U

II. 旅行

●第1日目(9月12日:金)

■ナポリ空港→ローマ空港→マルタ国際空港→マルサスカーラ(ホテル)
→ハイポジウムの下見→ホテル(マルサスカーラ)


早朝に、ナポリのホテルを出て、空港バスで、飛行場に行き、ナポリ空港8時50分発、
ローマ空港に9時45分に着く。ローマ11時45分発で、マルタ空港に13時15分に着く。
ローマの空港では、空港内で、苦労して、ポストを探し、絵はがきを投函する。

 マルタ入国に際しては、入国書類に記入が必要と案内書などに書いてあったが、
今年(2008)、Euroの採用と共に廃止となったのか、その必要はなかった。パスポートに
印を押してもらうだけで済む。すぐ、空港内にあるHertzの窓口で、予約書を見せて、
車を借りる手続きを終える。空港構内にインフォメーションがあるので、ホテルに行く道を
きくことと、地図を販売している店を聞くために並ぶ。前に2組ぐらいしかいなかったが、
そのいずれもが、ホテルの予約で、希望した地域で、希望の額を言って、1名の係りの夫人が、
ホテルのリストを調べながら、次々と電話するが、なかなか空いているところがないので、
時間がかかり、20分以上待った気がする。待つ間に地図やパンフレットを入手したが、
簡単な質問で、聞くために長時間待つこともなかったと後悔する。目指すホテルは、
小さなホテルなので、係りの人も、名前も知らなかった。車は、空港駐車場の一番遠い
片隅に留めてあった。気温は30 ?Cを超えていたので、車中は、クーラーが効くまで、
サウナ状態であった。

 地図は、空港内で購入できたが、使い勝手が悪く、当面役立たず、結局、案じていたように、
途中で迷ってしまう。一旦、町中の細い道に入り込むと、自分がどこにいるのか分からず、
結局、何回か、人に聞いて、進むことになる。そういう時に、すべての人が英語を話すので
助かるが、歩いている人が、なかなか見つからないのが困る。人々は、大変親切であるとの
印象をもつ。あるところからは、1本道になり、目指すホテルが、マルサスカーラ(Marsascala)と
いう田舎の海岸にあったので、割合容易に見つけられた(M101)。ホテルの前の道路は、
かなり太いが、交通量も少なく、容易に駐車できる。すぐ横が海岸で、地元の子供などが
泳いでいる。この個人経営のホテルにも、入り口にプールがあって、1人だけ泳いでいた。
テントにあるCISKは、当地のビールの銘柄である。

 本日、是非、行わねばならないことは、明日、時間指定(11時)で、入場するハイポジウムに
車で行く道を確認することである。案内書には、大変見つけ難いと書いてあり、車で行くのは
なおさら難しそうである。17時30分ぐらいにホテルを出て、途中、スーパーを見つけて買い物
をする。スーパーの物価は、イタリア同様、日本より安い。
ハイポジウムに行く道で、探している途中、日本の中古車が活躍しているのを見つけ、
面白いので写真を撮る(M102)。当地は、左側通行、右ハンドルなので、日本の中古車を
改造せずに使えて都合が良いのであろう。4度ぐらい聞いて、ようやくハイポジウムの入り口を
見つける。最初、分からずに、ハイポジウムから大分離れたところに駐車したので、1 kmぐらい
歩かねばならなかった。付近は、すべて路上駐車なので、明日、留まれそうな近くの場所の
候補地を2−3探しておく。地図は、[参考1]が一番役立ったが、予測していたとおり、街の中の
大変分かり難いところにあった。聞いてはいたが、それにしても、写真(M103)が示すように、
倉庫街の1つの入り口みたいなものが、世界遺産の入り口であるのに驚く。今まで、多くの
世界遺産を見ているが、民家と同居しているのは、ここが初めてである。

 これだけの用事で、ホテルに戻って来たのは19時45分で、当日の日の入りが19時13分なので、
もう暗かった。

 ホテルの傍に、レストランがあるのかどうか、聞かずに出てしまったので、途中スーパーで
食料を買っていたので、部屋で、作って食べる。

 今日は、朝6時にナポリのホテルを出て、13時過ぎにマルタの空港に着いたにも拘らず、
ハイポジウムの場所を探しながら、マルタの道路事情と運転に慣れた以外は何もできなかった。

●第2日目(9月13日:土)

■ホテル(マルサスカーラ)→マルサシュロック(下見)→ハイポジウム→タルシーン神殿
→ヴァレッタ→日本海軍兵士の墓→同ホテル


 明日、日曜日は、近くのマルサシュロック(Marsaxlokk)というところで、名物の日曜の朝市が
開かれるので、そこへまず下見に行くべく9時20分にホテルを出てマルサシュロックへすぐ着く。
行く道が分かったので、1989年のブッシュ-ゴルバチョフ会談の碑がこの町にあると思っていた
ので、たまたまあった釣具店に入って、場所を聞いてみた。20歳代の若者が2人いたが、この
東西冷戦の世界を変えた会談のことを全く知らなかったらしい。若者が、歴史を知らないのは、
どこも同じなのかと驚く。親切にも、インターネットで調べてくれる。そして、隣の町ビルゼブジャ
(Birzebbuga)にあることは、分かったが、具体的な場所が分からないので、今回はやめにして、
ハイポジウムに向う。それにしても、客はいなかったが、わざわざインターネットで調べてくれる
親切に大変恐縮する。
多少道に迷うことも予想されるし、間に合わないと大変なので、早めに行く。どう走ったのか
詳細は、分からなかったが、偶然にも、見覚えのあるハイポジウムの前に出て、しかも近くの
道路上に駐車する場所が1ケ所空いていたので、そこに留める(無料)。まだ、11時の見学開始
まで30 分以上あったので、100 mぐらい離れた教会(Church of the Christ King)を見る。
外観から見れば、こちらが世界遺産かと見えるほど立派である。ハイポジウム付近の家々は、
マルタの建築の特徴であるバルコニー風の出窓の建物が並んでいることに気づく(M201)。
ハイポジウム(正式には、ハル・サフリエニ・ハイポジウム:Hal Saflieni Hypogeum)には早めに行き、
家内が15時からの入場予定になっているが、キャンセルがあって空いたら、11時に一緒に入りたい
と申し出る。後から来た3人組は、切符を見せたら、間違っていて、翌日の切符であったが、
キャンセルがあればということで、待つ。5分前になっても、計9名までに、4人のキャンセルが
あったので、家内も一緒に入れることになる。因みに、1日7回(9,10,11,13,14,15,16時開始)の
案内があり、計9人× 7回=63人が中に入れる。荷物の持ち込み、撮影が禁止されているので、
待合室から、残念ながら、入り口の写真だけを撮る(M202)。
中に入る際には、各自にガイドホーンが渡される。有難いことに日本語もある。係員1名が
案内で一緒に回る。最初の部屋で、映像によるハイポジウムの簡単な説明がある。
紀元前3000-3600年の頃の建設で、総面積800 m2、地下3層にわたって38の石室があり、
最深部は地下12 mに及ぶことを知る。1902年に民家の建設の際に、その存在が発見されたが、
最初は、公にされなかった。7,000体の遺骨が出てきたので、墓として使われたことは確かで
あるが、巫女の託宣も述べられたということも推定されている。いずれにせよ宗教上の建物である。
エジプトのピラミッドよりやや古く、金属の無い時代に、石器でこれだけのものを作るとは、
その宗教心の強さと技術の高さには驚くばかりである。発見されたときは、各部屋が数メートルの
高さの人骨で埋まっていたそうで、特に個人を特定することなく、人骨を積み重ねて置いていた
とのことである。驚くほど立派な建物であるが、気味が悪い。昔は、この島には人は住んでいなく、
シシリー島の住民の墓場として使っていたらしい。ハイポジウムの中では写真撮影が禁止なので、
購入したパンフレットにある建物の1部の写真を示す(M203)。
見学中に、家内が、通路の斜めになった、水で濡れた鉄板上で滑ってひっくり返り、尾てい骨を
強打した。幸い、骨に異常はなかったようで、旅行を続けられたが、痛みは、しばらく続くことに
なった。鉄板は水に濡れているが、足下は暗くてよく分からない。日本なら、見学者が歩く道が、
こんな危険な状態になっていることはないが、外国では、気配り不足は、よくあることである。
注意書きなどは極力少なく、原則的には、「個人責任」でものごとが動いているヨーロッパでは、
日本人は、特に気をつけねばならないことを再認識した。
約45分で、見学は終わり、外に出る。出てから昨日撮った入り口ではなく、裏に回って写真を
撮る(M204)。民家と隣り合わせであることが、更によく分かる。
ここから、200 mぐらいのところにあるタルシーン(Tarxien)神殿に歩いていく。ここは、マルタの
世界遺産の「巨石文化時代の寺院」のうちの1つである。入り口は、表示がなければ分からない
ほどである。ここは、BC3100年ごろに建設が始まったが、1915年ごろ発掘されるまで長期間地中
に埋もれていた(M205、206)。説明図を見ないと分からないほどに崩壊しているが、動物の絵が
彫刻された石もある。次々と団体客がバスで来るが、そのわずかな間隙では、ほとんど見学者の
いない状態になることがある。個人見学者は、大変少ない。肥満した女性の下半身像は(M207)、
豊饒を表すもので、ここにあるのはレプリカで、本物はヴァレッタの考古学博物館にある。真夏の日
の強さで、屋外の見学はちょっと大変である。団体客は、日陰で説明を聞いている。
見学後、近くの売店でサンドイッチと飲み物を購入し、そのベンチで昼食を取る。
その後、マルタの首府のヴァレッタ(Valletta)(地図M3)に車で行く。ここの城門の入り口広場の
地下に駐車場があることは、予め調べていたが、行ってみたら、偶然、地上の駐車場に入ることが
できる。見張り番の人がいて2 Euroを支払う。値段は、駐車時間に関係ないそうで、かなり安い。
(後日、水曜に行ったら、混んでいて3 Euroであったから、混み具合で、値段を変えるらしく、
長閑なものである。)

 13時40分にヴァレッタに着き、17時20分まで、ここの見所を次々に見る。城門(ゲート)を入った
ヴァレッタ旧市街全体が、1つの世界遺産となっている。城門を入った真直ぐな道(Republic street)
は、常時、マルタで一番人通りが多いが(M208)、そこから北側2本目の平行する通り
(Old Bakery Street)は、もう人通りがほとんどない(M209)。
国立考古学博物館には、先ほど見たハガール・キムを初め、これから見る神殿にあった石像の
本物などが展示されている。ハガール・キム出土のものは、女神像であるそうである(M210)。
首の付け根に穴があるのは、ここに頭部を差し替えて飾ったと見られ、このような方式は他に
例がない珍しいものであるそうである。「マルタのヴィーナス」と呼ばれるものは、ハガール・キム
から出土された高さ10 cm程度のもので、妊娠した女性を表しているといわれるが、正直、
ヴィーナスというほど、美しいものではない(M211)。一番の見ものは、ハイポジウムから出た
BC3000年頃の「眠れる女神像」(sleeping mother goddess)と呼ばれるもので、手のひらに
乗る程度の大きさである。暗いので、写真は、残念ながら少し手ぶれしている(M212)。
表の通りは観光客でいっぱいなのに、博物館には、あまり人が入っていない。
聖ヨハネ大聖堂は、土曜は12時50分に終わったとのことで、また他日、出直すことにする。
騎士団長の宮殿と兵器庫は、同じ売り場で、切符を売っているので、2つが、どういう関係に
あるのかよく分からず、どちらが面白いのか質問をしたら、騎士団長の宮殿だというので、
切符を買って入る。[参考1(地球の歩き方)]を頼りに、一通り見て、この本にある「大包囲戦」
(The Great Siege, 1565年:聖ミカエル砦へのトルコ軍の総攻撃)の図だけが見当たらなかった
ので、女性の監視員に見せて、どこにあるのか聞いたら、本を一瞥しただけで、すぐ案内してくれた。
きっと、日本人で、この本を示して、同じ質問をする人が多いに違いない。上の方にかかっている
タペストリーの絵(M213)で気付かなかった。この戦いではトルコ軍は3万人の兵を失い、
マルタの兵士9千人のうち、生き残ったのは600人という壮絶なものであった。騎士団長の
フランス人のジャン・ド・ヴァレット・パリゾ(Jean de Valette Parisot)の名前を取って、ここに
建設された首都は、「ヴァレッタ」(Valletta;スペリングは微妙に異なる)と名づけられた。
キリスト教世界にとっては、イスラム勢力から守った意義は大きく、マルタの歴史上最大の
出来事であった。なお、ウィキペディアでは、Jean Parisot de Valetteとなっており、パリゾは
あだ名で、大包囲戦の頃、(彼の生誕年ははっきりせず、)70歳前後であったというから、
超人であったことが分かる。1566年より新都市ヴァレッタの建設を命じ、自ら最初の石を運搬し、
1568年に亡くなる。フランスのヴァレット一族からは、十字軍遠征(第1回(1096)〜第7回(1270)
200年間で約700万人参加)に参加したものが多いそうである。
ここを見終わって、ついでなので、また入り口で券を買って、兵器庫も見る。上記の戦いで
使われたのであろう。こんな甲冑をして命を失った昔の兵士たちを哀れと思う。上記ヴァレットの
着けた甲冑も展示されていた。

 ヴァレッタの東側の海岸に出て、ロゥアー・バラッカ・ガーデン(Lower Barracca Gardens)
(M214)まで歩く。そこからは対岸のヴィットリオーザ(Vittoriosa;土地の人はBirguとも呼ぶ)が
見える(M215)。
さらに城門に近いアッパー・バラッカ・ガーデン(Upper Barracca Gardens)(M216)に戻る。
この公園には常時20-30人ぐらいの訪問者がいて見晴らしがよい。対岸には、セングレア
(Senglea)の半島の先にある有名な監視塔(ヴェデット)が見える(M217)。塔に眼や耳の
彫像がついているので、案内書には、必ず出ている。結局、この旅行中、ここには
行かなかったので、遠くから見るだけになった。逆に、この場所からのヴァレッタの景色は
素晴らしいことが想像される。小さな半島のこのセングレアでも、3つの大きな教会
(@Church of St Philip, ASt Julian Church, BChurch of Our Lady Victory)があり、
写真(M217)の手前の赤いドームが@で、次のドームがAと判断するが、地図上でも
書いていない。この半島には、ドックが3つあり、クレーンが見える。
ヴィットリオーザとセングレアとその両者の間のドックヤードクリーク(ガレークリークともいう)
付け根のところに位置しているコスピークワ(Cospicua)の3つの街を総称してスリーシティー
という。これは、この3つの街が同じ城壁に囲まれているためである。

 ヴィットリオーザの左方奥に位置するカルカーラ(Kalkara)の近郊の英軍墓地内に、
第1次世界大戦の際に潜水艦で戦死した日本海軍兵士の墓があることを調べて知っていた
ので、そこを是非、訪問したく思って、予め、日本出発前にネットで調べていた。しかし、その
地図の示し方が、分かりにくかったので、ヴァレッタの城門の近くにある観光案内所で付近の
詳細な地図をもらい地図上に示してもらう。(ここでは、上記のゴルバチョフ?ブッシュ会談の
モニュメントの場所も地図上で教えてもらう。)実際、近くに行ってみたが、よく分からず、
あたりに聞く人さえも見えない。何をするところか分からないが、車道入り口にバーを
降ろした横に守衛所があったので、最初無人なのかと思って入っていったら、守衛の人
がいた。場所を聞いたが、よく分からないがと言いながら、その地図を一生懸命に解読して
くれる。10分ぐらいも見てくれて、車に待たせていた家内は、私がどうなったのか大変心配して
いた。その人の教えてくれた通りに行ったが、やはり、見つからなかったが、たまたま歩いて
いたご夫人に聞いて分かった。それは、イギリス海軍の墓地の一角にあるが、行ってみると、
もう18時10分で墓地の門が、閉まっているように見えた。どうしようかと見ていたら、近くで、
夕涼みをしている人が入れると教えてくれる。確かに鍵は、掛かっていなかった。家内を車に
残して、入ったのはいいが、広大な墓地は、無人で、気味が悪く、日本軍海軍兵士の墓が
どこにあるか全く分からない。まず試しに、右側の道を、奥まで走りながら探す。運良く、
右手の一番奥に、大きな碑が見えて分かる。参拝した後、写真を数枚撮り(M218)、
また走って家内の待っている車に戻る。この間、約15分であった。訪問できなくても
どうということもないのだが、折角、調べて苦労して行ったのにたどり着けねば後味が
悪かったろう。墓碑には、「大日本國第二特務艦隊戦死者之墓」と書いてある。
第一次世界大戦時に日英同盟にしたがって、ドイツなどと戦い、1917年にこの付近で、
駆逐艦「榊」がオーストリアの潜水艦に攻撃され、59名が亡くなり、その他異国で亡くなった
計66名の戦死者名が書かれている。イギリスを応援して亡くなったので、イギリス海軍の
墓地で、一番立派に祭られているのであろう。自衛隊の訓練船が立ち寄る際は、
必ずこの墓に参るそうである。交通の便が悪いので、日本人観光客で、ここに来る人は、
希であろう。この墓についてはwebに詳しい記事がある(例えば、
www.mtajapan.com/kaigunyurai.htm)。第1次世界大戦で、敵国であったドイツと戦うのは、
分かるが、何故遠路、はるばる地中海まで出て行かねばならなかったのか、不思議に思ったが、
これは、1902年に締結された日英同盟条約(1902-1923)のためと分かった。この同盟による
イギリスの援助のお陰で、日本は日露戦争(1904)に勝ち、日本は、忠実にこの同盟条約を
守りたいという気運から地中海まで遠征したようである。
そこから、真っ直ぐホテルに戻り、18時50分に着く。ホテルで、近くに海産物のレストランが
ないかと聞いたら、3分ぐらいで歩いて行ける海岸に面したレストランを教えてくれる。
19時30分にレストラン(Fisherman’s Rest)に行ったら、外の席に1組座っているので、
入ったら、これは、従業員で、誰も、他に客はいなかった。ムール貝や(M219)、魚などを
注文する。最初、ほとんど客が来ないので、営業が成り立つのかと思ったが、そのうちに
だんだん入ってきて、皆、屋内に入って行く。屋外は我々だけで、4-5 m幅の道を隔てた先は、
月の照らす地中海(St Thomas' Bay)の夜景も見え、気温も最適で、大変気持ちがよかった。
注文した鮭が出てきたら、最初1-2匹いた猫が、5匹まで周りに近寄ってきて待機している。
躾ができているのか、空いた椅子まで上がるだけで、テーブルの上までは乗ってこなかった。
魚の端切れをやっても良かったが、癖になっても悪いと思って、敢えてやらなかった。
魚を食べ終わったら、臭いで分かるらしく、すぐ何処かに消えていった。日ごろ猫の顔をまともに
見たことがないので、眼が、緑と黄色である猫もいる(M220)のを知らなかった。マルタは猫が
多い所として知られ、70万匹いて、人口40万人より多く、それで、餌を争いあって取る必要が
あるため、前足を使ってエサを口に運ぶのがこの島の猫達の大きな特徴になっていることを
後で知る。そのことを知っていれば、餌を与えて試してみたのにと思った。猫を嫌って、
常連客が皆、屋内に入る理由が分かった。猫好きの方には特にお奨めの国である。

 ホテルのすぐ脇の海岸には、大きなごみ分別集積容器(可燃、カン、ビン、プラスチック(2))
があって(M221)、常時捨てられるようになっているのに感心する。

●第3日目(9月14日:日)

■ホテル(マルサスカーラ)→マルサシュロック(朝市) →ゴルバチョフ―ブッシュ・モニュメント
→青の洞窟→ハガール・イム神殿→イムナイドラ神殿→イムディーナ→チルケーワ→(フェリー)
→ゴゾ島→ホテル(ヴィクトリア)


 朝、9時25分にホテルを出て、日曜の名物のマルサシュロックの朝市を見に行く。
これを見るために、マルタの旅程を組み、そこに近いマルサスカーラにホテルを予約していた。
「参考2(ロンプラ)」に、ここの駐車場は、車の中の荷物が盗まれるので悪名高いと書いてある
ので、本日ホテルを変わるが、荷物はホテルで預かってもらい後に取りにくることにする。
部屋には、掃除などに2Euroのチップを置いていく。預かってくれるといっても、廊下の隅にただ
置いておくだけで、このホテル付近は、田舎で治安が特に良いらしい。

 マルサシュロックの市は、500 m以上にわたって露店が出ていて、魚、野菜はもちろん、
小鳥、鶏など、いろいろなものが売られていて、多くの人が来ている(M301, 302, 303)。
地元の人も観光客も来ているのであろう。犬まで売っていた(M304)。犬は、値段がでていない
ので売り物かどうか、その時は分からなかったが、帰国後、ある本に朝市では犬まで売っている
と書いてあったので、やはり売り物だったと分かる。マルチーズ犬は、文字通り3000年の歴史を
有するマルタ出身の犬だが、今は、マルタには居ないそうなので、犬に詳しくないのではっきり
分からないが、この犬もマルチーズではないのであろう。アンティーク類は、無かったように思う。
値段は、負けさせるべきかどうか知らないが、高価なものでもないし、交渉するのも面倒なので、
言い値で買った。海には多くの漁船などが停泊している。舳先付近に一対の眼の形のマークが
あるのが、マルタの特徴だそうである(M305)。
1時間以上、見たり、買い物を楽しんだ後に、隣の町にあるゴルバチョフ―ブッシュ会談の
モニュメントを見に行こうとする。ちょうど朝市を見に来ている団体客を待っている観光バスの
運転手と案内人に行き方を聞く。一方通行などあって、簡単には行けなかったが、近くで2度ほど
聞いて、ようやく海に面したモニュメントに出ることができる。
実際の会談は警備の都合上、このマルサシュロック湾内のソ連の客船マクシム・ゴーリキー号上
で行われたそうである。そのモニュメントの建っている場所は、駐車場になっているのか車が、
無秩序に並んでいて、1人も観光客などは来ていない。前世紀の世界で最も重要な歴史的会談
の1つのモニュメントも約20年を経て風化しているのに驚く。実際、モニュメント自体もほとんど
手入れされてなく、印字された字も擦れている(M306)。「Geroge Bush, Mikhail Gorbachev,
23 XII, 1989」とあり、その下に、マルタ語、英語、ロシア語で、「End of the cold war」に相当する
語が書いてある(M307)。3ヶ月前には、アイスランドのレイキャヴィークの、この会談の先駆け
となった1986年のゴルバチョフ?レーガン会談の行われた建物を見たが、そこが、よく保存されて
いたのとは対照的であった。この業績でゴルバチョフは、1990年度のノーベル平和賞を受賞する
ことになったが、人の心は、移り気なもので、この現代の世界史を大きく動かした会談の碑に、
辺鄙な所とはいえ、1人の観光客もいないのは、驚きであった。マグロ(地中海マグロと称され
ている)の畜養場はこの湾内の右手対岸の付近にある。
次に、マルタ版、青の洞窟を見に行く。洞窟に行く船乗り場の手前に、洞窟が良く見える公園が
あり、バスで行く場合は、止まらないので、よく分からないが、車で行くと、看板が出ているし、
車が2?3台止まっているので分かる。上から、その洞窟の様子がすぐ分かるし、観光船が通って
いるのも見える(M308)。光線の加減か、あまり海の色は綺麗に見えない。カプリ島で、有名な
「青の洞窟」を見てきた直後でもあり、また、洞窟の様子も、上から見えるので、船には乗らない
ことに決める。そこで、しばらく眺めてから、船乗り場まで行ってみる。途中、駐車場があるが、
構わず、船着場まで車で行き、次に、高台に行きそこから船着場を振り返って写真を撮る(M309)。
更に、先に進んで、近くのハガール・イム神殿(Hagar Qim Temples)に行く。道路の一画に
駐車するところがあり、そこに止まると、番人が来て、その裏にあるイムナイド神殿
(Mnajdra Temples)への行き方を丁寧に説明してくれる。駐車料を聞いたら、思し召しとのことで、
2Euro払う。それで、最初、聞いてもいない行き方を丁寧に教えてくれたことが分かる。
こちらとしては、車内の見えるところに荷物を積んでいるので、駐車料を払ってでも見張って
いてくれる方が有難い。BC2800~2400年に建てられたハガール・イム神殿は、駐車場の
目の前にある(M310, 311, 312)。入場料はシニアー1人4.66 Euroであった。入場料が半端な
値段なのは、この年(2008)、通貨がマルタリラからユーロに変わったためであろう。
次に、そこから約500 m離れたイムナイドラ神殿を見に行く。道の先端に入り口が見える(M313)。BC3000~2400年に建てられたというからハガール・イムよりやや古いらしいが保存状態は良い
(M314, M315)。ここを離れるときに雨がぱらつき始めた。久しぶりの雨らしいが、ほとんど
降雨量ゼロであったが、夏から秋に変わり始めている兆候であろう。この2つの神殿は、
1839-40にかけて掘り出されたそうであるが、以後、太陽などに当たって、劣化が進んでいる
ので、シェルター(覆い)を被せて防ぐ計画が、2000年に勧告されたという表示が出ていたが、
まだ、それが始まってはいない(2009年から始まったということを後で知る)。しかし、しばらく
前の旅行記を見ると、自由に入れた場所が、現在は、綱などが張って人間のいたずらなどからは、
ある程度、防げるようにしてあるが、風雨や、日光からは全く無防備であった。また、無人監視
のモニターが設置されているのかもしれないが、警備の人は、誰もいない。ここの帰り道に
日本人の若いカップルに会ったが、バスで来たらしい。ほとんどの人が、バスで来るようで、
バスの到着直後以外は、2,3組の見学者しかいない。なお、日本人や東洋人の観光客は、
マルタ滞在中、ほとんど、見かけなかった。
今日は、夕方までに、ゴゾ島に渡らねばならないので、ここから、フェリーの乗り場へ行く道の
途中にあるイムディーナに向かう。丘の上にあり、急勾配の道の先にメイン道路があり、そこで、
1時停止しなければならず、後ろに車がいなくて助かったが、車に馬力がなく、日ごろ、
マニュアルに慣れてないので、坂道発進にちょっと苦労する。城壁の入り口の前には、
有料(2 Euro)駐車場があって、番人がいるので、車に荷物を積んで外から見える状態なので、
このことは大変有難い。この城壁町は1565年のトルコの侵攻まで、首都であったが、
この大包囲戦の勝利後にヴァレッタにその座を譲った。現在は「静寂の町」と言われるが、
昼間は、城門を入る観光客で賑わっている(M316)。ここでの主な建築物は、聖パウロ
大聖堂である。城壁からの周囲の眺望は、マルタ独特のものであり、緑もあるが、水不足から、
くすんで見える。中央に見えるのは後日見るそこから東北の方向約3kmにあるモスタのドーム
である(M317)(モスタのドームは、後述M501)。城壁内は、メインの道は賑わっているが、
ちょっと脇道に入ると、人がおらず、静寂の町という雰囲気が漂っている(M318)。また、
城壁の外からは、場内の見張り台がよく見える(M319)。
この町を見終わったのは、16時30分に近かったので、ゴゾ島へのフェリーの出るチルケウア
(Cirkewwa)に向かうことにする。参考1の地図では、途中にカート・ラッツがあるので、
もし見つかれば、見ることにしたが、やはり見つからない。走っているうちに、17時15分発の
フェリーに乗れるかもしれないと思ったので、急ぐ。フェリー乗り場の近くで、先に走っている
バスが見えたので、間に合ったかと思ったが、最後に、間違って、船の乗り場に入らず、
駐車場兼出口に回ってしまったために、間一髪で乗り遅れる。
船着場に塔があって登ってみると出て行った船と、ゴゾ島から来る船が見える(M320)。
風が強く、白波が立っていて、塔にいるのも大変なので、すぐ降りる。次の船は、18時発で
45分待たなければならないと思ったが、今日は日曜で、ゴゾ島から帰ってくる人が多いため、
臨時便が運行しているらしく、30分待つだけですんだ。どうやら、ゴゾ島はマルタ島住民に
とっても週末の観光地であるらしい。入場口は、間違って入ってきた場所より手前側であって、
そこに戻って、車の中から、乗船券を買って乗り込む。以前の観光書などでは、帰りに支払うと
書いてあるが、往きに支払うことに変更されていた。乗船券は、車+運転者が往復15.70 Euro
と1人追加分が往復4.65 Euroで、計20.35 Euroであった。ゴゾに行く船は、大変空いていて、
波があるにもかかわらず全く揺れもしないで快適であった。途中、右手にコミノ島がよく見えるが
(M321)、ここは、事実上、無人島らしい。
ゴゾ島には、30分ぐらいで着く。途中どこにも寄らずに、今晩泊まるゴゾ島で一番大きな
都市ヴィクトリア(Victoria)に真直ぐ向かう。ヴィクトリアは、坂のある町で、メインの通りは、
車も人も大変込み合っていて、ドライヴしにくい町である。その中心街にようやく仮に止めて、
家内を残し、人にホテルの場所を聞いて、まず歩いて行って道を確かめてから行く。
ここも一方通行の道が多いので、予め歩いて道を確認してから行って良かった。幸い、
ホテルの周りは、車や人の往来も少なく、十分広い駐車場も完備していて、十分明るい
19時20頃にホテルに着けた。
マルタは、夏の間は、土、日には、花火を上げる習慣があるらしく、ここゴゾ島でも、
遠くで花火が上がっていたが、部屋は、その方向(北)に面していなかったので、
外に出なければ見られなかった。
夕食は、ホテル内で取ったが、土、日に用意しているブッフェスタイル(日本でいうヴァイキング)
のものを選んだ。

●第4日目(9月15日:月)

■ホテル(ヴィクトリア:ゴゾ島)→ジュガンティーヤ神殿→風車博物館→カリプソの洞窟
→ヴィクトリア城砦→ヴィクトリア市内→同ホテル


 朝、アズ―ル・ウインドーに行こうと思って出かけたが、風が強いので、予定を変更して
ジュガンティーヤ神殿(Ggantija Temples)に向かう。途中で、遠くに後に近くから見る
キリスト像が見える(G401)。駐車場があるかどうか分からないので、車を大分、
離れたところに停めて、歩いて行く。町に隣接してあり、紀元前40世紀に建造が
始まったそうで驚く。シニアーの入場料は1人2.91 Euroであった。今までに、3つの
神殿を見ているので、特に感心することはなかった(G402, G403)。
そこを出て約3分のところにあるタ・コーラ風車博物館(Ta’Kola Windmil)を見に行く。
工事中のためか風車自体は取り外されていた(G404)。上記神殿の入場料に含まれる
と以前の案内書などに書いてあるが、今は、別個になっている。ほとんど、ここを見に
来ている人はいなかった。50年近く前までは一般家庭で使っていた棹秤など道具類の
展示もあり、それなりに面白かった。見学後、家内を待たせて、車を取りに行くが、広場で、
どの道から来たか分からなくなり、1つ1つ探しに入って確かめるのに20分ぐらいかかって
しまう。途中、面白い装飾を施した豪邸でもない普通の家があったので写真を撮る(G405)。
マルタの家は、ほとんど花を飾っているところがないことに気づく。水不足のためか、
花そのものもあまり無い。車を探しに長時間かかったので、家内が心配して待っていた。
人に聞きようもないので、駐車場所をよく覚えていないほど、始末の悪いことはない。
次にカリプソの洞窟を見に行く。地図で見ると海の近くにあるので、海の方に向かったら、
ラムラ湾(Ramla Bay)の海水浴場に出てしまう(G406)。やや離れた崖の上に数人の人が
出て、周りを見渡している。最初は、これがカリプソの洞窟のある所だとは分からなかった。
歩いても登って行けそうなところにあるが、人に聞いたら、車で行ける回り道を教えてくれる。
思ったよりも遠く、2 km近くあったと思うが、カリプソの洞窟に着く。入り口に珍しく土産物屋が
あるので、入場料を聞いたら無料とのことである(G407)。今回の旅行では、頭部につける
携帯電灯を用意してきたので、それを着けて、家内を待たせて入る。最初は、3−4 mの
高さを垂直状はしごで降りていくが、その先は(G408)、真っ暗な、ほぼ平坦な穴になっている。
奥行きは10 mもなく、屈んで行かねばならなく、何もとりたてて言うほどのものはなかった。
ホメロスの叙事詩「オデュッセイ」に、この島はオギュギエ島として出てくる。オデュッセウス
(Odysseus)が7年間妖精カリプソに閉じ込められたロマンに満ちた洞窟というイメージは全くない。
見るのに10分とはかからなかった。入場料を取らない理由が分る。他の訪問者は、灯りを
持ってきていないのか、誰も洞窟に入ってこなかった。外に出て、先ほど行ったラムラ湾を見る。
その眺めは大変美しい(G409)。
次にマルサルフォルン(Marsalforn)にあるソルトパンを見に行く。ソルトパンというのは、
海水から、塩を取る塩田のことである。町外れに、海に沿って遊歩道のある公園があったが
誰も歩いていない。ソルトパンらしきものは、見当たらず、聞く人さえもいない。
あきらめかけたとき、遠方1 kmぐらいの場所に妙な形の小山があるのが分かったので(G410)、
それを見に行くことにする。行くと、小山の横に、ソルトパンらしきものがある(G411)。今日は、
波が高いので、時々、海水が入っていて、そこで乾燥して塩が生成しているようである。
どれくらい古いものか、現在も使われているのかどうかは分からなかった。見に来ている人は、
誰もいなかった。ただ、他の人の旅行記では、いろいろな色をしていたと書いてあるので、
現状とは違う。夏の間は、現在でも、製塩しているそうである。すぐ横にある、先ほど遠方から
見えた白い小山は、周りの土の色とは異なり、白色で、人工の山のようにも見えるが、
それにしては大きく、異様で、正体は分からなかったし、どの説明書類にも書いてない(G412)。
素人で分からないが、もし、天然の石灰岩であれば、その生成過程は学術的に興味がある
ように思える。近くには、ヴィクトリアからも見える(G401)、小ピラミッドの上に立つキリスト像
(Monument of Christ)がある(G413)。近づくには、Redeemer(救い主)という名称の96 mの
丘を登らねばならないので止めた。1900年代に建てられた木製のものに代わって1970年代に
建てられたと「参考2:ロンプラ」には書いてある。像は、リオデジャネイロ・スタイルなのだそう
である。リオデジャネイロには行ったことがないが、コルコバードの丘にある巨大キリスト像
(1931年建立)に形を似せたのであろう。
昼食を取るためにホテルに戻る。マルサルフォルンからヴィクトリアまでは、主要道路があり、
すぐ帰れた。途中、下からヴィクトリアの写真を撮った(G414)。
昼食後、ヴィクトリアの大城砦(シタデル)など、この町を見る。城砦内にある大聖堂(G415, 416)
は、1697-1711年の建立だそうであるが、資金不足から天井のドームができず、遠近法によって
立体的に見せるようにした。実際、自分は、そう言われなければ気がつかないほど、うまくできて
いる(G417)。この騙し絵によって、この大聖堂は有名になったので、何が幸いするか分からない。
城壁からは360°方向眺められ、なかなかの眺望であり、写真(G418)前方には、南東3 km
先に位置するシェウキーヤ教会が見える。さらにその先の僅かに見える海の先方にはマルタ島が
見える。この写真の左端に見える、両側が、傾斜し、中央が平らな白い屋根を持った建物は、
スポーツジムで、その真向かいに当たる左側のわずかに見える4階建て建物が、宿泊している
Downtown Hotelである。
城壁を一巡りして、城壁内にある考古学博物館、民族博物館、自然科学博物館のうち、
恐らく、一番人気がないが、自分には興味深い自然科学博物館に入る。予想していたように、
誰も他にいなかったが、1人受付にいた、たぶん館長と思われる方は、大変喜んで迎えてくれた。
マルタの鉱物、宝石、古代人、植物、鳥などの陳列があり、そこそこ面白かった。大城砦の壁に、
この城砦の修復などに資金を援助している国として、アイスランド、リヒテンシュタイン、ノルウェー
の3国の名前が書いてあった。何故、この3国なのかと不思議に思う。このすぐ後(2008年秋)に、
アイスランドは、経済破綻することになる。
ヴィクトリア(人口6600人)の町中を少し、歩いてみる。表通りはどこも、路上駐車しているので、
車は渋滞していて、空気が悪く、埃っぽく、歩くのは気持ちよくない(G419)。ショッピングセンター
の地下に、旅行案内所があり、そこで、スーパーマーケットの場所を聞く。
もう1つのショッピングセンターが、ホテルの近くにあり、その地下にあることを教えてくれたので、
そこに買い物に行く。
夕食は昨日に続きホテル内で取ったが、月曜なので、昨日のホテル内レストランは開いてなく、
日ごろ喫茶室となっているところで、簡単な食事をした。

●第5日目(9月16日:火)

■ホテル(ヴィクトリア:ゴゾ島)→アズレ・ウインドーとインランド・シー→タピーヌ教会→
灯台→シェウキーヤ教会→イムジャール→(フェリー)→マルタ島→(ホテル)→
モスタ・ドーム→サンアントン・ガーデン→カート・ラッツ→ホテル(メッリーハ)


今日も風が強いが、ゴゾ島滞在最後の日なので、まだ行っていないゴゾ島の西端近くにある、
主要な見所のアズレ・ウインドーに行く。まだバスが来ていない時間なのか、他に1組しか来て
いない。写真で見ていたように美しい形をしている。しかし、波が高く、今日は、船めぐりは
出来ないことを悟る(G501)。
インランド・シーは、最初どこにあるのか分からなかったが、右手の小道を降りていったところに
あることが、少し上がって、下を見て分かる(G502)。丁度アズレ・ウインドーの裏手の岩が侵食
されて、穴が開き、内側に海水が流れ込んでいるので、インランド・シーと名づけられている。
今日は、海が荒れているので、遊覧船が出ないが、ここの桟橋から、手漕ぎの船が出て、
穴を通って外洋に出て、アズレー・ウインドーなどを廻るらしい。船頭と思われる人が3,4人
集まって、話し込んでいる以外は全く人がいなかった。周りの建物は、船頭さんの住居か、
あるいは単に、ボートの倉庫かは分からないが、人影はない。絵葉書で見ると、最盛期の船が
出るときは、この桟橋(G503)から次々に船がでるようである。また、このインランド・シーの色は、
いつもくすんだ緑色をしているようである。穴からは、直接外海が見えないが、相当波が、
入ってくるところを見ると、外海はごく近いようである。遊覧代は、乗る人数によって変わることが、
旅行記に出ていた。いずれにせよゴゾ島滞在の2日間は風が強く、この船に乗れなかったのは
多少残念であった。
駐車したアズレー・ウインドウの近くに戻る。そこの目の前にゴゾグラスの工場(G504)があるが、
まだ早いのか(9時40分)、もう営業していないのか、少なくともこの時は開いていなかった。
その場所から海に向かって左手遠方にフンガスロック(Fungus Rock)が見られる(G505)。
Fungusとは、この岩に生える特別な寄生植物で、緑の葉を有しないのでfungas(菌類)と名づけ
られたそうである。この海中の岩山よりも、むしろ左手のほぼ垂直な崖が、見事である。そこに
行く車道はないが、近くにある丘の上の塔(Qawra TowerあるいはDwejra Tower)に登れば、
景色が良かったかもしれない。この西海岸付近は、もう少し、時間をかけて歩き廻る価値が
あるように思えたが、少し時間が足りなかったのが残念であった。
ヴィクトリアに戻る道の近くにあるタピーヌ(Ta’Pinu)の教会堂(バシリカ)に行く。この教会は、
土地の婦人(Carmela Grima)が1883年に神との交信ができるようになり、奇跡が起こり建てられ
たものを1920年に改装したので、現在は、いろいろ願をかけ、それが適ったお礼状などが
壁いっぱいに並んでいる。マルタのルルド版であろう。中には、義足が取れるようになった人
までいるのか、それを奉納、展示している(G506)。信心の深さに厳粛な気持ちになる。
この教会から、遠くに灯台(Gordan Lighthouse)が見えるので、行ってみる。灯台に登って行く
道は、車が行き違えないほど狭かったが、誰も来ていないので、その心配はなかった。
灯台(G507)は無人で、そこから、今、訪れたタピーヌの教会もよく見える(G508)。また、何の
目的で使われているのか分からない、古代遺跡の跡のような、小さな丘が見える(G509)。
乾いた土地に、うちわサボテンがあちこちに生えている(G510)。シシリー島や、チュニジアにも
多くあり、チュニジアでは、貧しい子供が、道端で売っていたが、美味しいものではない。
この時期、半ば砂漠化したマルタで、農業だけではやっていけないであろう。
ホテルのチェックアウトタイムが12時ということで、ホテルに荷物を取りに戻って、
チェックアウトする。
マルタ島に戻るフェリーのゴゾ島の発着場のイムジャールに行く途中で、シェウキーヤ(Xewkja)
の教会に立ち寄る(G511)。昼のためか、閉まっていて中に入れない。他の方の旅行記では、
中で信者が、自分たちの作ったレースなどを販売していると書いてあったので、購入したかった
が残念であった。
フェリーの乗り場に着いたが、帰りは乗船券のチェックは全くなかった。12時50分発の船は、
火曜の昼の為か大変空いていた。離れる船から見るイムジャールは、人家も多いが、昼食時
のためか、あまり人影は見えない(G512)。そして、ここにも教会らしきものが2つも見える。
風は強く白波が立っているが、大きなフェリーは少しも揺れなかった。
マルタ島の港のチルケーワに着いて、そこから4?5 kmのメッリーハ(Melliha)にあるホテルに
チェックインしてから、10 kmぐらい離れたモスタ・ドーム(M501)を見に行く。町の混雑した一角
にあったが、有料の駐車場があったので容易に入れる。ヨーロッパ最大級のドームだそうで、
ここに限らず、マルタには、人口の割には、立派な教会が異常なほど多くある。税金から
回されているのか、信者の寄付によるのか知らないが相当なものである。内部(M502)には、
第2次世界大戦でドームを突き破って落ちてきた(ドイツ軍の)不発弾のレプリカが展示されて
いるそうであるが、うっかり忘れていて見過ごしてしまった。
次に、そこから約2 kmの近さにあるサンアントン・ガーデンを見に行く。道を、ドームで聞いて
行ったが、道はなかなか分かりにくかった。1623年に建てられた宮殿だそうで、マルタには
珍しく樹木の多い庭園となっていて、噴水もある(M503)。1921年(第一次大戦直後)に、
昭和天皇が皇太子時代に植樹をしたという記事を本で見ていたので、それを、庭園中、
時間をかけて探したが、見つからなかった。後で聞いたが、枯れてしまい今はないそうである。
五重の塔は、すぐに目に入る(M504)。下には「Goj?-no-t? (Five-stored pagoda) This is a gift
from the Copper-ware manufacturers of Takaoka Japan and Japan Cherry Blossom
Association in 1970:日本高岡市高岡銅器業界有志 日本さくらの会」と書いてある。
隣は、首相官邸になっていて(M505)、入り口は、道に面して別にありで、一応、番兵が
立っていた(因みに、人口30万人のアイスランドでは、番兵は居なかった)。
次に、マルタで是非見たいと思っていたカート・ラッツ(cart-ruts)を見に行く。カート・ラッツに
近いブスケット・ガーデン(Buskett Garden)までは、割合順調に行けたが、そこから一方通行
から抜け出す道が分からず、2、3回元に戻ってきてしまう。何とか脱出して、ようやく入り口の
看板のあるところに出る(M506)。すでに18時である。辺りには、全く人影はない。道を進んで
いくと、右側に分かれる道と真直ぐな道があるが、どちらに行くのか分からない。
左手に管理事務所のような建物があるが、無人で、聞きようも無い。右に曲がる道の方向に
標識がないので、普通に考えれば、直進すべきと考えて直進するが、それらしきものは、
見当たらないし、誰も聞く人もいない。谷や潅木の林を越えた先方にコンクリート工場のような
ものがあり、ダンプカーみたいなものが、動いているのが見えるので、家内を置いて、道なき
道を切り開きながら、谷を越えて、そこまで聞きに行く。ようやく、ダンプカーの運転手をつかまえ
てカート・ラッツのあり場所を聞くが、よく知らないという。それで、また、家内の立っている場所
を目印に戻って帰る。もと来た道の遠方に何処から現れたのか2人の若い女性が歩いている
ので、追いついて、カート・ラッツのあり場所を聞いたら、自分たちも探しているところだと言い
ながら、未練もなく、真直ぐ帰って行った。もう、時間も遅いのだが、ここで、見ずに帰って
しまったら、後味が悪いので、先ほど、2またに分かれたところの、もう一方の折れる道を、
家内を後にしてどんどん先に行ってみる。右の斜面にカート・ラッツを見つけたときは、大変
嬉しかった。遠く後ろから付いてくる家内を大声で呼び、自分は、その斜面に降りていく。
深いところでは、50 cm近い深さがある。写真を何枚か撮る。2方向に分かれているものも
ある(M507)。家内は、普通の常識人で、あまり興味が無いらしく、斜面を降りずに上から
唯眺めている(M508)。カート・ラッツの目的は、海から、巨石を運ぶ車の為に使ったというのが
有力な説であるらしいが、水路説もあり、その使途は確定していないらしい。2つの溝が平行して
ついているので、荷車の通り跡のように思えるのだが。ネットに割合最近(2005)の、その使途に
ついての研究発表論文がでているのを、日本を出る前に見ていた。日本人にとって不思議に
思うのは、こういう文化遺産が、縄も張らずに自由に入れることであり、しかも、実際いたずら
されないで残っていることである。
最初に看板を見てから1時間ぐらい経過したように感じたが、意外にも30分ぐらいしか時間が
経っていなかった。当地の日の入りが19時15分ぐらいなので、まだ40分ぐらい日没前であった。
島のカート・ラッツの地図は、帰国後ネットで見つけたが、前に見つけるべきであった。
http://www.ancient-wisdom.co.uk/Images/countries/Maltese%20pics/maltamap1.jpg
満足して、ホテルに戻る。ホテルの向かい側の、自分たちの部屋から見える海鮮レストラン
(Ta’ Peter)に行き、夕食を取る。客は数組と少ない。魚をカートで、客席に見せてまわり、
注文を受けていたが、魚ではなく、貝類を注文した(M509)。数年前に、スペインで食べた
マテ貝もあり、カート・ラッツを見た満足感もあり、ビールと共に大変美味しかった。

●第6日目(9月17日:水)

■ホテル(メッリーハ)→ヴァレッタ→ディングリ・クリフ→聖パウロ教会と洞窟、
地下墓地 (ラバト) →ソルトパン(サリーナ湾)→同ホテル


 まだ、見残しているヴァレッタに行き、先日は土曜の午後で閉まっていたセント・ジョーンズ
・コ・カセドラル(あるいは、聖ヨハネ大聖堂)(St.John’s Co-Cathedral)に入る。Co-という
のは、ラテン語のcum(with, avec)からきた言葉で、「共同の、共通の、副...」を意味し、
イムディ―ナにある聖パウロ大聖堂(後のM610)と同等なものとして、1816年にローマ教皇の
布告により認められたことを意味する。この教会はバシリカで、ヴァレッタで、最も訪問者の
多い建物のようである。フラッシュ使用の可否は、よく分からず遠慮したので、多少手ぶれ
する(M601)。教会内で、肌を露出した服装をしたり、携帯で話をしたりしている若者もいる。
国籍は分からないが、躾の悪さは、世界的な傾向なのであろう。教会のすぐ横に聖ヨハネ
大聖堂美術館が付属してあり、カラヴァッジョの絵2点(「聖ヒエロニムス」と「聖ヨハネの斬首」)
が、ここの目玉であるが、ヨーロッパでは希な撮影禁止である。カラヴァッジョの絵は、すでに
シシリー島のメッシーナや、今回直前にナポリでも見ているので、特に珍しくはない。絵は大変
上手いと思うが、黒を基調とする作品は、あまり好きではない。
  外に出て城壁に上がってみる。バスの駐車場が見える(M602)。この島のバスはここを
基点に全島に行き、隣のゴゾ島まで繋がっている。この島の唯一の公共交通機関で、
猫バスとも言われる。今回は車を借りたので、1度も利用しなかったが、入り口の扉が無いと
いうことをどこかで読んだ。常時、そんなに混んではいないということであろうか。

 次に、島の南西部の海岸にあるディングリ・クリフ(Dingli Cliff)を見に行く。途中空港を
横切る地下の道を通り抜ける。ここから、アフリカ大陸のチュニジアの海岸までは300 kmで
あるが、やはり見えなかった。崖の下のほうには、一部、何かの工場がある。特に綺麗な
ところではなく観光客もほとんど来ていない(M603)。近くのレストラン(Bobbyland Restaurant)
で昼食を取る。付近には、多分、通信塔に使われているのだと推定するが、ドームの付いた
建物(IT-turret)がある(M604)。正多角形を組み合わせて球体を作るには、正5角形を取り
入れる必要があるそうであるが、ここでも確かに正5角形があり、つまらないことで納得する。
(因みに、フットボールは、12枚の正5角形、20枚の正6角形からなる。)
 次に、イムディーナに近いラバトの聖パウロ教会とその洞窟、聖パウロの地下墓地を見に
行く。「参考1」では3星のついた見所である。パウロがローマに送られる途中遭難してマルタ島
に立ち寄った。新約聖書の「使徒行録」第28章に「救われた私は島がマルタ島といわれるのを
知った。土人たちは私たちに一方ならぬ同情を寄せた。....」とある。この難破の日は2月10日で、
宗教的祝日となっているばかりでなく、多くの伝統行事や、伝説を生み、それらは、今もマルタ人
の日常生活の中に生きている。
この教会も探すのに少し手間取る。1675年に建立の教会の正面祭壇の左側のニッチには、
聖パウロの左腕が安置されているそうである(M605)。祭壇の絵は、マルタ騎士団員で
画家のマッティア・プレッティによって描かれた。礼拝堂の横に入る洞窟は、案内人が
説明してくれる。他には、3,4組の見学者がいた。説明は無料であるが、寄付という名目で、
献金した。難破した聖パウロが滞在していた洞窟だそうで、聖パウロの彫像がある(M606)。
1902年にマルタを訪問したローマ法王のパウロ2世もここで祈りを捧げた。その左にある
銀製の船(M607)は、1960年に、パウロの船の難破(60年)の1900年を記念して付け加えられ
たそうである。早朝か、午後遅くを除いては団体客が多いそうであるが、この写真を撮ったのは、
15時30分ぐらいで、数人しかいなかった。あまり見物人がいないと、そんなに価値のあるものか
という気持ちにもなる。
この洞窟の近くにある聖パウロの地下墓地(M608)はマルタ一番の規模の地下墓地で、
1000の墓地があり、4-6世紀にキリスト教徒が埋葬されたそうであるが、1894年に再発見
された。中の、ニッチ(窪み)(M609)は、その用途が未だ解明されていないそうであるが、
遺体を一時安置した場所ではないかと、自分は、想像した。
外に出ると、近くからは、先日行った、ここから北東約1kmにあるイムディーナの聖パウロ
大聖堂が見える(M610)。

 次に、また島の北側のブジッバ(Bugibba)にあるソルトパンを見に行く。
途中、サリーナ(Salina)湾の海水浴場を見る。泳いでみたくなるような雰囲気のない
小さな海水浴場であった(M611)。
ソルトパンは、入り江の奥にあり、先日見たものとは大分違って、大きな囲いが見えるだけで
あった(M612)。この付近は漁師たちの住んでいるところのようで、近くで涼を取っている
漁民のおばさんに聞いたら、今は、たまたま水量が多くて、ソルトパンらしくないが、生産して
いると教えてくれた。
ホテルに帰って、前日に引き続き、2階の我々の部屋の道隔てた向側の海鮮レストランの客の
入りを見計らい適当な時間に行き夕食を取る。

●第7日(9月18日:木)

■ホテル(メッリーハ)→戦争博物館→ 空港(ヴァレッタ)→ローマ→成田

 マルタ旅行の最終日で、14時5分発のローマ行で、ローマ経由で帰国することになっている。
午前中だけ、観光できるので、ヴィットリオーザ(Vittoriosa)の戦争博物館を見に行くことにする。
博物館(M701)といっても、防空壕が見たかったので、そこだけを見ることにする。ベッド、換気扇、
トイレも付いていた。祭壇(M702)まであることに、市民の信心の深さを見る。第二次大戦中は、
マルタは、イギリス領であったので、ドイツ、イタリアの爆撃を受けたが、この防空壕は、機能した
のであろう。

 ヴィットリオーザの半島の先まで歩けば、先日ヴァレッタから見た監視塔(M217)があるが、
そこまで歩いていくと1km以上あるので、行くのは諦めて早めに空港に行く。多少時間があったので、
この半島のどこかからヴァレッタの町の風景を見ておくべきであったと後で思う。   
 12時半前に、車を返し、14時5分発のアリタリア航空で、ローマ経由(約6時間待ち)、ローマ発
21時50分発、成田到着、翌19日16時55分着で無事帰国した。


地図
クリックすると大きくなります
M3
マルタ写真館