TUNISIA D
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Ca2
Ca3
●カルタゴ(Carthago)またはカルサージュ(Carthage)(有名な古代都市)
 学会6日目(9月21日)の午後は、恒例として全員参加の遠足がある。今回はカルタゴに行くことに
なっている。高校の世界史の古代のハイライトの1つとしてカルタゴの話は出てくるから、それ以来、
忘れられない名前である。なお、現地では、カルタゴは、フランス語(英語も同様)のカルサージュ
(Carthage)という名前で呼ばれている。ラテン語ではカルタゴ(Carthago)といい、イタリア語では
カルタジーネ(Cartagine)という。当時の高校の参考書を取り出してみると、ローマとポエニ(ローマ人は
カルタゴ人のことをポエニ人と呼んだ。[*注])との間の戦争は、3回にわたって行われたことが書いて
ある。第1次ポエニ戦争(BC264~241)、第2次(BC218~201)、第3次(BC149~146)のいずれも、ローマ
が勝利した。第1次戦争では、シシリー島(シチリア島の英語読み)をローマがカルタゴから奪った。
第2次戦争では、カルタゴの名将ハンニバル(Hannibal)が南フランスから進軍し、象を引き連れて
アルプスを越えて北イタリアに侵入したが、ローマ軍はアフリカに渡ってカルタゴ本国を狙ったので、
ハンニバルは急遽本国に帰ったが結局ローマに負けて、イスパニアを譲り、軍艦は、焼かれ、莫大な
賠償金を50年かけて支払った。それでも、カルタゴが頑張って復興してきたので、ローマの元老院の
カトー(Cato、BC 234~149)は「Delenda  est carthago:カルタゴ滅ぼさざるべからず」と演説を繰り返し、
第3次戦争を起こしてカルタゴに勝ち、町を灰燼と化し、生き残った人間は、奴隷にし、その土地には
塩を撒いて不毛にし、カルタゴを完全に抹殺し、ローマは、長期の安定繁栄期を迎える。戦争勝利者側
は、敗戦者側を人間もろとも壊滅しなければ、いつか復習を受けるという歴史の残酷さは、以後、今日
に至るまで多くの場所で見られることになる。([*注] ポエニ戦争は、ラテン語:Bellum Punicum、
英語:Punic War、イタリア語:Guerra punica, フランス語:Guerre puniqueである。「ポエニ戦争」という
日本語はおかしいと思う。「ピューニック戦争」とでも教えるべきであろう。こういう日本人だけにしか
通じない固有名詞を教えられると、外人との話では通じなく、世界史を習ったことが何の役にも立たず
大変残念である。ポエニの元となった言葉はPoeniciで、これはPhoeniciのことで、ポエニ人とは、別に
習っていたフェニキア人のことであることを、今回調べて分かる。ただ、忘れていただけのことかもしれ
ないが、勉強した世界史の本を見直しても書いてない。

いずれにせよ、固有名詞の読み方は、特に中国名について、世界史の学校教育は、大変間違っている
と思う。)このようなわけで、カルタゴの本来の遺跡というものは、ほとんど残っておらず、カルタゴにある
ローマの遺跡が、いわゆる「カルタゴ遺跡」であることを知った。トフェの遺跡には本当のカルタゴの幼児
の墓があるそうであるが、そこには案内されなかった。この写真(Ca1)は、カルタゴ遺跡の中心(史跡
公園)のもので、案内人の説明では、下部の方がカルタゴのもので、それを破壊した上に、ローマが
建てたそうであるが、どこのまでの部分がカルタゴのものが残っているのかよく分からない。
ちょっと書物などを見ても、この場所では、本来のカルタゴの遺跡の部分の写真は出ていない。
案内人が、見物人をがっかりさせないためのリップサービスなのかもしれない。その周辺には、
浴場などの広大な、ローマ遺跡がある(Ca2)。遠方に見える島状のものは、200 km先のシチリア島では
なくて、ボン岬半島であろう。隣接して高台に大統領官邸がある。海岸に面した一等地であるが、
近づいたり、近くで写真を撮らないようにガイドから最初に注意を受ける(Ca3)。写真の白壁に囲まれた
国旗の立っているところが大統領官邸である。ベンアリ大統領(1936-)は、1987年に、30年間続いた
独裁者ブルギバ大統領を無血革命で辞任させ、大統領になり、終身大統領制を廃止し、直接選挙で
選出し、任期は5年、3期までとする憲法改正をした。しかし、その後また憲法を変え、それから20年
経ってもまだ大統領職に就いている。学会の会場を初め、バルドー博物館など、あちこちに大統領の
写真が掲げられているから、実際は、独裁的なのであろう。
東にリビア、西にアルジェリアという過激派の国と隣接しているため、難しい舵とりを迫られているが、
基本的には非同盟中立を保っている。アラブとの友好に気を配りながら、欧米諸国とも密接な関係を
保っている(「チュニジアガイドブック」楽天舎ブックス)。日本とは1956年の独立以来国交があり、
ビザ無しで、訪問できる。

 次に、チュニスの北東17 kmに位置し、地中海に面し、チュニジアの中でも最も美しいとされて
いるシディ・ブ・サイド(Sidi Bou Said)にバスで移動する。この名前はムスリム名をもつ聖人の名前から
付けられた。坂の中腹にあるアラブ伝統様式の個人邸を博物館にしたダル・エル・アンナビ(Dar El
Annabi)を見学する(入場料は、2.5Dであるが、学会参加費に含まれている)。「ダル」というのは
アラビア語で「家」を意味するらしい。チュニジアンブルーが白色に映えて大変美しい。中庭のような
天井ガラス張りの部屋ではお茶がサービスされる(Ca4)。ここに写っているのはおおむね学会参加者で、
中央に腰掛けている女性が、主催者のGaune-Escard教授(プロヴァンス大)である。50以上もある
どの部屋も、タイルの模様と青が美しい(Ca5)。高いところから見た周りの家々も大変美しい(Ca6)。
ギリシャのミコノス島の色調と感じが似ている。
チュニジアンブルーは、この空の色と、建物のブルーと、地中海の色を言う。この町を見ていると、
今でも、貧富の差が大きいと感じる。世界最古のカフェが近くにあるというが、ここでお茶を飲んだので、
自由時間に行かなかった。買い物などのための短い自由時間の後、バスでハマメットに帰り、夜には、
恒例のバンケットが開かれた。
Ca4
Ca5
Ca6
写真説明

Ca1:カルタゴ遺跡
Ca2:ローマ遺跡
Ca3:ローマ遺跡から見える大統領官邸
Ca4:ダル・エル・アンナビの中庭
Ca5:ダル・エル・アンナビの1部屋
Ca6:博物館からの眺め(チュニジアン・ブルー)