ記念館)、ハワイ大学、ヌウアヌ・パリ展望台、カイルア・ビーチ、ホオマヌヒア植物園、平等院
カウアイ島:オアフ島からの日帰りツアー参加(ワイメア渓谷州立公園、シダの洞窟など)
 家内の中・高のクラス会がオアフ島であるというので、それに便乗して私も行った。成田からの直行便でハワイ島コナに入って、オアフ島に渡った。
 真珠湾は、前回の経験から午前中に行って、フェリーでアリゾナ記念館に行けた。まだ、アリゾナ号から油がでているという話を聞いていたが、その通りであった。アリゾナ号の戦死者約1100名の名前が壁に示されている。この攻撃の米国側の死者は3600名というから、ここには、アリゾナ号に限られているのだろう。大変、厳粛な気持ちで、冥福と平和を祈念してきた。訪問者は圧倒的に米国人が多いようであるが、60年以上を経過しているせいか、米国人から、白い目で見られる感じはなかった。本当は、一番最初にここに来るべきであったが、上で述べたように、米国人に白い目で見られるのが嫌で、それまで延びていた。ハワイ訪問の気持ちの上での一区切りがついた感じはした。その後、ミズーリ記念館に行く。ここに繋留されたのは、1999年である。1945年9月2日に、東京湾で降伏文書に調印した戦艦で、全権大使の重光葵の名前の入った文書が見られた。この辺の事は、リアルタイムで記憶があるが、戦艦がこんなに大きいとは知らなかった。ミズーリが調印式場に選ばれたのは、トルーマン大統領が、ミズーリ州出身で、この戦艦の命名をしたのも、その娘であり、この戦勝を記念する歴史的な場所に自分の影響を残したかったからだということを、調べて知る。
マウナロアCO2観測所(Keeling観測所)は、1958年以来、大気中の炭酸ガスの量を連続して観測している場所であり、今日の温暖化問題を論ずる際に貴重な資料を提供してくれた世界的に有名な場所である。前回に、訪問しようとして、ホテルなどの観光案内所で場所を聞いたら、誰もその存在すら知らず、場所が分からず行けなかったので、今回は事前に場所を調べて行った。勿論、他に誰も来ていなかった。観測所の入り口で写真を撮っていて、通りかかった職員に自分は化学者で、興味があって見に来たと言ったら、忙しいところを、1時間も、家内ともども案内してくれ、予想もしていなく感激した。世界的に有名なことを、地元の人は意外に知らないことは、他にも何度か経験している。この場所はことの性質上、観光客が押しかけては、大変困るので、なるべく知られないようにしているのであろう。
マウナ・ケアの観天ツアーは、家内の強い希望にもより、10人ぐらいのグループになった。途中、山の中腹のオニヅカ・センターで休憩して支給された弁当を食べながら約1時間休憩する。ここには、多くの団体グループが来ていて、同様に夕食弁当を食べる。ここで休憩する目的は、夕食を取るばかりでなく、高所に登る前に、少しでも高山病の予防をすることであると知る。頂上に着く頃は、まだ夕日が沈む前で、日の入りを見られるのもよい。予めこのツアーに参加するつもりで、防寒具を用意していったが、更に、借りる。バスには、防寒具が用意されているので、全く持参しなくてもよい。4000 mを越すので、自分は多少高山病になったが、家内は大丈夫であった。案内人が望遠鏡を持参して、またその扱いもうまく、いろいろな星を眺めることができて星に全く無知の自分にも楽しかった。近くには、日本が建設した望遠鏡など数台がある。後年、観天ツアーに味をしめて、南半球で一番よい場所のニュージーランドの観天ツアーに参加したが、倍率は小さく、星の動きによく追従できないこともあり、改めてこのマウナ・ケアの観天ツアーの、案内人を含めての素晴らしさを認識した。多少なりとも、予め星の知識があれば更に楽しいであろう。
ハナウマ・ベイは、入り口に展示場の小屋が建てられ、入場料が必要になっていた。ダイヤモンド・ヘッドには初めて登った。見た目より大変で、登りに1時間半を要し、年配の人はほとんど登っていなかった。米国人の多くの年配の人は、山登りする体型にはないことも原因かと考えた。
 オアフ島のカネオヘ付近のハイウエーで、スコールの中、道に迷って、U-ターン禁止のところを、分かりながらU-ターンしたら、オートバイに乗った警官に捕まって、$77の罰金を払う羽目になる。免許取得から40年以上、国の内外で50万km以上は走行していると思うが、罰金を取られる違反は国内ではしたことが無く、外国で3回のみで(他は、留学中スウェーデン(駐車違反に大変厳しい国)での違反、シドニーで、表示が不明のところを通ったら、そこは、ETCが設置されていたという納得のいかないもの)、確信犯として違反したのは、この時だけである。スコールの中を、濡れながら見張っている警官に脱帽で、罰金は意外に安く、ホテルで払い方を教えてもらい、書類にクレジットカードの番号等を書いて送り、払い込みができた。

(II-2)ハワイに関する思い出
 真珠湾攻撃のことを学ぶ以前に、ハワイについて関心をもったのは、1948年(昭和23年)10月に発売され、大変流行った「憧れのハワイ航路」(唄:岡晴夫)という流行歌による。戦後3年しかたっておらず、占領下で、サンフランシスコ講和条約(1951年)も結ばれてなく、まだ、シベリアに多数の人が抑留されており、現にその苦しい抑留を題材にした「異国の丘」は、この歌の1ヶ月前に発売されている。衣食にさえ困っているこの時代は、船でもハワイに行ける人は皆無であったのに、この歌の明るさ、戦争勃発のこの地を、戦争抜きで題材にするなど、あまりにも世相から離れたものであった。きっと、どうしようもない暗い時代に、何か明るいものを求めていたのであろう。作詞をした石本美由紀(男性)は、ハワイに行った経験があるのかどうか分からないが、1929年に当時の豪華客船の浅間丸が、横浜―ホノルルーサンフランシスコの航海を開始したというから、ハワイ航路というのは、戦前にも夢の航路としてよく知られていたのであろう。この作詞家は、以後、2度も、レコード大賞を取る歌の作詞をすることになる。自分の母親は岡晴夫の大ファンであったので、実演に連れて行かれたような気もするが、記憶は定かではない。ただ、ラジオでは、しばしば聞いたし、当時はファンでなくても、流行歌は、文字通り、ほとんど全国民が耳にしていた。

 真珠湾攻撃のことは、中学、高校の歴史の時間に正式に習ったことはないように思う。自分で本などを読んで、日本が戦線布告の前に、奇襲して大成功した一方、米国民の怒りを買い“Remember Pearl Harbor”という標語の下で、戦闘意欲が高まったということを知った。
 1970年に封切られた日米合作の(米国)映画「トラ・トラ・トラ」(作戦が成功したことを本国に無線で知らせた暗号電文)は、歴史事実に関しても、両国の利害関係が対立し、それでも、日本側の主張を大幅に取り入れて、アメリカの懐の深さを示したそうである(ウイキペディア)。それ以前にノルマンジー上陸作戦をテーマにした「地上最大の作戦」の興行で大成功を収めたので、この映画を製作する気になったらしい。最初は、日本側の監督は黒澤明であったが、黒澤の我儘や奇行などの理由から、途中で20世紀フォックスから解雇され、代わりに舛田利雄、深作欣二がなる。黒澤が解雇されたことは、今回調べて初めて知る。
 この映画では、12月6日は土曜日で、駐米大使館が、宣戦布告の外交文書を手渡すのが遅れてしまい、日本は、決して7日(日)の開戦(日本では12月8日)で奇襲を意図したものではなく、一方、ルーズベルト大統領は、日本の攻撃の情報を十分知りながら、国民の気持ちの決起の為にわざわざ国民に知らせなかったというような設定になっていたような気がする。宣戦布告の外交文書を手渡すのが遅れ、だまし討ちになることを司令長官の山本五十六が、恐れていたということは、例えば、阿川弘之「山本五十六」新潮社、1994に記述があるので、本当であろう。そういう可能性を後で聞くと、日本人としては少し救われる。この映画は日本では大ヒットしたが、アメリカでは、ヒットしなかったそうである。自国が攻撃され、負けるのを好む国民もいないだろうから、当然考えられることと思うが。この映画が封切られたのは、1970年で、自分は、この6月から2年間以上、スウェーデンに留学することになり、この映画を封切り当時に見たような記憶があるが、はっきりしない。因みに、スウェーデンに行って、当時、日本人で最も有名な人は、黒澤明、三船敏郎であり、それ以外の日本人名はほとんど知られていなかった。また、この留学に際してお世話いただいたのは、当時、阪急交通社の社員であられた、現在の協和海外旅行の野口正二郎社長である。
あるとき山陰線に乗っていたら、鳥取県に羽合温泉というのがあって、昔からあったのかと思ってびっくりしたが、調べたら、1978年に浅津(あそづ)温泉からこの名前に変えたことが分かり、偶然の一致ではないことが分かった。