CANADA3−4

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●モントリオール(Montreal)
モントリオール(仏語:モンリオール:Montre'al)には14時30分に到着する。町の中心のベリ(Berri)通りにホテル(Lord Berri)を予約していたので、アクセスと、駐車に心配していたが、バンクーバーで購入していた地図のお陰で割合簡単に到達することができた。ここも、協和海外旅行社のホームページから予約して、有名地の町の中心にしては安かった(2人朝食なし14,000円)。隣の駐車場は、ホテルとは別経営で、空き地があり、ほとんど満車状態であるが、管理人のお兄さんが、鍵を預けていくと中の車を、次々動かし適当な位置に収めてくれる。1日15$であった。ホテルのエレベーターの表示を見たら、1階がRC(rez-de-chaussee)となっていて、米国流(=日本流)ではないことを知る。部屋に入ると、喫煙の罰金の表示がある(Mt1)。カナダのほとんどのホテルに、同様の表示があるが、大抵100$の罰金であったが、ここは200$である。スピード違反より高い。バンクーバーのホテルの部屋でも、同様の表示があったが、入ったら、たばこ臭かったから本当に罰金を取るのか疑わしいが(前編)。
当市では、名門大学のマクギル大学(McGill University)をまず見たかったので、家内とは別行動にして、歩いていく。片道1.5 kmぐらいあるが、町の中心を通るので、途中、町を見ながら行くことができる。丁度、ジャズ・フェスティバル(6月28日―7月8日)の最中で、町の中央(Ste-Catherine、Maisonneuve、Jeanne-Mance、St-Laurent通りで囲まれた一画)を仕切って演奏が行われている(Mt2)。ジャズは、あまり分からないので、見ないことにする。人口約350万人で、トロントに次いで人口が多い都市だけあって、オタワとは違い、人通りが多い。
歩いていたら、外貨の交換レートが出ている(Mt3)。後から考えると、円安のピークとなった時期で、2日前の、観光地ナイアガラよりは大分ましであるが、買値は1$=120円という円安である。この表示に注目したのは、その意外性で、ドイツ、フランス、ベルギーなど、2002年にEuroに変わった国の通貨の交換レートが出ていることである。これは、一体何の役に立つのであろうか。
郊外に土地はいくらでもあると思うのに、この1821年創立のマクギル大学は、町の真ん中にある。丁度、神田の駿河台に大学があるような感じである。大学の博物館(Musee Redpath)にまず入るつもりが、大学の向かいにある大学には関係のない博物館(Musee McCord)に間違って入ってしまう。博物館に入ろうと思った理由は、少なくとも、博物館は、一般人が大学の中で合法的に入れるところなので、深い意味はない。入ったら、子供の一団しか、他にいない。地図を出して確かめたら、大学の向かい側にあって、大学とは全く関係ないことに気付く。折角、入ったのだからと、駆け足で廻る。途中、看視人に会ったので、何か尋ねてみたが、全く無視して行ってしまう。もしかしたら、耳が聞こえないのかと思う。もう1度、会ったので、また別のことを話しかけたら、別の人を連れてくる仕草をする。要するに、英語が分からないらしいことが、ようやく分かる。ここは、フランス語圏で、英語が、まったく分からない人もいることを知る。下手なフランス語会話の勉強の良いチャンスと思ったが、時間が無いので、止めて出る。
今度は、大学の構内に入る。裏門に面して化学の建物がある(Mt4)。こんな町中にあって、化学実験がまともにできるのかとも思う。ここは、英語の大学なので、英語の表示で書いてあるが、フランス語の大学としては、モンリオール大学(Universite de Montreal)が別にある。マクギル大学には、大学時代、研究室で自分を指導して下さった大先輩が留学されていたこともあり、自分には興味があったので、わざわざ見に来た。1992年にノーベル化学賞を受賞したマーカス(R. Marcus)が、大学・大学院は、ここで学んでいる。キャンパス内に入ってみる。「地球の歩き方」にも載っているRedpath博物館は、17時を過ぎていたので、すでに遅く閉まっていた。化石とか鉱物などの博物館と聞く。キャンパスは、都心にあるために、狭かった。夏休みに入っているのか、学生もあまりいなかった。正門を通って出てくる(Mt5)。
また、違う道を通ってホテルに帰る。途中、中華街(Mt6)を通り、夕食はここで取ろうと考える。
カナダ探検で有名なジャック・カルチエ(広場)(1534年に仏領カナダ領有を宣言する)という文字が目に映った(Mt7)ので銅像があるのかと探してみたが、近くには、英国系住民への公平を配慮したためかトラファルガー海戦(1805年)でフランス・スペイン軍を破ったネルソン提督の銅像があるのには驚く。自分は、1986年にフランスのモン・サン・ミッシェルに近いサン・マロ(St Malo)の城壁上で、カナダの方向を指差すジャック・カルチエの銅像(Mt8)を見て以来、その行き先のカナダでの銅像も見たかったが、結局、今回の旅行では銅像に廻りあえなかった。
ホテルの近くの、同じ通りに「公文」の学習塾があるのに驚く(Mt9)。看板に「威達」(Wil Da)と書いてあるので、中国人が多いのかと思う。他にあるポスターはフランス語で書いてあったので、フランス語で授業をしているのであろうか。他で聞いたが、バルセロナにも「公文」があるそうである。
ホテルに戻り、家内と500 mぐらい離れた先ほど通った中華街(Mt6:前出)に行き、夕食を取る。中華街は、100 mぐらいの道の両側に、レストランや、食べ物店が並んでいて、横浜の中華街のようなものであるが、規模は、それより小さく、人通りもそう多くはない。1つの店に入るが、肉が中心のカナダ料理よりは、自分には、上手くて、安い。持ち帰りをしている客もいる。
家内が、セント・ローレンス川の川縁の景色が良かったというので、そこを通りながら、ホテルに帰ることにする。近くに、当地出身の歌手セリーヌ・ディオンが結婚式をあげたことでも有名なノートルダム大聖堂があるが、うっかり見忘れる。セント・ローレンス河畔の風景は、なかなか美しい。遠くに、見たいと思っていた万博跡のドームと思われるものが見えるので(Mt10)、翌日、見ることにする。

Mt11
Mt12
Mt13
Mt14

●モントリオール万博とノーベル化学賞
 モントリオール市内はあまり見ていないが、ここには、1泊しかしないので、翌日は、午前中に、250 km以上先のケベックに向けて出発しなければならない。万博跡のドームが見えたので、6日朝ホテルを出る際に、フロントで、行き方を聞いてみる。フロントの係りの人は、20歳代前半の女性であったが、まず、ドームが通じない。川岸から向こうに球状の建物と言っても分からない。1967年にEXPOが行われた会場と言っても、なお更分からない。考えてみれば、ちょうど40年前であるから、この人が生まれる20年も前のことなので、分からなくても不思議ではないことを理解する。あるいは、英語は、やや不得意なのかもしれない。多分、川の中の島(セントエレーヌ島)にあるらしいので、そこに行く橋に出る方法を聞く。9時30分にホテルを出る。そこへの橋に出るのに、曲がる場所を1つ間違えて、やり直して、一回りする。途中、谷になったところがあり、谷底から上がる部分の道端(Frontenac通りという一方通行路)で、警官が、下ってくる車のスピード違反をレーダー状のもので見つけている。上記の理由で、同じ所を2度通ったが、ほとんどよく知っている人ばかりなのか誰も捕まってはいない。警官は見たところ1人であったので、自動速度取り締まり機の場合のように、違反切符がいきなり郵送されてくるのであろう。ところで、後でも記すが、自分の車は、前のナンバープレートが無い(Dv1;後出)。
 橋を渡って島に入ったが、最初は、ドームが見えず不安であったが、しばらく走っていたら、急に、近くで見つけることができる(Mt11)。島全体が公園のようになっていて、平日なので、人は、あまりいない。
 どうして、このドームが、是非見たかったかは、次のような理由による。1999年6月1日、自分が上智大学の化学科に勤務していた頃、C60の発見で1996年度のノーベル化学賞の受賞者になった(3人のうちの1人)のハラルド・クロト(Harald Kroto)先生の、「地球に舞い降りた天空の球」と題した講演会が上智大学で行われた(Mt12)(http://www.st.sophia.ac.jp/scitech/scitech/no11/no11.html)。化学科の大橋修教授の昔からの友人という関係で来訪されたものであった。自分は、たまたま、学科のセミナー委員であったので、司会ばかりでなく、講演内容の抄訳を大学から依頼されたので、講演内容をよく記憶している。クロト先生は、星間分子の研究家であったが、炭素などが真空中でどういう形の分子を取りえるかを研究していたが、米国のライス(Rice)大学(テキサス州)のカール(R. Curl)教授の紹介により、同大学のスモーレー(R. Smalley)教授が、分子量を測れるマス・スペクトロメーターを導入したことを知り、1985年9月に2週間、共同研究を行いにライス大学に行く。大学院学生らの実験協力により、12×60=720の分子量のところに、異常に高いピークを見出し、それが、C60(以後、C60と記す)であることを見出す。これが、どういう形をしているか、最初は分からなかったが、数学者などにも教えてもらい、フットボールの模様と同じ形をしていることが、やがて分かる(Mt13)。それを論文にして、雑誌Natureに投稿するに当たり、この化合物の命名について議論する。クロト教授は、以前から、図形について趣味をもっておられ、1967年にモントリオール万博のアメリカ館(米国の有名な建築家Richard Buckminster Fuller(1895-1983)が設計)の印象が強く、その設計者の名前に因んで、バックミンスターフラーレン(Buckminsterfullerene)と名付けることを強く主張されたらしい。他の人は、サッカーのボールに因んで、サッカーレンとか、フットボーレンを主張されたらしい。なお、日本では、サッカーという名前が一般的であるが、世界では、フットボールと呼ぶのが一般的なようである。結局、クロト先生の主張が通ってBuckminsterfullerenと名付けられることになった(現在は、フラーレン(Fulleren)といわれる)。察するに、クロト先生は、自分でなければ思いつかない名前を付けることによって、この研究における主導性を明確に示されたかったのだと思う。このことが、原因かどうか分からないが、先日亡くなられたスモーレー先生とは、仲が大変悪くなったことは、学会ではよく知られている。講演の前から、そのことを知っていたが、失礼なので、何故仲が悪くなられたかは、お聞きしなかった。クロト先生は、お話が大変お上手であるという点でも、世界的に有名な方であって、お話は、今まで聞いた講演中で一番と言っても過言でないほど、面白かったし、講演後の懇親会でも、学生に気軽にサインをして下さった(Mt14)。講演の内容の詳細は、上記サイトを見れば、分かり、化学者でなくても分かる部分が多くあるが、例えば、「世の中、真面目な人はユーモアがないことで、もっと悪いことは、ユーモアがある人は真面目でないことである」などと言われ、英国人流のユーモアにも溢れていた。C60は、いわゆるナノテクノロジーの中核をなすものであり、また最近は実用に役立つことも分かってきている一方、あまりに小さく安定なので、生体への悪影響も言われ始めていて、まだ、これから研究しなければならないことも沢山残っている。
このノーベル化学賞は、いろいろな点で興味深い。まず、この授賞対象の研究は、クロト教授のライス大学訪問中の1985年9月のわずか2週間滞在で始まり、論文書きまで含めて、2週間で終わったことである。2週間の研究でノーベル賞をもらった例を他に知らない。論文には、他に大学院生も名を連ねているが、ノーベル賞は3人までという規則によって、彼らは除外されてしまい、その後、大量製法を見つけたドイツのグループも除外され、ほとんど仲介しただけのカール教授は受賞した。この発見直後から、この仕事は、ノーベル賞を受賞することは、誰もが予想して、クロト教授は入るとして、他の2人は誰が入るのか、話題になっていた。この物質が、有名になったのは、その機能だけではなく、その形がフットボールと同じであったことも大きい。実は、北大(当時)の大澤映二先生が、ある雑誌で1970年(化学、25, 854 (1970))に、このような形の化合物があってもよいことを予想しておられた。勿論、クロト先生らが、そのことを知られたのは、後になってからである。
それでは、フットボールのデザインは誰が、考え出したものであろうかと思う。ウィキペディアによれば、考案者は、特定しておらず、フットボールは、1960年代には、手縫いのものは、ほとんど(牛は神聖でないと考える)パキスタンで製造され、正5角形12枚、正6角形20枚の牛革から作られてきたそうである。しかし、これらは、子供の労働に大きく頼っていることから問題になり、1998年のワールドカップからは、手製のものは採用されなくなった。自分は、クロト先生の講演を聞いて、サッカーの模様には正5角形が入っていて、これがないと、6角形だけでは、球状にならないことを初めて知った。正5角形を組み合わせれば、全ての正多角形から球ができるのだそうである。
この、講演以来、モントリオールのアメリカ館は是非見たいと思うようになったが、まだ現存するものかどうか、よく調べてはいなかった。
それが、今、直径76mの巨大な球状として目の前にある。よくも40年間保存しておいてくれたと感謝する。辺りは、万博時と違って、閑散としていて、当時コンクリートであった部分も大分、土に戻して、木が植えられているように見える。中は、博物館になっているようであるが、外形を見たくて来たので、中には入らず、いろいろな角度から、また距離から、ドームだけで15枚も写真を撮っていた。

Mt15
Mt16
Mt17
Mt18
Mt19
Mt20
Mt21

●サンテレーヌ島(Ile Ste Helene):万博跡の公園
ついでに、近くを歩いてみる。オタワでみたものと同じ、マーモットを見る。穴があり、臆病で、ちょっと驚くと、すぐそこ(Mt15)に逃げ込む。中から、次々に3匹も出てきて、あたりを伺っている(Mt16)。長い冬眠に備えて丸まると太っている。多くの鳥(Mt17-19))もいる。写真(Mt18)の鳥は、羽の一部が赤いから、名前はすぐ分かる。別の写真(Mt19)の鳥名は、脚の上方の星状の模様から判断したが、間違っているかもしれない。
公園内には、案内所まであって、地図などをくれる。休憩所もあって、アイスクリームを食べたが、他に客はいないほど空いている。
モントリオールは、あまり見る時間がなかったが、先を急がねばと、11時25分に、ケベックに向けて出発する。この公園の高台からのモントリオール市内の眺めが良いことを、後で知ったが、事前の調べ不足で、行けなかった。高台からではなく、河畔で町を取った風景は平凡であった(Mt20)。
途中、たまたま、1976年のオリンピック会場の前を通ったので、車を止めて写真を撮る(Mt21)。このオリンピックは、莫大な赤字を計上し、住民の税負担となり、次の1980年のモスクワ大会をはさみ、1984年のロス・アンジェルス大会から、採算が合うように、商業化を加速するきっかけとなった。アマチュアリズムが薄くなったのは、モントリオール・オリンピックの大赤字のためであることを知る。
写真説明
● モントリオール
Mt1:ホテルの室内の禁煙警告
Mt2:ジャズ祭り開催の垂れ幕
Mt3:不思議な外貨交換レート表
Mt4:マクギル大・化学教室
Mt5:マクギル大学正門
Mt6:中華街
Mt7:ジャック・カルチェ広場
Mt8:サン・マローのジャック・カルチェ銅像(1991年)
Mt9:公文学習塾 
Mt10:サンテレーヌ島を背景とするセント・ローレンス川
Mt11:モントリオール万博(1967年)のアメリカ館
Mt12:クロト教授(1996年ノーベル化学賞)の上智大での講演
Mt13:ノーベル賞100年記念切手(英国)絵はがき(フラーレン)
Mt14:実験衣にフラーレンのサインをするクロト教授(1999)
Mt15:マーモットの巣穴
Mt16:巣穴から出てきたマーモット
Mt17:万博跡公園の鳥:コマ・ツグミ(American robin)
Mt18:万博跡公園の鳥:ハゴロモ・カラス(red-winged blackbird)
Mt19:万博跡公園の鳥:ホシ・ムクドリ(stirling)
Mt20:サンテレーヌ島から見たモントリオールの町
Mt21:オリンピック(1976年)メイン・スタジアム