SICILY A
Mo1
Mo2
Mo3
●モンレアーレ(Monreale)とエーリチェ(Erice)(ノルマン文化)
 パレルモを車で観光するのは、自分にはできないので、すぐ町を出て8 km先のモンレアーレに向かう。
町は、標高310 mの山の上にあり、下の眺めも良い(Mo1)。ここには、1174年に建立されたドゥオーモが
ある。内部には、旧約聖書、新約聖書に基づいたモザイク画が壁にあり、中でも、アダムとイヴの絵が
面白い(Mo2)。室内遠景なので、どれも手ぶれしているのが残念である。ドゥオーモに隣接する回廊付
中庭は、すばらしい(Mo3)。
次にエーリチェに向かう。エーリチェも最高751 mの山の上にあるというのに、多くの建物があり、道の
両側には、車がぎっしり並んで駐車しているので、車を停めて町を見ることもなかなかできないが、
ようやく町の外れに駐車できる場所を見つける。町は一辺が500m程度の3角形をなしている。シチリア島
には、山の上に都市があるところが多いが、これは、防衛上の問題からそうなったものである。一体、
こんな山で、人々は何で生計を立てているのか不思議である。‘下界’との交通の往来はあまり無いので、
この町は、ここだけでほぼ独立して、成り立っているように思える。交通の便も悪いし、観光客も極めて
わずかなように見える。上から周りの眺望はよいが、町自体は、道が車で占領されていて、美しくない。
遠くに見えるのは12 km北東に位置するほとんど無名の山(Monte Cofano;659 m)と思われる(Er1)。
当地エーリチェでは、1ケ所、下からほとんど町まで達する山火事の跡があった(Er2)。湿気の多い
日本では山火事は少ないが、シチリア島が乾燥しているためであろう。当地で一番高所(751 m)にあり、
見所のノルマン城に行く(Er3)。古代からあったヴィーナスの神殿跡に12-13世紀にかけてノルマン人に
よって建設された。トラパーニ(Trapani)の塩田も下に見える(Er4)。右手にある島は、逆光で青くしか
写っていないが、エガディ諸島3島の1つファヴィニャーナ島である。トラパーニから約18 kmでフェリー
で1時間で、人口4600人で、観光で賑わう春夏の中心街は活気で満ち、魚介が美味しくマグロの追い込み
漁が売りだそうだ。島の東半分はほぼ平坦で、西半分にある最高峰が300 mである(机 直人著「イタリア
魅惑のビーチ」東京書籍)。この写真からも、地形の記述どおりの姿が分かる。BC 241年のポエニ戦争で
血に染まったことから名付けられたカーラロッサ(赤浜)とセルリアンブルーが美しいらしい。今回、後の
ヴルカーノ島しか行かないが、シチリア島の周りの島々もすばらしいらしい。
近くのトラパーニやセジェスタにも寄りたかったが、ホテルのチェックインが6時までなので、早めに切り上げ、
マルサーラに向かう。マルサーラは、ヴィラ・ファヴォリータという値段(2人朝食付90 Euro)の割には、豪華
なホテルで、バンガローやプールなどもあり、部屋は2階であったが、部屋の2倍ぐらいの広さのテラスも
ついている一番よい部屋を宛がってくれた。当日の夜は、結婚披露宴のパーティーがあり、100人近く来て
(Ma1)、花火も上げていたが、宿泊客はわずかであった。気候もよく、夕食後、テラスでビールを飲みながら
星を眺めているのは気持ちがよかった。
Er1
Er3
Er2
Er4
●マルサーラ(Marsala)(製塩の町)
 朝、マルサーラの塩田風景を見に行く。Salaというのは、Saltと同じ語源で、塩田は昔からあったものと
推定するが、案内書には300年の歴史を持つと書いてあるから、塩田として整ったのが、この年代なので
あろう。Mareは海を意味するから、マルサーラのマルは海に由来するのであろう。ホテルから、海岸線に
沿って延々と塩田が続き、ところどころにある海水を汲み上げるのに使っている風車と相まって長閑な
景色である(Ma2)。前日行ったエーリチェの山もみえる(Ma3)。シチリア島の観光客は、パレルモとアグリ
ジェントを結ぶ線より、西側では、極めて少なく、ここも、車が無いとなかなか来られないのでほとんどいない。
この半年前に、ニュージーランドのマールボロで見た製塩工場は10 mぐらいの高さに塩が積まれていたの
で、集塩の方式が違うことを知る。この地は、ワインの産地としても知られ、4つの大ワイン工場があるという
が、ドライヴで試飲もできないので、立ち寄らないことにする。
 シチリア島を訪問する前に、自分がこの島で思い出す人は、わずかにガリバルディー(Giuseppe Garibaldi
:1807-1882)しかいなかった。ガリバルディーは、シチリア島出身で、1860年にシチリア島から兵を起して、
イタリアを統一したと高校の世界史で習ったことを今日まで覚えていたが、この人は、もっと大変すごい国際
的な活動家であったことを、今回、初めて知った。彼は、1807年にニースで沿岸貿易を営む一家に生まれ、
そのため海には慣れ親しんで育った。因みに、当時ニースはイタリア領(サルジニア王の支配下)であったが、
フランスがイタリアの統一を助けた感謝の贈り物として、後年フランスに与えられてしまい、彼は、それを大変
残念に思った。ニースという名前は1859年に付けられたそうである。ウィキペディア(英語版)には、9ページに
もわたって彼の波乱万丈の一生が書いてある。ロシア、モロッコ、ニューヨーク、アンデス、イギリスなどを訪問
・滞在している。1854年に再び、イタリアのカプレラ島に渡り、そこで農業に従事した。

シチリアからの救援の要請を受けた彼は、ジェノヴァで赤シャツ隊(千人隊)と呼ばれる義勇軍を組織し、
その千人隊を率いてジェノヴァを出発し、シチリアの救援に赴いた。1860年5月11日に、シチリア島最西端の、
このマルサーラに2隻の船で上陸し、フランス守備隊を破り、パレルモに攻め入り、7月末までにはシチリア
全土を占領した。8月にはイタリア本土に上陸し、北上して9月にナポリに入城した。そして、10月26日にチアノ
(Tiano)(ナポリとローマの間にあるカゼルタの郊外) というところで、サルジニアの王ヴィクト−ル・エマニュ
エルII世と会談し、彼の支配している地域を渡し、イタリアの統一がなった。それで、ローマにはヴィクト−ル・
エマニュエルII世の馬に跨った大きな銅像があったことが結びついた。ガリバルディは、カプレラ島に引退し
、いかなる恩賞も受け取らなかったそうである。その後、1861年に、アメリカの市民戦争が起こった際に、
リンカーンに義勇軍を送ろうとし、少将(major general)として招かれたが、彼の出した2つの条件が満たされ
なかったので、やめにした。2つの条件は、1)奴隷制度の完全撤廃、2)全軍の指揮を任すことであった。
リンカーンは最初から全面的奴隷解放を言っていたわけではないことをどこかで聞いた記憶があるが、
やはりそうであったのかと思う。ガリバルディは、リンカーンとも関係し、最初から奴隷解放を主張していたよう
で、私欲のない大変な英雄であったことを初めて知った。1960年にイタリア統一100周年を記念して「イタリア
万歳」といういわば記録的な歴史映画が製作されたそうであるが、見てみたいと思う。
Ma1
Ma2
Ma3
写真説明

Mo1:モンレアーレからの眺望
Mo2:アダムとイヴをテーマにしたドゥオーモの壁画
Mo3:ドゥオーモに隣接する回廊
 
Er1:エーリチェからの眺望
Er2:エーリチェの山火事の跡
Er3:ノルマン城
Er4:ノルマン城からの眺望(塩田とファヴィニャーナ島)
 
Ma1:マルサーラのホテルの結婚披露宴
Ma2:マルサーラの塩田
Ma3:塩田とエーリチェ遠景